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二礼二拍手二礼

「雨……止みましたね」


 彼方の心臓を鷲掴みにしていた緊張を解いたのは、他ならぬ雫だった。 彼女は何事もなかったかのように空を仰ぐ。その横顔には、先ほど彼方の深淵を覗き込んだ鋭い洞察の色はなく、ただ巫女としての静謐さだけが戻っていた。 それは彼方を追い詰めないための、彼女なりの配慮だったのかもしれない。


「あ、ああ! そうだな! すっかり晴れたな!」


 彼方は動揺を押し殺し、大袈裟に頷いてみせる。 心の内を見透かされた焦燥から逃れるように、彼はじっと見つめてくる雫の澄んだ瞳から、意識的に視線を逸らした。


「せっかくですし、慈雨神様へお祈りを捧げて行かれませんか?」


「そうだなぁ……せっかく来たし、参拝していくよ!」


 渡りに船とばかりに、彼方はその提案に乗る。 まだ、この場所を離れたくなかったからだ。 雫は「では、こちらへ」と短く告げると、滑るような足取りで案内を始めた。


 雨上がりの境内は、洗われたばかりの木々の香りで満ちている。 朱塗りの回廊を歩きながら、彼方は周囲を見渡した。


「ここの神社……随分広いんだな」


「……随分長く、歴史がありますから」


 雫は背中を向けたまま、静かに語る。


「こちらの神社は、村の方々がお祈りを捧げる……言わば『心の拠り所』のような場所なのです」


「そっか……」


 心の拠り所。 その温かい響きが、どこにも根を下ろせない彼方にとっては、ひどく遠い異国の言葉のように聞こえた。


「こちらが本殿になります」


 案内されたのは、巨大な注連縄が飾られた荘厳な社殿の前だった。 圧倒的な神気。 ただの木造建築ではない。そこには確実に、人知を超えた何かが「居る」気配が漂い、肌をチリチリと刺す。


「神社の参拝方法はご存知ですか?」


「日本人だからな! もちろん! 『二礼二拍手一礼』だろ?」


 彼方は自信満々に答える。一般的な常識。完璧な正解のはずだった。


「……残念ですが、少々違います」


「えっ!?」


 雫はゆるりと首を横に振る。


「こちらの神社には慈雨神様が祀られておりますが、同時に『虚神』様にも畏敬の念を抱くために、『二礼二拍手《《二礼》》』……となっているのです」


「へぇ……」


 また出た。「虚神」という名。 最後の一礼は、感謝ではなく、畏怖と鎮魂のための礼なのか。 慈雨と虚無。生と死。 相反する二つの神を同時に祀る奇妙な風習に、彼方は喉の奥が渇くような感覚を覚えた。


「では、私が先にお祈り致しますので、後に続いてくださいませ」


 雫は賽銭箱の前に進み出ると、姿勢を正した。 深く、二回頭を下げる。 パン、パン。 柏手を二回打つ。乾いた音が、雨上がりの空気に凛と響き渡る。 そして最後に、もう一度深く、二回頭を下げた。


 その一連の所作は、舞のように美しく、無駄がなく、完成された儀式のようだった。 彼方も見様見真似で隣に並ぶ。


 二回礼をし、手を打ち、そして最後に二回、頭を下げる。 最後の礼の最中、ふと、暗い地の底へ向かって頭を垂れているような錯覚に陥った。 自分の内にある虚無が、地下の虚無と共鳴するような、奇妙な引力。


「……ふぅ」


 顔を上げ、彼方は息を吐く。


「他の神社にも何回か行ったけどさ、ここが一番力を感じる気がするよ」


 お世辞半分、本音半分。 だが、雫はその言葉を額面通りに受け取ったのか、淡く微笑んだ。


「左様でございますか。私としましても、あなたのお力になれたのであれば幸いでございます」


 その言葉は丁寧だったが、どこか自分という個を消し去った、「役割」としての響きのように聞こえた。


「雫ちゃん。……巫女って、みんな雫ちゃんみたいな人なの?」


 彼方の問いかけには、純粋な好奇心以上の熱が宿っていた。 「寂しそうな顔をしている」。彼がひた隠しにしてきた深淵を、出会い頭に言い当てた少女。 その鋭さと、人間離れした透明な気配に、彼方は強烈に惹きつけられていた。


「いえ……巫女と申しましても、人それぞれですので……」


 雫は少し困ったように視線を伏せる。


「そっか」


 会話が途切れる。雨上がりの境内に、再び沈黙が降りた。 気まずい。だが、帰りたくない。 彼方は脳内で必死に言葉を探る。普段なら呼吸をするように紡げる軽口が、この少女の前ではうまく出てこない。


