第1章:森の魔神
魔界は、ただ一つの理で動いている。
——力こそが全て。
瘴気が満ちる大地では、魔物も魔神も突然生まれ、突然食われる。弱き者は逃げる暇すらなく、強き者の糧となる。食わなければ消える。探せば食われる。それが、この世界の呼吸だった。
植物は枯れ、土は黒く濁り、水は赤茶に腐っている。生き物は皆、異形。二足、四足、魚のようなもの、木のようなもの。言葉も知恵もない。ただ“食うために生まれ、食われて終わる”。
魔界の中心には魔神城がそびえ、魔神王が君臨している。人間を喰らい、知恵を得た唯一の魔神。その身にまとう炎の鎧は、触れた魔物を一瞬で灰に変える。本来の魔神にはありえない力。ゆえに無敗。ゆえに王。
側近たちもまた人間を喰らい、巨大な肉体を得た。だが王が喰らう量には遠く及ばない。魔界は欲望の世界。食う者が支配し、食われる者は消える。王は絶対だ。
そして——この地の片隅に、ひとつの“例外”がいた。
この世界で、ただ一匹だけ。
ラグナード。広い魔界の世界で稀に見る例外。
魔界では数億の魔物が一ヶ月で生まれては消える。それだけの数が生まれれば、“稀”な存在が発生することもある。片腕だけ異様に長い魔物。何百キロ先まで見える目を持つ魔物。鋼鉄の皮膚を持つ魔物。肉体的な異常は珍しくない。
だがラグナードの“稀”は違った。
——恐怖を感じることができる。——空気を読むことができる。——意思がある。
魔界の基準で言えば、彼の身体は十分の一にも満たないほど小さい。だが彼は、生まれた瞬間から“自分”という存在を認識していた。周囲の魔物も同じように感じていると思い、魔界の魚、植物、魔物に近づいた。意思を繋げるために。
しかし、その行為はすぐに終わった。
意思を伝える前に噛みつかれる。襲われる。 それは一度や二度ではなかった。 接触を試みる全てで同じ結果になった。
ラグナードには理解できなかった。 なぜ相手はただ攻撃的でいるのか。 なぜ話す前に牙を向けるのか。
腹は減る。 だから魔界の理に従い、魔界の魔物を食べた。 生きるために。
だが彼が食べられるのは、魔界の魚と植物だけだった。 魔物や魔神は体が大きく、近づけば逆に食われる。 それを本能的に理解していた。
だから彼は森の奥地にいた。 食べられないために。 ただ生きるために。
何度同じ日を繰り返しただろうか。 何のために生きているのだろうか。
意思がある分、彼の世界はより地獄だった。
何度も「食べられてしまおう」と考えた。 だが怖かった。 痛いのが怖い。 自分の身体がなくなるのが怖い。
恐怖に耐えられなくて逃げた。 逃げて、逃げて、逃げ続けた。
——それは、生まれてからずっと変わらない。
深淵の森の奥。 誰も来ない闇の底で、ラグナードは今日も息を潜めていた。




