禊の水飛沫
「おい!!! 俺が奢った金返せぇぇぇぇぇぇ!!!!」
勝彦の絶叫が、蝉時雨を切り裂いて響き渡った。 先ほどまでの「先輩風」はどこへやら。彼は世界の終わりのような顔で、彼方に掴みかからんばかりの勢いだ。
「俺は奢らなくていいって言ったじゃんか……」
「お、おま、おまえなぁ!! そんだけ金があるなら言えよっ!! 俺のなけなしの小遣いがぁぁ!!」
勝彦の口の詰まり具合と、引きつった表情からして、彼がどれほど動揺しているかが手に取るように分かる。 五百円の重みを知る彼にとって、金持ち(に見える)彼方に奢ってしまった事実は、プライドと財布の両方を直撃する大事件なのだ。
「ぷっ……ははは……」
その必死すぎる形相がおかしくて、彼方はつい、声を上げて笑ってしまった。 作り笑いではない。腹の底から自然とこぼれ落ちた、等身大の笑い。
「いいよ。勝彦や三英、博之の反応を見て楽しませてもらったから。……今度会う時は、俺が駄菓子くらい奢るよ」
彼方がそう提案すると、三人の表情が一瞬にして晴れ渡った。
「よっしゃぁぁ!!!」 「やったぁぁ! 高級駄菓子だ!」 「いぇぇい!!」
三者三様、拳を突き上げて喜びを表現している。 現金な奴らだ。だが、その単純さが今は心地いい。
だが、次の瞬間。 ガシッと、勝彦の熱い掌が彼方の肩を掴んだ。
「まだだぜ! 今日はあと二箇所いく!!」
勝彦の瞳には、まだ消えぬ冒険の炎が燃えている。
「……どこに行くんだよ?」
「それはなぁ、川だ! 水着あるか?」
ニカッと白い歯を見せて笑う勝彦。 海のないこの村にとって、夏といえば川遊びが王道なのだろう。
「川かぁ……。いや、水着はないなぁ。急に来たし」
彼方が答えると、すかさず博之が手を挙げた。
「あっ……なら、僕ので良ければ、使ってない新しい予備の水着があるけど……」
博之が控えめに、しかし優しい提案をしてくれる。 だが、彼方は博之の華奢な体を一瞥し、苦笑した。 そして、三英が彼方の心の声を代弁する。
「いや、博之のじゃ小さ過ぎて入んねぇだろ。ピチピチになっちまう」
「む……確かに」
博之が顔を赤らめて俯く。
「なら、俺の貸してやるよ!」
三英が自信満々に自分の胸を叩いた。 彼方は三英の豊かな腹周りと、自分の標準的な体型を見比べる。
「おいおい……三英のは逆にデカすぎるって。川に入った瞬間、流されてすっぽんぽんになっちまうよ」
彼方の冷静なツッコミに、一瞬の間が空き──。
「「「ギャハハハハ!!」」」
爆笑が弾けた。 想像したのだろう。川で水着が流され、慌てふためく彼方の姿を。
(笑いのツボも、こういう感じか……)
彼方もつられて笑いながら、この空間の温かさを噛み締めていた。 偏差値も、将来の不安も、世間体も関係ない。ただ「サイズが合わない」だけで笑い合える、無敵の時間。
「ひぃ……ひぃ、腹痛ぇ……。じゃ、じゃあ俺のやつ貸してやるよ!」
笑いすぎて涙目になった勝彦が、腹を抱えながら告げる。
「まぁ、勝彦は俺と体型同じくらいだし、そうさせてもらおうかな」
「よっしゃ! じゃあ、すぐに食い終わらせて、川へ行こうぜ! 遅れると一番いい場所が取られちまう!」
勝彦は残っていた駄菓子を一気に口に放り込むと、まだ口をもぐもぐさせたまま立ち上がった。 その背中は、「早く来いよ」と彼方を誘っている。 彼方は苦笑しながらその背中を追った。
「まったく……強引なガイドだな」
その呟きには、もう先ほどまでの面倒臭さは微塵も残っていなかった。
〜*〜*〜*〜
自然を感じながら山道を登ること数十分。 木々のトンネルを抜けた先に、その場所はあった。
「へぇ、こんな綺麗な川もあったんだな」
彼方は、着替えを済ませた水着姿で、目の前の光景に感嘆の声を漏らした。 透き通ったエメラルドグリーンの水面が、木漏れ日を浴びて宝石のように煌めいている。 上流から下流へ流れる水流は、強すぎず弱すぎず、まさに天然のプールのようだ。
「い、いい場所だよね!」
博之が少し照れくさそうに言う。
「ああ。都会にはこういう場所はもう無いし、とてもいい場所だと思うよ」
