第一章 ―21-
化け猫と常和の間の空気はこちらの空気さえ緊張させる程張りつめたもので、いままでの安心感なんて吹き飛んでしまっていた。
先程化け猫自身がいったことによると、人妖というのは随分と強いみたいだ。本当に常和は大丈夫なのだろうかとすら思う。
化け猫は遠くからでも確認できるほど鋭く尖った爪を掲げている。先程私の首を割いたために、赤い血が滴っていた。瞳孔は完全に鋭くなっているし、まるで本物の猫が毛を逆立てるように髪の毛が持ち上がり、うなり声をあげていた。その様子はまるで常和を威嚇しているようにもみえる。
猫耳と尻尾がある以外は人のようにみえていた化け猫は、臨戦態勢に入った段階でどんどん獣に近くなっていった。
一方の常和の手には刀が握られていた。
両腰に掛けられた二本の鞘からはすでに抜かれていて、両手に一本ずつ、二本の刀を掲げ構えている。
「常和って二刀流だったんだ……」
「ああ、そういえば夕澄ちゃんは、本来の常和の武器をみたことなかったね。訓練では、色々な武器を扱うから」
そういう煉華の武器でさえ、夕澄は抜いたところを見たことがなかった。彼女がまだ鞘に収めずにいる紅い刀は、武器のはずなのに、夕澄が想像するような刀よりもずっと幻想的に見える。この世界のことだけではなく二人のことを何も知らないのだと実感する。彼女達といたのはまだわずかな時間とはいえ、何故だか寂しく思えた。
「それにしてもあいつ、あれだけきっぱり言っておきながらやっぱり駄目だなぁ」
煉華が常和を見ながらぽつりと呟く。
煉華の刀から常和に視線を移すと、別に押されている訳ではなさそうに見える。だから煉華の言葉の意図がわからないかった。ただ、彼は随分と、何だか殺気立っていた。助けてもらっているはずなのに、何だか怖いような気がする。……命の危険を感じているような怖さとは、質が違うような気はした。でも、確かに怖い。
最初は互角のようにも見えていた二人の攻防は、徐々に常和に軍配があがってきているようだった。
常和は間一髪のところで、それでも軽い身のこなしで化け猫のパンチを避けながら化け猫の体に何度も切りつけるが、何故か化け猫の体は切れることはない。ただし打撃にはなっているようで、何度も体制を崩しながら化け猫は常和に爪をたてて攻撃をしかける。
刀だというのに切り傷になっていないのが不思議で、その疑問を煉華に問いかけると、彼女はそれに答えてくれた。
「気をね、入れてないんだよ。……完全に遊んでるなあれ」
「気って……この前、妖に勝つために必要不可欠だって言ってた?」
「そう。攻撃があたってるのに切り傷になってないでしょう? それが証拠。人妖相手だっていうのに随分余裕だなぁ。……いや、人妖だからかな」
煉華はため息をつく。常和を見つめる目に責める色が浮かぶ。私は何故常和が気を使わないのか、煉華の言葉の意味もわからず、ただ、常和と化け猫との戦いをただ見続ける。
常和様は凄いです、と凛の声が聞こえる。彼女と話した時にも感じたが、彼女は本当に、煉華と常和を尊敬している様子だ。そしてかなり肝が据わっているような気がする。私はこの状況についていくだけでも結構いっぱいいっぱいだというのに。
「どうした? 人妖っていうのはこんなものなのか!」
「……くっ、」
何回もの常和の攻撃に体力の限界なのか、化け猫はうずくまったまま立ち上がろうとしなくなった。しかし目はいまだに常和を睨みつけている。
それを見つめる常和の声に違和感を感じた。ガッカリしているような、そんな色が混ざっていたからだ。この状況で、妖が弱いことがそれほどまでに萎えるものなのだろうか、むしろ喜ばしい事態のような気もする。それとも、私にわからない何かを、常和は感じているのだろうか。
「こんなはずじゃ……なかったのに、さっさとあの娘を食べてさえいれば!」
「恨むんだったら自分の弱い頭を恨むんだな。まぁ馬鹿でいてくれたほうがこっちは楽に済むがな。……これで終わりだ。」
常和がそう言った瞬間のことだった。彼がもっていた刀が、ぼんやりと光を帯びる。
あれは何、と私は驚いて、思わず声に出してしまった後で煉華を見る。彼女は視線を逸らさずにいたが、驚いたような声色で口を開いた。
「あれが気だよ。……そっか、夕澄は気が見えるんだね。珍しい体質かも」
「気? 普通は見えないものなの?」
「うん。妖浄士でも、見れる人間は数人に限られる。私と常和は見える側だけどね。――二人共、目を閉じて。ここからは見ない方がいいから」
煉華に言われた通りに目を閉じると、直後、大きな悲鳴が耳に入った。
声に驚いて暫くそのままでいたが、煉華のもういいよ、という声におそるおそる目を開ける。そこには、常和一人が立っていた。光っていた刀はもう、元の普通の刀になっていた。
常和は一点をじっとみつめたまま動かない。そこに化け猫がいたのだろうか、とも思う。
もう少しグロい光景を想像して目を開けたから、何も痕跡がないことに驚く。
「血すらない……」
妖とはいえ、殺す場面を見ないようにとの配慮だろう、と煉華に感謝をして、ふと感じた疑問を口にする。化け猫がいた場所には何の痕跡もなかった。
「妖はもともと思念体だから、死ぬと血も一緒に消えるんだよ。というか随分あっけなかったな、人妖の割に」
「常和が強いからじゃなくて?」
「常和は確かに強いけどね。本来人妖っていうのはもっと強いんだよ。結界に思念を削られてほぼ力はなかったんだろうけど、あれだけ威張っていた割にはあっけなさすぎるというか」
煉華が重いため息をついて、急に立ち上がった。
常和のほうに歩いていくと、ずっと動かなかった常和が振り返る。
「常和、私が言ったことちゃんと聞いてたよね?」
「……限度は超えてない」
「そういう問題じゃない!私だけならまだしも、守る対象がいるときにそれでどうするの?」
「……悪かったよ。次は気をつける」
「いつも言ってるじゃないそれ。いくら相手が人妖だからって、危ないことしないでよ」
二人は小さい声で話していたが、煉華が会話の後にため息をつく音まで、私の耳はしっかりと拾っていた。二人が何を揉めているのかはわからないが、二人にしかわからない事情があるのだろう、と深く首を突っ込まないことにしよう、と決めると、横でもう一度ため息が聞こえて振り向いた。
「あ、ごめんなさい。もう大丈夫なんだなって思って」
「そうだね。……怖かったもんね。でも無事に帰れそうでよかった! 私も凛ちゃんも」
にっこり笑って見せると、彼女は「はい」と言って満面の笑みを浮かべた。
会話を終えた煉華と常和が帰ってくる。これでやっと、城に戻ることが出来るのだ。
でも……問題は、城に戻った後にもう一つあるのだと思う。凛の笑顔を見て思い出した、重大な問題。それを考えると、私は完全に安心しきることが出来なかった。
煉華と常和につれられて、洞窟の外で待っていた、どこの平安貴族だと思うような馬車――最も平安のあれは牛車だが――に凛と友に乗せられて城へ帰る道中、ずっとそのことが頭から離れなかった。
――洞窟からでるまでの間に、うっとりした様子で転がっていた猫達は、見ないふりをすることにした。煉華も常和も無視していたが、後で誰か、恐らく妖浄士だろう人が入っていったことも、考えないことにした。




