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雨の中に現れた巫女

 朱色の鳥居が、濡れた石段の向こうで息を潜めていた。


 くぐり抜けた瞬間、世界から音が剥ぎ取られる。 激しい雨の帳が全てを包み込み、そこには現世と隔絶された聖域が広がっていた。 奥に控える社殿は静謐な威容を保ち、幾星霜を経た老樹のごとく、時の重みを背負って鎮座している。


 彼方は雨粒を散らしながら、朽ちかけた社務所の軒下へと身を滑り込ませた。


「……はぁ。初日からこれか……ツイてないな」


 水を吸ったシャツが肌に張り付く不快感を振り払うように、自嘲の笑みが零れる。 見上げれば、つい先ほどまで澄み渡っていた空は黒雲に侵食され、山頂は墨を流したような闇に沈んでいた。 針元の男は胸を張って晴天を保証していたが、山の機嫌など人間に読めるはずもない。


「せめて早く晴れてくれればいいな…」


 灰色の世界を睨みつけていると、不意に背後で気配が揺れた。


「あの」


 鈴の音にも似た涼やかな声が、雨音の隙間を縫って届く。 彼方が振り返ると、そこには時が止まったような光景があった。


 一人の巫女が、佇んでいる。


 焦げ茶の髪を清楚に結い上げ、白の小袖に緋袴という出で立ち。 その細い指先には、雪のように真っ白なタオルが握られていた。 この世の穢れを知らぬかのような、あるいは全てを超越してしまったかのような、不思議な透明感。


「ずいぶんと濡れてしまわれたようですね」 「……これを使ってください」


 差し出されたタオルを受け取る瞬間、ふわりと石鹸の香りが立ち昇った。 その人間らしい生活の匂いに、彼方は反射的に「好青年」のスイッチを入れる。 人当たりの良い笑顔、礼儀正しい所作——長年かけて完成させた、完璧な鎧。


「助かるよ〜! ありがとう!」


 屈託なく笑い、タオルで顔を拭いながら、彼方は少女を観察した。 同じ年頃のはずなのに、その佇まいにはまるで俗世から切り離された異質さが漂っている。


「こんなにも急な大雨は、珍しいのですけれど……」


 少女は雨空を仰ぎ、誰にともなく呟いた。


「慈雨神様は……何を悲しんでおられるのでしょうか」


 それはまるで、天上の誰かと密やかに言葉を交わしているような、奇妙な響きだった。 彼方は努めて明るく振る舞い、その不可思議な空気を中和しようと試みる。


「俺は、時坂彼方! 君は?」


「……天宮あまみやしずくと申します。この神社で巫女を務めております」


 深々と頭を下げる所作は完璧だった。 だが、その完璧さゆえに、人を寄せ付けない見えない壁を感じさせる。


「雫ちゃん、か。見たところ俺と同い年くらいだよね? よろしく!」


「……はい。よろしくお願いいたします」


 馴れ馴れしい口調にも、彼女は水面のように静かに応じるだけだ。 彼方は会話の糸口を探すように、社殿の方を見やった。


「来る途中に看板に載ってたけどさ、ここは天鳴神社って言うんだよな? どんな神様が祀られているの?」


「ここに祀られておりますは、慈雨神様です。恵みの雨と豊穣を司る、お優しい神様と伝えられていますよ」


 教科書を暗唱するような、感情の乗らない平板な声。 だが彼方の意識は、すでに神話の説明から逸れていた。


 不思議と、目の前の少女に強烈に惹きつけられている自分がいた。


 硝子細工のような美しさと、今にも雨に溶けて消えてしまいそうな儚さ。 そして何より、その栗色の瞳の奥に宿る、年齢に不釣り合いな深淵。


 彼方は気が付かないが、それは鏡を見るのと似ていた。


 その直後に、叩きつけていた雨が嘘のように止んだ。 分厚い雲の切れ間から陽光が差し込み、濡れた境内が、まるで世界が生まれ変わったかのように宝石めいた輝きを放ち始める。


「おっ! 晴れてきたな」


 彼方は空を見上げ、明るい声を上げた。 本当に、山の天気とはどうしようもないほどに読めないものである。まるで、誰かの気まぐれに翻弄されているかのように。


「ええ」


 雫が、静かに白い手を差し伸べる。


「タオルを」


「ああ、びしょ濡れにしちゃってごめんな…!」


「大丈夫ですよ。お構いなく」


 タオルを受け取った彼女は、しかし立ち去ろうとはしなかった。 その栗色の瞳が、じっと彼方を見つめている。 それは決して品定めをするような視線ではない。もっと深い場所――彼が誰にも触れさせないよう、堅く閉ざしてきた心の深淵を、静かに覗き込むような目だった。


 沈黙が、雨上がりの空気に溶けていく。 その視線の透明さに、彼方は得体の知れない居心地の悪さを覚え、茶化すように問う。


「……な、なに? 俺の顔になにかついてるかな?」


 彼方の問いかけに、雫は長い睫毛を伏せた。 そして再び顔を上げると、確信めいた声音で告げた。


「いえ……あなた、ずいぶんと寂しそうなお顔をしていらっしゃいますね」


 ドクン、と。 心臓が跳ねた。


 背筋を冷たい汗が伝う。 完璧に演じてきたはずの仮面を、今日初めて会ったばかりの少女が、あっさりと見透かしている。


「え…? そ、そうかな!? 気のせいじゃないか?」


 反射的に否定の言葉が口をついて出た。 顔には、いつもの愛想笑いが張り付いている。


 だが、彼女は正しかった。


 時坂彼方は生まれながらにして、この世界のどこにも居場所を持たない虚無を抱えている。 恵まれた環境、多くの友人、「悩みなど持たない陽気な好青年」という評判——それら全ては、彼が社会に溶け込むために演じている役柄に過ぎない。 心の最奥には、常に空虚な風が吹き荒れている。


 誰にも気づかれなかったその風の音を、雨上がりの境内で出会ったばかりの巫女は、いとも簡単に聞き届け、暴いてみせたのだった。


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