「あの……まだ、なにか?」


 雫の無垢な瞳に射抜かれ、彼方は観念したように口を開いた。


「雫ちゃんは、いつもこの神社にいるの?」


「ええ。基本的には、毎日おりますが」


「そっか! なら、定期的にここに来てもいいかな?」


 勢い込んで尋ねる彼方に、雫は一瞬だけ瞬きをし、小さく頷いた。


「……参拝は自由ですので。それは構いませんが」


「ありがとう! じゃあ、今日はこの辺りで俺は帰るよ! 参拝の仕方や境内の案内をしてくれて、ありがとうな!」


 目的は達した。 「また会える」という確約、細いけれど確かな繋がり。 彼方は安堵と高揚感を胸に、逃げるように駆け出した。


 濡れた石畳。苔むした参道。 浮き足立った彼方の足元には、無数の罠が潜んでいることを忘れて。


「あっ……! そこ、雨で滑りやすくなっていますので──」


 雫の警告は、静寂を切り裂く音にかき消された。


「うわぁ!!!?」


 ズシャァッ! 盛大に、無様に。 運動神経抜群の彼方にはあり得ない失態。濡れた石に足を取られ、彼は拝殿の前で派手に転倒した。


「…………」


 時が止まる。 雫はふう、と花が散るような溜息を一つ零すと、社務所へと戻り、新しいタオルを持って戻ってきた。


「お気をつけください」


 差し出された二枚目のタオル。 呆れているようにも見えるし、心配しているようにも見える。だがその手つきは、どこまでも義務的で淡々としていた。


「は、はは……サンキュ……」


 彼方は今にも消え入りそうな声で礼を言う。 痛みよりも、恥ずかしさが全身を駆け巡る。 完璧な「時坂彼方」の仮面が、この少女の前では泥だらけだ。


「タオル二枚も汚しちゃって、ごめんな……」


「いえ、タオルのことは良いので……。お怪我をされては大変ですから、気をつけてお帰りくださいね」


 雫の言葉に熱はない。怪我人が出れば神社の迷惑になる、程度の意味合いだろう。 だが、彼方にはその「気をつけて」という言葉が、不思議と温かいものとして響いた。 誰にも心配させないように生きてきた彼にとって、その無機質な優しさは、皮肉にも新鮮な救いだったのだ。


 彼方は今度こそ慎重に立ち上がると、泥のついた背中を丸め、逃げるように鳥居をくぐっていった。


 〜*〜*〜*〜


 夕闇が迫る頃、彼方は宿に戻っていた。 逢魔が時。昼と夜の境界が曖昧になるその刻限、築数十年は経っていそうな木造の宿は、どこか異界の入り口のような佇まいを見せている。 だが、通された部屋は隅々まで掃除が行き届いており、古さよりも人の手の温もりが感じられる居心地の良い空間だった。


「今日の晩御飯はこちらになります!」


 静寂を破るような元気の良い声と共に、女将が重そうな盆を運んでくる。 朱塗りの膳が畳の上に置かれた瞬間、部屋の空気が一変した。


「うぉぉー!! 豪華っすね!!」


 彼方は目を輝かせ、感嘆の声を上げた。 膳の上に並ぶのは、この土地の豊かさを凝縮したような品々だ。 釜からよそわれたばかりの白米は、立ち上る湯気が甘い香りを放ち、一粒一粒が真珠のように光っている。 小鉢には、瑞々しい夏野菜の煮浸し。出汁を吸った茄子や獅子唐が、深い翡翠色に輝く。 そして主役は、清流で育ったであろう大きなイワナの塩焼きだ。 海のないこの村ならではの、最高の贅沢。焼けた皮目の香ばしさが、空腹を強烈に刺激する。


「ははは、そうだろう?」


 彼方の素直な反応に、女将はふんぞり返るように胸を張った。 その笑顔には、村の恵みに対する絶対的な自信が滲んでいる。


「こんなに飯も豪華なのに、一泊五千円なんですか!?」


「この村じゃね、自給自足だから。他の会社やら何やらを中継しない分、安く出来るって訳さ」


「なるほど……」


 流通から切り離された閉鎖的な経済圏。 それがこの村の秘密の一端であり、外界との隔絶を意味するものでもある。 彼方は納得したように頷いた。


「さてと、じゃあ私はまた広間にいるからね! 何かあったら呼んでおくれよ!」


「ありがとうございます!」


「あっ、そうだ。一応内風呂もあるけど……ここの風呂より、外にある銭湯のが広くて温まるから、そっちをオススメするよ!」


 女将はそう言い残し、ドタドタと廊下を去っていった。 その足音が遠ざかると、部屋には再び静寂が降りる。


 残されたのは、彼方と、湯気を立てる温かい料理だけ。 彼方は「いただきます」と小さく手を合わせると、箸を手に取り、まずはイワナの身をほぐして口へ運んだ。


 淡白な白身に、絶妙な塩加減と川魚特有の滋味深い脂が絡み合う。


「……うんめぇぇぇ!!!」


 絶叫が、部屋に響いた。 それは演技ではない。 孤独を抱えた少年の空っぽな胃袋を、その圧倒的な「命」の味が、強引に満たしていくようだった。


 

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