第三章 ー18ー
逃走経路というだけのことはあって、夕月や常和と別れて入った道は随分と入り組んでいた。
見つかる危険性を考えて手元の灯りは消したまま、私達は黙々と歩く。横道の燭台だけが唯一の灯りで、視界の心許なさに精神を嫌な方向に持っていかれそうになり、私は男性と逸れないことに意識を向けようと必死になっていた。
「夕澄様、大丈夫ですか?」
男性に急に声を掛けられて、一瞬反応が遅れる。慌てて大丈夫だという返事をする。男性は、ならいいんですが、と返してきたが、あまり私の返事を信用していないような声色だった。
「私のような会って間もない人間ではなく、夕月様や常和様が共にいた方が貴方も安心だったでしょう」
男性の言葉に、咄嗟にそんなことはないとは返せなかった。少し間をあけて言葉にしてみてもどうも嘘くさく、二人の間に重い沈黙が流れる。
実際、不安は増大していくばかりだった。夕月や常和が一緒にいてくれた方が心強いのは確かだし、何よりこちらとしても彼らを心配する必要がなくなる。
夕月のことは、常和がいるから大丈夫だとは思うのだ。常和は私のことを2度も強い妖から守ってくれた。彼に任せておけば、余程のことがない限り夕月の身に危険が及ぶことはないはずだ。彼なら必ず夕月を守ってくれるだろう。夕月もまた、私達と彼らが合流できるように常和とともに行ってくれた。だからまた会えるはずなのだ。それでも不安は尽きない。けれど今は、彼らを信じるしかない。
不安なのはむしろこちらの状況だ。私も男性もいざという時に戦える人間じゃない。襲われたら多分、ひとたまりもないだろう。この道に入ってすぐに男性がこの道はほんの一部の人間しか知らないと言っていたが、それでも万が一、という可能性は捨てられない。
こちらに来てからずっと常和や煉華達と一緒だったこともあって、いつ襲われるかわからない上にそれに対処することも出来ない今の状況は恐怖以外の何物でもない。
せめて、戦える人が誰かいればいいのに。そのような思いが頭を掠めた時、ふと、私達のものではない足音が響いた。それが思いのほか近く私は身を縮こまらせて思わず音の逆方向に逃げようとしたが腕を掴まれ、悲鳴を上げそうになる。しかしすぐに、後ろから腕を回され口を塞がれた。
「おっと……静かにしてくれ。気付かれたら困るのはそっちなんだから」
騒がないか、と耳元で男の人の声で囁かれて、私はこくこくと頷く。すると、背中に感じていた体温が私から離れていった。近くで、私達を助けてくれた方の男性の驚きの声が響く。慌てて振り返ると、暗さでぼんやりとした視界の中で、見たこともない男性が立っていた。
「貴方は、先程の……宰相の部下の方では」
「ああ。結局気になって見に来てみたんだが正解だったようだ。さて、君とは初めましてかな」
宰相の部下だというその男性は爽やかに微笑んで私に挨拶する。私が戸惑いながらそれに答えると、警戒されているな、と彼は笑った。
「先程言われた通り、俺は宰相の部下だ。名前は言えないが、そうだな、妖浄士だからヨウとでも呼んでくれればいい。一応味方だとだけ言っておく」
ヨウと名乗ったその男性は、私達に腰の刀を見せると、助けに来たといった。こんな目にあっている原因である宰相の部下をそんなにすぐに信用できるはずもなく少し距離を置く。しかし男性はあまり警戒していないようで、何故ここに、と近付いて普通に話しかけていた。
その問いに答えたヨウによると、どうも部下とはいえ、宰相に同調している人間ばかりでもないようだ。しかし彼らはあくまでも部下にすぎない。命令に逆らえば、下手をすれば命がない。それを恐れて宰相の命令を聞いている人間も少なくないという。
ヨウは自分もそうだと言うと、男性にこの辺に敵はいないから灯りをつけても大丈夫だと促す。それに従って男性によって辺りが多少明るくなると、ヨウの容姿がより鮮明になった。髪はそれ程長くはなく、首のあたりで切り揃えられているが、クセが全くないのが見てわかる。袴に羽織というスタイルは常和たちと同じで、宰相に捕まった時に見たこちらの妖浄士たちとも変わらない。常和達よりも背丈はありそうで、少し見るだけで見惚れてしまいそうな容姿をしていた。しかし、会ったこともないはずなのに、何故か親近感を覚える。よく分からないが、彼は信用してもいいような気がして、私は身体から力を抜いた。
彼はそれが分かったのだろう、笑みを深めると私に手を差し出した。握手を求められているのに気が付いて緊張しながら手を差し出すと優しい力で握られ、そして離される。そして、ヨウは辺りを少し見まわしてから眉間に皺を寄せた。
「俺が刀を返してやった奴と……君の弟は?」
「二人なら、本来の道を行きました。私達が逃げたのがばれるまでになるべく時間がかかるようにって」
私の返事にヨウは眉間の皺を深くする。そして、妖浄士はまだしも一般人が、と小さな声で呟いた。そして、無茶をするなとため息を吐いた後、仕方ないかと首を振る。
