第二章 -20-
「あれが……蛇魅?」
空に届くような巨大な深緑色の体躯。それ故に視界に入るのは本当に一部分だけだったが、それでもわかる。まさにその姿は蛇そのものだった。
ただし、その巨大さと禍々しい気配と、黒い靄がそれを取り巻いているそれ以外は、だが。
「夕澄様は、化け猫に遭遇されたと聞いていましたが……」
私を引っ張っていた護衛役が、そう私に声を掛ける。
「あんなんじゃ、なかった……」
禍々しい気配は左程違いはないだろう。しかし、視界から入る情報が、威圧感を増すのだ。それに化け猫はあんなに雄叫びはあげなかった。
それに、化け猫の時には余裕そうだった常和と雅人の怒鳴り声が耳を突くのだ。
「ぼーっとするな! 死にたいのか!」
「予想以上のでかさだな……! もう時間が経ちすぎていたのか……!?」
雅人がこの国の妖浄士に怒鳴る声。
常和が予想外だと焦る声。
それが、私にこの状態の危険さを感じさせるのだ。
「夕澄様、大丈夫です。清宝の妖浄士は大陸一優秀だって有名なんですよ」
馨がそう私に言うが、その声の硬さは、彼も焦っていることを感じさせていた。
雅人は人妖ではないからそれ程手こずらないだろうと言っていた。
それが事実なのか、私にはわからない。だって化け猫の時はあんなに余裕そうだったじゃないか。こんなに大きくて、こんなに威圧感のある存在をどうやって倒すというのだろう。
「ちょっと! どういうことよ! なんなのよこれ!」
女の金切り声が耳に入り、私を我に返らせた。
「だから嫌だったのよ、あいつをここに連れてくるのは! あそこには私の店があるのよ、もし壊されでもしたら、どうしてくれるの! 私たちの命だって……!」
耳障りだ。そう思った。
だから、言葉は反射ででたようなものだった。
「黙れ!」
びく、と女が反応して黙ったが、私の気持ちが治まることはなく、考える前に言葉を口から飛び出していく。
「命を掛けて、戦って、この世界を守ろうとしてくれている人間がいるのに、これでもまだ、自己保身に走るの、いい加減にしてよ! そもそも、あんたたちの負の感情がなかったらこんなにあの妖が巨大になることもなかった! 全部、あんたたちのせいじゃない、皆の命が危険に晒されてるのだって、あんたたちのせいじゃない!」
感情的になっているのは、わかっていた。それでも止められない言葉がどういうことになるのか、考えなかった訳じゃなかった。
なんですって、その言葉を耳に捕らえ、その次にくるであろう爆発的な非難を覚悟した。
しかし私の耳に入ったのは、私を責める言葉ではなかった。
「その女の子の言う通りだ!」
「そもそも、この事態だってあんたらが自分の子供をほったらかした結果だろうが!」
「それでなくても、悪ガキどもの対応には皆辟易していたっていうのに、あげくのはてにこんな自体になって、どう責任取ってくれんのよ!」
そんな声を皮切りに、女性を非難する言葉で空間が支配される。
私はその光景に唖然としていた。
「どうやら、多く目に入っていた人間達のほうが少数派だったようですね」
「えっと……どういうこと、」
すっかり拍子抜けしてしまった、火付け役となった私を置いてけぼりにして、先ほどの女性や、それ以外の誰かを非難する声で場は酷いことになっていた。
そういえば、とふと頭に浮かんだのは、祠についての詳細を教えてくれた男の子の言葉。
「(そうだ……言えない大人のほうが多いっていってた、よね)」
それが、恐怖感に刺激されて、たまっていた鬱憤が私の言葉を切っ掛けに爆発したのだろう。
「(そっか、結果がこうなったから、非難の対象が別に向いた、それだけ)」
結果的に私への非難をそらした形になったそれ。それでも、嫌悪感しかわいてこない。
――夕澄。人は、弱いんだよ。だから、仕方ない。
そう諦めたようにいっていた、夕月の顔が浮かぶ。仕方ない。しきりにその言葉を繰り返す彼の表情は、今でも忘れられない。
――そして私も、そんな人間の一人だったのだ。
「誰か!」
誰かの声が聞こえた。女の人の声だった。
自分に対する嫌悪感を吐き出さないように耐えていた私を、その声が現実に引き戻す。
「子供がいないの!」
わぁわぁ泣き叫ぶ女の人。
非難に集中していた人達がその女の人に意識を向けて声を掛けている。
「あんたんとこの息子は、勝手に歩き回る子じゃなかったはずじゃ……」
「ちゃんと手を引いて連れてきたんだろう!?」
女の人は、確かにつれてきた、先ほどまでは確かにいた、と泣きながら繰り返す。
「もしかして……」
女の人に声を掛けていた一人が、そう呟く。
