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泣いた空

 宿の引き戸を背に、彼方は夏の熱気の中へと飛び出した。


 眼下には、日本の原風景とも呼べるのどかな景色が広がる。視界の隅、道端で黙々と草を刈る背中を見つけると、彼は条件反射のように口角を持ち上げ、精巧な仮面を被った。


「こんにちは!」


 愛想よく、しかし踏み込みすぎない絶妙な距離感で声をかける。


 草刈りの手を止めたのは、日焼けした肌に玉の汗を浮かべた、三十代半ばの精悍な男だった。不審者を見るように怪訝な眉を寄せたのも束の間、彼方の屈託のない笑顔を見るなり、毒気を抜かれたように表情を緩める。


「おや? 見ない顔だね」


「俺、自由研究の課題で調査に来た、時坂って言います!」


「はは、そうかい。この村はいい場所だろう?」


 村人の問いかけに、彼方は一考の余地もなく即答した。


「はい! とっても!」


 その言葉に嘘はない。外界から隔絶されたこの集落の静寂は、社会というシステムに馴染めない彼にとって、心地よい空白だったからだ。


 男は鎌を置き、手拭いで汗を拭いながら、どこか不可思議そうな顔を向けた。


「僕の名前は、針元(はりもと) 信助(しんすけ)。君は調査に来た……と言ったけど、この地には特に調査できるような大層なものなんてないよ?」


「この村にあるっていう、『神隠し』について調べに来たんですよ」


 彼方が核心を口にすると、針元の目がわずかに丸くなった。


「えっ??? 君は……物好きなのかな」


 針元は苦笑しつつも、その瞳には好奇心旺盛な若者への呆れと、僅かな親愛の色が混じる。


「じゃあ、せっかくだし、少し怖い話をしてあげるよ。……実はこの村の付近には、二柱の神様が祀られているんだ」


「神様、ですか??」


「そうだよ。この村はね、随分昔から歴史があって……」


 針元は視線を村の奥、聳え立つ山へと向けた。


「あの山──『鳴神山』には、「慈雨神」と『虚神』という神様が祀られているのさ」


「虚神様……その神様って、どんな神様なんですか?」


 彼方は自身の心の虚ろをその名に重ね、身を乗り出して尋ねた。


 ネットの海に漂う有象無象の噂話や、古い文献の隅に追いやられた記述ではない。この地に根を張り、生きる人間の「生の声」を、彼は求めていたのだ。


 針元は一度周囲を見渡し、誰に聞かせるわけでもないのに声を潜めた。


「虚神様はね……実はとーっても怖い土地神様でね……」


 その声音には、親しみよりも深い、骨髄に染み付いたような畏怖が滲んでいた。


「昔は荒ぶってて、沢山天災を起こしたみたいだよ。地震、洪水、日照り、疫病……この村を何度も何度も苦しめたって話が伝わってるよ」


「うわぁ……大変だったんですね……」


 彼方は深刻そうな相槌を打つ。だが、その胸の奥で蠢いたのは恐怖ではない。人知を超えた力への、好奇心。


「はは。まぁ今は、そんな神様もすっかり落ち着かれて、自然の恵みを我々に与えてくださるんだ。信じるか信じないかは、君次第だけどね」


 針元はそう言って、からりと笑った。


「そうだ、山には行ったかい?」


「さっき宿を取ったばかりで、まだどこも行けてないんですよね」


「そうかい! なら、行ってみるといいよ! 今日は天気も良いから、雨が降るなんてこともないだろうし。なによりあの山は、野鳥の鳴き声や川のせせらぎが凄く良い、素敵な山なんだ」


「なるほど……! じゃあ、早速これから行ってみます!」


「はは、行動力がすごいね。いい事だ」


 針元は眩しそうに彼方を見た後、親指で自分を指した。


「この村は狭いから、君が滞在する間はよく会うことになるだろう。その時は遠慮なく声を掛けてくれ」


「分かりました! その際はよろしくお願いします!」


「では、行ってきます!」


 彼方は礼儀正しく一礼し、軽快に手を振ってその場を後にした。


 〜*〜*〜*〜


 村外れから続く道を抜け、鳴神山の領域へと足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。


「すげぇ……まさに大自然って感じだ」


 彼方は思わず感嘆の声を漏らす。


 頭上からは無数の鳥たちの囀り。夏の象徴である蝉時雨。そして、足元を流れる沢の涼やかなせせらぎ。


 それらが喧嘩することなく見事に同居し、ひとつの交響曲となって鼓膜を揺らす。この山が、ただの土塊ではなく、巨大な一つの生命体として生きていることをありありと告げていた。


