第一章 ―15-
「あら、目が覚めたみたいね」
楽しそうな声が耳に届き、暗さでしっかりと見ることは出来なかったが、気を失う前に感じた嫌な空気がぞわりと体を包む。凛が隣で息を呑む音がした。
水を踏む、ぴちゃぴちゃとした音がして、すぐ近くまで嫌な空気が迫る。
「獲物は活きがいい方がいいわ。それに、気を失われたままだったらどうしようかと思っていたのよ」
人間の表情が恐怖で歪む様子を見るのが楽しみなのに。
そう愉快そうに笑う声が聞こえたと思うと、ぬっと顔を覗き込まれる。そこでようやく、相手の顔をみることができた。
大きな耳が2つ頭上にあり、目がつりあがって光っていて。薄い唇が、にやりと笑う。そして私を覗き込む、女の姿。そして、わずかに視界にいれることが出来る、ふらふらとゆれる尻尾。ふたつに分かれたそれのみだ。
「今でも十分美味しそうではあるけど、やっぱり絶望してる顔が一番好みなのよね。ここはやっぱり予定通りにしましょうか。その方が、あれだけ手間と危険を冒した価値もあるってものだわ。……そうそう、逃げられるなんて思わないことね。食べないようにとはいってあるけど、空腹の私の部下が見張りについてるから……保証できないわよ」
クスリと一度笑った後、高らかな笑い声を上げて、化け猫は去っていった。先程目を覚ました時には気がつかなかった入り口があるのに気がつくが、キラリと四つ、光るものが見えた。すぐにそれも去っていったが、後に残された静寂が恐怖を増長する。初めて真正面から対面した妖に、その雰囲気が余韻だけになっても、声を上げることが出来なかった。氷のように固まっていた空気が溶けたのは、凛の泣き声が聞こえたからだった。我に返り、慌てて凛に話しかけてみるが、凛は泣き続けるばかりでそれには答えない。背中をさすりながら落ち着くのを待つ。
今まで、話に聞いていただけの妖の姿を見たショックは大きく、恐怖に当てられて私も声を出すことすらできなかった。一度目に会ったときは姿を確認する余裕すらなかったが、全身が悪寒に包まれる感覚はあの時以上だったと思う。今もまだ体の震えが止まらない。
暫くして余韻も少しずつ消え、気を抜くことはできないまでも会話は出来るまでにはなり、凛と私は壁際に座って少しでも気持ちを落ち着かせるために話をすることにした。
未だに泣き声まじりの凛の背を私はさすり続ける。
「私達……助かるんでしょうか」
凛がぽつりと独り言のようにそう言葉を落とす。
助かるよ、ということは、今のこの状況を楽観視することであり、ただの気休めにすぎない。そんな言葉を口にしたところで意味はない。
しかしかといって、どんな言葉を返したらいいのかも分からず黙っていると、凛はごめんなさい、といって謝った。
「夕澄様だって怖いのに、私ったら馬鹿ですね。こんな弱気なこと」
凛は長い溜息をつく。何か言わなければいけないと思うが言葉は出てこない。
常和が本当に来てくれるのか私にはわからない。来てくれるかもしれないと先程までは思っていたが、実際に化け猫に対面するとそんな根拠のない想像も吹っ飛んでしまっていた。
私は、彼等にとって助けるに値する人間ではない。
表面上賓客の扱いでも、実際は身分も持ち合わせないただのよそ者だ。リスクを負ってまで助ける利点があるとは思えない。たとえば常和がそうしたいと言ってくれたとしても、本当にそう出来るかはわからないのだ。それが、組織というものだからだ。
今、私達を見捨てて、最も良い機会を狙うことが最善だと思うかもしれない。
第一、私は随分とあの城の人間に嫌われていたのだ。助けになど来てくれないかもしれない。そう思うと、体の奥からぞくぞくとした感覚が襲う。
「夕澄様、大丈夫ですか?」
凛の心配したような声が響く。
それに大丈夫と声に出すと、随分とひきつった音になって出てきて自分で驚く。喉が張り付いているような感覚がして声を出しづらい。
凛に、握りしめていた両手をぎゅっと握られる。
彼女の手は随分と冷たかった。
「ごめんね、気の利いたことひとつも言えなくて。私、ここまでなんて思ってなかった。別の世界から来たから、妖がどういうものなのか全然知らなかった」
「夕澄様の世界には妖はいないのですね」
「似たようなものはあるんだけど、想像上の生き物って扱いだから。実際に命を狙われることなんてないんだ」
しかし、この世界には妖は実在する。
この世界にきてから何度も騒ぎが起きているのに、それをちゃんとわかっていなかったということを今更私は思い知らされていた。
「私も、こうやって恐怖を体感するのは初めてです」
「あれ、でも凛ちゃんは……」
「両親が襲われた時はまだ私は小さかったし、記憶がないんです。自警団が上手く倒してくれたから、そこまでの被害も出なかった。その後もそこまで大きい事件はなかったし、妖が出ると子供は真っ先に避難させられていましたから。
朱焔にきてからは、城下は緑姫様の結界に守られているので、本来妖は入ることができないから安全だったし」
「でも、化け猫は城下に入れたんだよね?」
「それがここ最近、急に結界が弱まっているらしくて……妖が城下に顔を出すようになったんです」
緑姫様、というものに聞き覚えはなかったが、結界の話は煉華に既に聞いていた。あの時は城のことだけを言っていたが、城下にも結界が張られていることを知る。
結界というのがどういうものならか私にはわからないけれど、とにかく、妖の進入を防ぐためだということだけはわかっている。その妖は人にとって恐ろしいものであり、結界が弱まっているということがどれだけ大変なものなのか、私には想像すらつかない。
ただ、普段目にしないようなものであり生活を脅かされることがない以上、急に妖が顔を出すことがあればパニックにもなるだろう。それが、夕澄が城下に降りた時に起きたのだ。
「私は……何も、知らないんだな」
「夕澄様がこの世界にいらっしゃってからそれほど月日が経っている訳ではないのでしょう? それなら無理もないですよ。……そうだ、私が少し説明しましょうか。ここから出られたら、きっと役に立ちますよ?」
無理をしているようだったが、多少明るくなった凛の声に安心して了承する。
助かった後のことのことを考えれば少しは落ち着くだろう。
凛は、彼女の知っている範囲で、私が知らないことを教えてくれると言って、私は耳を傾けた。




