第一章 ―1―
声が、聞こえた気がした。
ガヤガヤ騒がしい、朝の学校。なのに、聞こえたと意識するような声。
しかし、振り返ってみたが別に何があるというわけでもなく、違和感だけが残る。
「夕澄、どうしたの?」
「え、ううん、何でもない」
立ち止まった私に声を掛けてきた友達に謝りながら、また歩き始める。
気のせいかもしれない。はっきりとは聞こえなかったから。
でも気になった。最近同じような事が何度もある。
「最近多いよ、大丈夫? 授業中でもたまにボーっとしてるし……何か心配事でもあるの?」
「え、そんなことないよー大丈夫だって!」
「でもほら、最近夕澄の家大変そうじゃんか。少し疲れてるんじゃない? みんなの雰囲気も最近おかしいもんね……」
心配そうに見てくる友人に苦笑いを返す。大丈夫と言ったところで通用しないことはわかっていた。
彼女のいうことは正しい。
家が大変という事実は弁解の余地もないくらいには学校中に知れ渡ってしまっていて、学校の雰囲気がおかしいのもそのせいだと理解している。そっとしておいてくれればと思わないでもない……でも、好奇の目や同情の目は人間社会にいる以上仕方のないことだと思っていて、既に諦めていた。
「とにかく、無理はしないでね」
「うん、わかってる。大丈夫」
絶対に、と念を押してくる友人にありがとうといって、授業が始まる時間が近付いていることを告げる。彼女は別のクラスだから、自分の教室に戻らなければいけない。
「今日は弟君と帰るの?」
「うん。家につく前に話したいことがあるの」
「わかった。じゃあ、今日は先に帰るね」
そういって自分の教室に帰る彼女を見送って席に戻る。彼女は本当に優しい。
少なくとも……彼女がいなくなったとたん、刺さるような視線を向けてくるクラスメイトよりは。
その日最後のHRが終わってすぐに、私は弟の夕月の教室に向かった。
弟とはいっても、私達は双子だから学年は変わらない。教室も同じ階にある。
それが少しだけ救いだった。階が違えば、別の学年の視線も浴びる事になっただろうから。
弟とは、物心がついたころから暫くの間別々に暮らしていた。
私の家、というよりも母の実家は由緒ある家柄で、しかし生まれたのが母一人だったために跡継ぎはいなかった。
母は父と駆け落ちしてしまったため婿もとれなかったから、その母の実家の跡継ぎとして弟が選ばれたため、私達は双子でありながら別々の家で育てられることになった。
父は家を継ぐ心配がなかったため何も問題はなかったのだ。
そういう理由で弟はずっと祖父の家にいたが、訳あって今日からは同じ家に帰ることが決まっている。
でも一緒に帰るという明確な約束をしたわけでは無かった。もしかしたらもう帰ってしまったかも知れない。
彼のクラスはいつもHRが終わるのが遅いが、今日に限って早いかもしれない。そんなことを悶々と考えて、彼の教室にむかう足取りも自然と速くなる。
そうして彼の教室が見えてくると、私は驚いて、慌てて駆け寄った。
「遅かったな」
「遅かったなって、何で待ってるの!?」
「何となく、来る気がしたから。じゃ、帰るか」
スタスタと歩き始める彼を追いかける。
夕月の教室のまわりは、他と比べ明らかに視線が鋭く感じる。
気のせいではないだろう。
嫌な気分になる。気をそらすように口を開いた。
「夕月ってさ、なんか……エスパー?」
「は?」
あからさまに、何言ってるんだこいつ、みたいな顔をされたので、慌てて付け加える。
「だってさ、何も言ってないのに待ってるし。この間だって、私が林檎好きなの、わかったし」
「今日はくると思ったんだよ、お前の性格上。林檎は、あれだけもの欲しそうに見てれば誰だって気付くだろ……」
「嘘! そんなにじっと見てた!?」
恥ずかし過ぎて、顔が熱くなりそうだ。でもすぐに、その前の言葉を考えて、我に返る。
「夕月……家、帰ってくる、よね?」
「……そんな、不安そうな顔するなよ。大体、今更だろ」
呆れたように笑う彼にほっとして、でも、不安は消えない。
私は知っている。彼が、どれだけ悩んでいたかを。
そして、表に出すことはなくても……まだ彼が迷っていることは、何となくわかっていた。
話している間に階段につく。降りればすぐに玄関だから、刺すような視線から開放される。
気持ちが焦っていたのかも知れない。
だから、咄嗟に反応出来なかった。
『…り…ま』
また聞こえた、そう思った瞬間だった。
背中にドンッという衝撃を感じた。
「夕澄!」
夕月の焦ったような声が聞こえた。
そしてすぐに、体が宙に浮いているのに気付く。
何が起こったのかわからなかった。
夕月が私に向かって手を伸ばして私を力強く抱きしめるが、彼の体も一緒に宙に浮き、視界が逆さまになる。そうして落ちていく瞬間が、やけにスローモーションだった。
落ちている途中、自分がいた踊り場が見えた。
そこにはにやりと誰かが笑いながら立っていた。
突き落とされたのだ、と気付いたのと同時に、私の視界は暗転した。