「あんたんところ、娘が最近生まれたんだろう、さっき、息子が、何か忘れてきたと騒いでなかったか?」
「確かに、おしめとか、服とか、そういうものを持ってこれなくて、でも終われば取りに帰れるからって言ったし」
「あんたの旦那、建物が壊れたら……とか、そういうことをいっていなかったか」
その言葉に女に人はただ泣くばかりで何も答えなかったが、沈黙は一種の肯定だ。男の子の命を悲観する声が囁かれ始める。
私は結界の外に目を向ける。激しい戦闘が続いていた。しかし建物の損害はまだ少ない。
「家はどこですか!」
私は女の人に駆け寄ってそう尋ねる。
女の人はただ指を差した。その方向を見れば、端ではあるものの結界が解かれている空間だった筈だった。
私はもう一度蛇魅に目を向ける。――大丈夫。遠い。あれなら間に合う。
「夕澄様!」
馨が叫ぶ声が聞こえた。
私が駆け出したので何か察したのだろう。
「こないでください! 貴方は碧様達を守らなきゃいけないでしょう! 近くから入るから大丈夫、すぐ戻ります!」
馨は追ってはこなかった。動けないだろうとわかっていた。彼は護衛役で、その任は重いのだ。護衛対象を放って動くことは出来ない。
私と、碧と翠、どちらが優先されるかなんてわかりきっていることだ。
止める声だけは聞こえていたが、私は足を止めなかった。
もしかしたらとっくに結界の中に避難しているかもしれない、そんな言葉も聞こえた。それでも、まだ避難していないかもしれない。かもしれない、なんて言葉で。
「後悔するのなんて、もういや!」
家の近くには少しの時間で着いた。
結界から出るのには勇気が必要だったが、一瞬でも迷ってなんかいられない。
入ると同時に体を比ではない悪寒が襲ったが、私は男の子を捜して家の方向に走った。
先ほどの場所から見えるのとは逆方向に玄関があり、回り込むと、男の子が見つかる。
子供には多すぎるだろう沢山の荷物を抱えたその子に私は見覚えがあった。
――この事件について詳細を教えてくれたあの子だ。
「何をやってるの!」
怒鳴り声を上げると、びくり、と反応した男の子が少し荷物を落とした。
私は男の子に駆け寄って、その荷物をすぐに拾い上げる。
「お姉ちゃん、何で」
「君こそ、どうしてこんな危ないことをしたの!?」
拾って腕に収めながらそういうと、男の子はだって、と涙声でいった。
「妹は、これがないと困るから……泣くから」
子供だからこその優しさと。そして自分の身を省みない危なっかしさ。
怒鳴ってもしょうがない、ということがわかった私は、荷物を拾い終えた後、男の子が持っていた荷物も少し取り上げて、幸い片手で足りたために開いたもう片方の手で男の子の手を握る。
「逃げるよ。走れるね?」
こくり、と頷く男の子に、私は手を引いて走り出そうとした、その瞬間。
酷い衝撃音が耳を貫き地面が揺れ、私は思いっきり転倒した。手はかろうじて離したために男の子を巻き添えにすることだけはなかったが、立ち上がろうとして足に走った激痛にもう一度座り込んでしまう。
――やばい、捻った!?
振り返ると、蛇魅が暴れているのが目に入る。その距離は遠いが、今の衝撃は蛇魅の尾が近くの民家を破壊した音だとわかる。ずたぼろになった民家が目に入ったからだ。
早く逃げなければ、そう思い何とか立ち上がって男の子の手を取ろうとしたが拒否される。
「僕は一人でも走れるよ!」
男の子の目は私の足元を見ていた。先ほど捻っただろう場所だ。涙目になっているから、私を心配しての言葉だとわかる。
「偉いね。じゃあ、あそこまで全力で走って! 私は大丈夫、すぐに追いつくから!」
必死に笑って指を差した結界の中。男の子は頷いて走り出す。私もそれに続くが、引きずる足の激痛が速度を上げるのを邪魔する。まだ結界は遠い。
男の子が結界の中に無事辿りつき、こちらを心配そうにみている。はやく私もあそこまでいかなければ。
そうして何とかあと少し、という距離まで来た私の耳に、男の子の声が叫び声が聞こえた。
「後ろ……!」
咄嗟に振り返ってしまった私の眼に入ったのは巨大な尾。先ほど民家を跡形もなく破壊した凶器。
不思議なほどスローモーションで状況を分析していた私は、当然、自分の死を覚悟して目を閉じた。少しでも恐怖感を逸らすために。
しかし耳にはいったのは地面を叩く衝撃音ではなく、蛇魅の雄叫びだった。
「……させるかよ!」
耳に入った声に目を開く。大きな背中と、その手に持つ光輝く剣。
――ああ、また、助けてくれた。
切り取られた蛇の尾が音を立てて地面に落ちた。