彼方は素直に答えた。 コンクリートに固められた護岸工事済みの川とは違う、ありのままの自然。 その美しさに目を細めていると、不意に博之が彼方へ頭を下げた。
「な、なんかさ、さっきはごめんね……」
「ん? 何に対して?」
彼方は本気で首を傾げた。 彼が何に対して謝っているのか、一瞬理解できなかったからだ。
「あっ……俺も悪かった……」 三英までもが、申し訳なさそうに頭を下げる。
「いや、だから何に対してだよ??」
「ほら、最初に会った時……なんとなく失礼な態度とっちゃったでしょ? 『変なやつ』とか『関わるな』とか……」
(ああ……丸聞こえだったからな)
彼方は内心で苦笑したが、それを口にはしなかった。 彼らの警戒心は、閉鎖的な村の人間としては当然の防衛本能だ。それを責めるつもりはない。
「別にいいって。お前らが別に嫌な奴じゃないのも理解したしさ」
「彼方のこと……僕、誤解してたみたいで……」
「俺も、最初は変なやつだと思ったけど、彼方って良い奴だよな」
博之と三英が、安堵したように顔を見合わせる。 その純朴な姿に、彼方の胸の奥が少しだけ温かくなった。
「別にいいってば。……俺だって、最初は正直『めんどくさい絡まれ方したな』って思ってたけど、話しててそういう気持ちは無くなったからさ」
彼方が本音を交えて笑うと、突然、背後から太い腕が伸びてきた。
「ほらなぁ! 俺の見立て通りだったろぉ!?」
勝彦だ。 彼方、博之、三英の三人の首をまとめて抱え込み、調子良さそうにニカッと笑う。
「俺の目に狂いはねぇんだよ! 最初っから『こいつは仲間になれる』ってビビッと来てたんだぜ!」
「いや? かっちゃんには悪いけど、かっちゃんの見立てって結構外れるからね?」
そうそう、と三英が即座に頷く。
「そうだぜ?? しかも、その見立て違いで一番被害にあってるのが、かっちゃんじゃなくて俺ってのが納得いかねぇんだよな〜」
三英がジト目で告発した。 どうやら、このリーダーの勘とやらは、仲間に災難をもたらす種類のあやふやなものらしい。
「ああん!? うるせぇな!!」
痛いところを突かれた勝彦は、三英の背後へと素早く回り込み──容赦ない蹴りを放った。
ドゴォッ!!
「うわぁぁぁぁぁ!!!!!」
見事な放物線を描き、三英の巨体が宙を舞う。 ドッパァァァン!! 派手な水柱を上げて、三英が川へと沈んでいった。
「だ、大丈夫か!?」
彼方は身を乗り出した。 岩場かもしれないし、打ち所が悪かったら──田舎の荒っぽいノリについていけず、一瞬本気で心配してしまったのだ。
「これ、俺らがよくやってる遊びだから。大丈夫大丈夫」
勝彦はケラケラと笑いながら手を振る。 水面からは、ぷはぁ! と水を吹き出しながら三英が顔を出した。怒っているが、怪我はないらしい。
「そ、そうだね……。かっちゃんはあまりやられないけど……」
博之がボソッと、蚊の鳴くような声で不満を漏らした。 リーダーの特権か、あるいは単に暴君なだけか。 だが、その小さな反逆を、暴君の耳は聞き逃さなかった。
「あぁん!? お前らが弱すぎんだよ!! 鍛え直してやる!!」
「ひっ!?」
勝彦は逃げようとする博之の襟首を掴むと、そのまま豪快に川へと放り投げた。
「ぎ、ぎゃぁぁぁぁぁぁ!!!!」
バッシャァァン!! 水しぶきを立てて、博之までもが川の藻屑と消える。
(なるほど……)
彼方はその光景を冷静に観察していた。 博之が不用意なことを言ったから、制裁を受けた。ならば、この場のルールは単純明快だ。 やられる前に、やる。
「おい」
「ん?」
二人が落ちた水面を見て満足げに笑っていた勝彦が、無防備な背中を向けている。 彼方はその背中に狙いを定め、思い切り足裏を叩き込んだ。
「て、てめぇぇぇぇ!!!!」
勝彦の目が驚愕に見開かれる。 踏ん張る間もなく、彼の体は重力に従って傾いていった。」
彼方の涼しい声に見送られ、勝彦もまた、絶叫と共に川面へと吸い込まれていった。
ザッパァァァン!!!
今日一番の水柱が上がり、彼方の顔に冷たいしぶきがかかる。 彼方はびしょ濡れになった自分の顔を拭いながら、声を上げて笑った。




