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愛を土にうめる

掲載日:2026/04/03



朝は匂いでわかる。

目が覚める前に、

外の空気が変わる。


夜の冷えた湿り気が、少しだけやわらいで、土の匂いが上に浮いてくる。


男は、布団の中で一度だけ深く息を吸う。

その匂いが、少しだけ昔と似ている気がした。

柔らかく、甘い匂い。


「……」

口の中で何か言いかけて、やめる。


外に出ると、猫がいた。

名前はない。

「来てるな」

しゃがみ込むと、猫が一歩だけ近づく。

それ以上は来ない。


昔、もっと近くに寄ってきたものがあった。

小さな手で、服の裾を掴むような――

男は、立ち上がる。


牛舎に入ると、牛がゆっくりと首を動かした。

「腹減ったか」

餌をやる。

水を替える。

背を撫でる。

ふと、手を止める。


この手で、腹に触れたことがあった。

まだ形にもなっていないものを、

確かにそこにいると信じて。


「……大丈夫だ」

なぜそう言ったのか、わからない。

返事は、なかった。

畑は黙っている。

鍬を入れる。

土が返る。

その下から、湿った匂いが立ち上る。


あの日も、同じ匂いだった。

やけに静かで。


鳥の声だと思っていたものが

妻の嗚咽だと

今思えば、

気づいていたのかもしれない。

でも心が遠くて、

家の中だけ、時間が止まっていた。


「……」

鍬を持つ手に、少しだけ力が入る。

何を言えばよかったのか、

今でもわからない。

大丈夫だと、言った。

何度も。

何が大丈夫なのか、

自分でもわからないまま。


昼、猫がいなくなる。

追いかけたことはない。

追いかけても、戻ってこないものがあると知っている。


牛は寝ている。

あの頃、あいつの寝てばかりいる背中を見ていた。

声をかけても、返ってこない。

起きていても、

そこにいないような目をしていた。


「……いいから、寝てろ」

そう言った気がする。

優しさのつもりだった。

たぶん、違った。


午後、遠くに近所のじじいが見える。

手を上げる。

こちらも上げる。

それだけでいい。

踏み込まれない距離。


あのときも、

誰も踏み込んでこなかった。

それが正しかったのかどうかは、

今でもわからない。

夕方、猫が戻る。

少し汚れている。


「……生きてるな」

ぽつりと出た言葉に、

自分で少し驚く。

昔、同じ言葉を、

必死に探していた気がする。

見つからなかった。


日が沈む。

土の匂いが変わる。

あの夜、

戸の向こうで小さく話す声がした。

知らない声と、

聞き慣れた声。


「……娘を返してください」

その一言だけ、やけにはっきり覚えている。


開けなかった。

開けられなかった。

朝には、何もなかった。

いや、何も“なくなっていた”。

夜になる。

布団に入ると、猫が足元で丸くなる。

男は、ほんの少しだけ足を動かして場所を空ける。

昔、隣にいた体温を思い出す。

あの重さは、

もう二度と戻らない。

目を閉じる。


「……悪かった」

言葉は、今になって形になる。

遅い。

あまりにも。


今日も何も起きなかった。

だから、思い出だけが、

静かに浮かぶ。


土は、今日も呼吸している。

男もまた、

それに合わせて、息をしている。


あの日、止まった呼吸を、

代わりに続けるみたいに。





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