「まあそういうことなら、君達を守るのは俺だけというわけだ。武術の心得がある人間がいた方が何かといいだろう、ここを出るまでの間は俺が護衛するよ」
君は普通の医者だったよな、とヨウが男性に声を掛けると、男性は頷いて助かりますと言った。どうやら不安だったのは私だけではなかったようだ。
ヨウは、後ろから敵が来る可能性を考えて後ろを歩くことになった。灯りを持ち道を知っている男性が先頭を行く。安心したからだろうか、男性は先程よりも少し歩調が早くなっていて、私はスピードを落としてもらおうと声を掛けようとする。しかし、そういえば、男性に名を聞いていないことに今更気が付いた。彼は最初から、私達に名を名乗ってはいない。
そこで、急に頭にあることが浮かんだ。何故彼は私達に名前を名乗らなかったのだろうか。何か事情があるのか、それとも必要がなかったからか。それに、ほんの一部の人間しか知らないはずのこの道を、何故彼は知っているのだろうか。海斗に聞いたのだろうか、それとも。
でももし仮に、そこまで怪しい人間ならば、夕月が私を彼に託す筈がない。それに海斗への尊敬を喜々として語っていた彼が、海斗の敵であるとは思えない。それに何故だろうか、彼を疑う理由なんてどこにもないような気がした。
「少し歩調が速いんじゃないのか。女性がいるんだぞ」
後ろから、ヨウの声がかかる。男性は慌てて立ち止まって私達に謝り、海斗が心配であることを告げた。それはそうだろう。夕月が言っていた通りなら、海斗の身が危ない可能性があるのだから。
そんな男性に、ヨウが今は私達が無事に到着することが一番重要だと諫めると、男性は頷いて、歩調を緩めて再び歩き出す。
「夕澄様は」
ヨウが急に声を掛けてきて、私は振り返った。そのまま歩き続けるように言われて再び前を向くと、ヨウはそのまま話し始めた。
「蒼龍姫の能力のことをどう思っている?」
「どうって……いわれても。正直現実感がないというか」
正直な所、自分のことなのに自分のことではないような、そんな状態なのだ。自分が何かよくわからないものになってしまったような気はするが、能力を使ったのも結局一度きりで、実感なんて湧きようもなかった。そもそも、妖障は珍しいという常和の言葉が本当なら、私が能力を使う場面などそうそうないだろう。だから、それを正直にヨウに告げると、彼はそれもそうかと小さく笑う。
「それでいいのかもしれない。能力者は人間で、得体の知れないものではない。人とは違うことがひとつ出来るだけだ。でもそのせいで本人も思い悩むことが多いらしいからな。周りも、知れば態度が変わる」
「私も最初は悩みましたよ、でも常和がお前はお前だっていってくれたし、私を私として見てくれる人がいるから」
私が蒼龍姫になって、環境は少し変わった。皆が私を蒼龍姫として扱うようになったし、今のこの状況のように、良くも悪くも特別であることを痛感させられることもある。でも、私に良くしてくれていた人は皆私を必要以上に特別扱いはしないし、以前のように接してくれている。和真だって、私が蒼龍姫だから色々言うこともあるけれど、彼のあれは必要だからであって、私の身を守るためのものだ。彼もまた、私を“蒼龍姫”として見ているわけではなく、私がたまたま蒼龍姫だっただけのように接してくれている。そこに、ちゃんと“私”はいるのだ。
だから、悩む必要などない気がした。蒼龍姫であってもなくても、私は変わらないのだと思わせてくれる人がちゃんといる。蒼龍姫は私の一要素に過ぎない。
「そうか、君は強いな。でもそれで分かったよ、君が大事な弟をあの妖浄士に預ける気になった訳が」
ヨウはそう言って私に微笑んだ。私は首を傾げて彼を見たが、それ以上のことをヨウは話さない。
前方で、男性が出口が見えたと言っている。ようやくここから出られる、そう思って息をついたその時、ふと向こう側が何か騒がしいのに気が付いた。
扉が、音を立てて開かれる。光が一気に差し込んで目が眩む。やはり蒼龍姫はこちらから来たかという声が聞こえ、私は恐怖に身を凍らせる。
しかし、微かな視界の端でヨウが私達の前に出るのが見えた。誰だ、という敵の声と、息を呑む声。
気が付けば、光になれた私の目には、その場に倒れた数人の人々と、ヨウの背中が見えていた。俺がいてよかったな、とヨウが言う。振り返った、その瞳が私を見る。
「だが、君はもう少し人を疑う事も覚えた方がいい。俺は本当は宰相の部下でもこの国の人間でもない。俺の本当の名前は」
――九重 陸火というんだ。
私の元に歩いてきて、言葉の最初から最後までを私の耳元で囁いた彼の瞳は、煉華よりも濃く、暗い赤色をしていた。少し見ただけでは黒と間違えてしまいそうなほどの赤だった。
そして、彼は私に微笑んで、燈樺と煉華をよろしく頼むよという言葉を残して行ってしまったのだった。




