第二章 ―9―
次の日、私達は馨に案内されて翠の部屋を尋ねた。
正直なところ、妖のあの字も理解していないような私がいて何の役に立つんだと思ったが、雅人と常和はそれでもなにか出来ることがあるかもしれないと言って私も連れて行った。そもそもこの世界のことをよく知るために私は使者に任命された筈で、想定外すぎる事態だったが、これもまた一つの勉強だと燈樺様は思われているのかも知れないと常和に言われ、なんとなくは納得する。騙されたような気がしていい気はしなかったが、それは雅人も常和も同じだ。妖討伐の任が出ていたことなど、彼等は知らなかったようだった。
「翠様は人をとても嫌われていらっしゃるので、入室の許可をとることは難しいのですが」
翠の部屋に向かう途中、馨がそう言ってため息をついた。
「碧様の指示ということで何とか致します。失礼があるかもしれませんが、ご容赦ください」
人が嫌いだという翠の部屋は、扉の前に立っていても、入ってくるなと警告をしているような空気が感じられた。馨が何度か扉を叩くが中から返事が返ってくることはなく、失礼しますと言って、馨は扉を開けた。
「……ああ、お休みのようですね」
馨はそう淡々と口にしたが、目に入った光景に私は息を呑んだ。
奥のベッドに横たわっていたのは、恐らく12歳くらいの少年だった。私からすればまだ、幼さを感じさせるその姿。しかしその顔には苦痛の色が浮かぶ。
胸まで上げられている布団の上に乗せられた腕は、あちこちが黒く変色し煙のようなものが噴出していた。腕だけではなく顔や首もその状態であり、布団に隠れた場所も同じような状況なのだろうと想像させる。口から発せられるうめき声は、表情と相まってよほどその状況が辛いのだろうと思わせるほど切なくなるもので、私はあまりのことに言葉を失った。
「これは……酷いな」
ぽつりと常和が呟いた言葉が、状況が深刻だということを示唆させる。実際目を背けたくなるほどの光景だった。
暫く何も出来ずにいると、うめき声が途切れ、うっすらと翠が瞼を開いた。
「……勝手に入るなといっていた筈だが」
掠れたその声すらも聞いてるのが辛くなったが、馨は淡々と、申し訳ありませんと口にする。
「清宝の方々が、結界が弱くなって困っていると我が国にお越しになりました。原因の妖を退治してくださるそうです」
馨の言葉にわずかに目を見開いた翠は、しかしすぐに閉じてしまった。
「結界を張る必要があるとは俺は思わない。妖をどうにかして貰おうとも思っていない。――姉上が命を削ってまで結界を張る価値はこの世界にはない。悪いが帰ってもらえないか」
翠様、と馨が声を荒げたが、それきりもう翠は何も口にしなかった。馨はため息をつき、申し訳ありませんがといって私達に退出を促す。
でも私は納得出来ず、思わず口を開いた。
「どうして、価値がないと思うんですか?」
雅人と常和が驚いて私の名を呼ぶ。翠は何も言わなかった。かまわずに私は続ける。
「私はこの世界の人間ではないから、この世界の事情は何も知らない。貴方がそう仰るからには理由があるんですよね?」
うっすらと、翠がまた瞼を開く。私の方に視線が向けられる。
「この世界の人間じゃないのか。……なら、この世界の実情も何も知らないのか?」
「はい。そもそも私がこの国に使者の一人としてきたのは、この世界についてより多くのことを知りたいと思ったからです。だから、私が知らないことがあるなら知りたい。たとえどんな事実だとしても」
翠はゆっくりと視線を天井に戻す。暫く沈黙がその場を支配した。
「……話してもいいが、お前だけだ。他の人間には出ていって貰いたい」
翠様、と馨が驚いた声を挙げた。
「この世界の人間じゃないのなら。……心が腐ってはいないかも知れない。だから全てを知りたいというのなら、話してもいい」
ぐ、と身体に力をいれて翠が起き上がる。慌てて馨がそれを支え、背中を壁に持たれかけさせる。翠の息は荒く苦しそうだったが、その瞳は力強く私を見据えていた。
私は雅人と常和を見た。何かを考えるように間をおいてから、彼等はこくりと頷いた。図々しかったとは思うが、何も言わないでくれる彼等に心の底から有難いと思う。
碧は泣きながら言ったのだ。弟を助けてくれ、と。それにこんなに苦しそうにしている翠をそのままにすることなんて耐えられなかった。
もう二度と、後悔などするものか。私はぐっと拳を握り締めた。
雅人と常和、そして馨が、扉の外にいると私に告げて部屋を後にする。翠と二人きりになった室内を、暫く沈黙が支配した。
「お前は」
翠は掠れた声でそう口にする。
「お前は、姉上が命を削って結界を張っていると知ったとき、どう思った?」
その言葉に、私は先程事実を聞いたときの気持ちを思い出す。
どう口にすればいいのか迷ったが、私は躊躇いながらあの感情を口にする。
「辛い役目だと思いました。凄い人だとも思いました。普通なら、他人のために命を捧げるような事は出来ないと思うから。たとえそれが役割だといわれても」
「……そうだな。姉上は本当に凄い方だ。だが、それを何とも思わない人間がいる」
「そうですね。人間というものは汚い生き物ですから。本来なら感謝なんて言葉はたやすい程なのに、それすらしないどころか貶す人間すらいるのでしょうね」
「そういう人間に対してどう思う?」
「気持ち悪いと思います」
きっぱりとそう口にすれば、翠は驚いた顔をした。
かまわずに私は続ける。
「貶す人間なんて気持ち悪いです。それにそういう人間ほど、好き勝手に喚き散らす。人間は自分に与えられているものを当たり前だと思いがちですから。緑姫様は命を削って結界を張っていらっしゃる、それを心配や感謝こそすれ、貶すなんてとんでもない事です。……それでも、同じ恩恵を何もせずに受けているのだから、本当は私に気持ち悪いなんていう権利はないのかもしれないけど。結果はなにも変わらないのだし」
「――確かに、結果は変わらない。それでも姉上はこういっていたんだ。『たとえ私を蔑む人は沢山いたとしても、少なくても、私の命を心配し、感謝してくれる人がいる。それだけでも私が命を掛ける理由としては十分で、そういう人達に救われる。自分の命がそんな人達の役に立つなら、これほど嬉しいことはない。そしてそれが自分の生きる意味だ』と」
翠はふっと息をつく。
「俺は昔から不満だった。どうして姉上が命を削る必要があるのかと。それでも姉上は本当に嬉しそうにそう仰るから、悲しい事だけれど仕方がないことなのだと思っていたのに」
翠の頬を一筋の雫が伝う。
「どうして、どうして、姉上を貶す人間ばかりで、そんな人間たちのために姉上が命をかける必要があるのか。感謝する人間なんていないじゃないか。当たり前だと思う人間ばかりじゃないか……。なのになんで姉上は苦しんでまで、結界を張り続けるんだ……?」
ぼろぼろと、涙は絶え間なく翠の頬を伝う。私はどうすることもできずに立ち尽くす。
「……聞いてくれないか? 俺はずっと誰かに聞いて欲しかったんだ。俺の気持ちを。誰もわかってくれないんだ」
こくりと頷けば、有難うといって翠が笑った。