 川の方へ目をやれば、透き通った水の中を大きな川魚が優雅に泳いでいる。


 針元が言っていた「自然の恵み」という言葉の意味が、理屈ではなく肌感覚として理解できた。


 これほどまでに豊かな命が溢れている場所。


 彼方は深呼吸をし、肺いっぱいに山の空気を吸い込む。


 清涼な川辺を離れ、彼方がさらに奥へと足を進めると、唐突に道が二手に分かれた。


 その分岐点には、風雨に晒され黒ずんだ木製の看板が、墓標のように突き刺さっている。


 掠れかけた墨字が、二つの神域を指し示していた。


『左 虚神ノ祠』


『右 天鳴神社』


(祠、それに神社かぁ……)


 彼方は足を止め、ぼんやりとその文字を眺める。


 そして、彼方の視線は吸い寄せられるように「虚」の文字へと落ちていく。


(とりあえず、こっちの祠に行ってみるか)


 一歩、その領域に踏み入れた瞬間、世界の色調が変わった。


 先ほどまで頭上から降り注いでいた木漏れ日は、鬱蒼と茂る木々の屋根に遮られ、昼間だというのに薄暮のような暗さが漂い始める。


 生命力に溢れていた緑は、ここでは光を奪い合うように捻じれ、彼方の行く手を阻む壁のように立ちはだかっていた。


 鳥の声が遠のく。風が止む。


 湿度を含んだ生温かい空気が、肌にまとわりつく。


(気のせいか……?)


 彼方は首を傾げるが、足は止めない。


 前方には、枝葉が折り重なってできた暗い木のトンネルが口を開けている。


 それは単なる獣道ではない。まるで巨大な生物が獲物を飲み込むために開いた、食道のような暗闇。


 不気味な静寂。


 だが、彼方は恐怖よりも先に、奇妙な感覚に囚われていた。


 暗い木のトンネルが、自分を招いている──。


「おいで」と手招きされているような引力に、彼方は抵抗することなく、その闇の中へと呑み込まれていった。


 その時だった。


 空が、唐突に泣き出したのだ。


 予兆も、湿度の変化もなかった。


 ポツリ、という猶予すら与えず、世界は一瞬にして轟音に包まれた。


 それはただの雨ではない。バケツを引っくり返したような、あるいは滝の中に放り込まれたかのような豪雨だ。


 地面を叩く雨粒が白い煙となって立ち上り、彼方の視界を奪っていく。


「まじかよ……! さっきまでめちゃくちゃ晴れてたじゃんか……!!」


 彼方は頭を抱え、悪態をつきながら来た道を駆け戻る。


 針元の「雨が降るなんてこともないだろう」という言葉が、皮肉のように脳裏をよぎった。


 だが、今は文句を言っている場合ではない。このままでは全身ずぶ濡れになるどころか、足元の土が泥濘み、歩くことすらままならなくなる。


(そうだ! さっきの分かれ道……神社があったはずだ!)


 彼方の脳裏に、先ほどの看板の文字が浮かぶ。


『天鳴神社』。


 しっかりとした社殿があるのなら、屋根があるはずだ。


「あっちで雨宿りさせてもらおう……!」


 彼は「虚」への道を背にし、泥を跳ね上げながら分岐点を右へと折れた。


 雨脚は弱まるどころか、さらに激しさを増していく。


 息を切らして坂を駆け上がると、白い雨のカーテンの向こうに、鮮烈な色彩が浮かび上がった。


 巨大な、朱色の鳥居だ。


 雨に濡れた朱は、血が通ったかのように艶かしく、灰色の世界の中で異様な存在感を放っている。


 それは静かに、しかし確固たる意志を持ってそこに佇んでいた。


 まるで、迷い込んできた彼方を「ようこそ」と招き入れるかのように。


 彼方は吸い込まれるように、その結界の内側へと足を踏み入れた。

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