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夏の初日


 彼方は、隙間の空いた引き戸に手をかけた。 指先に伝わるのは、長い年月を吸い込んだ木のざらつき。 力を込めると、ガララ……と、油の切れた車輪が悲鳴のような音を立てて開いた。


 「すみません〜」


 声を張り上げるが、返答はない。 その声は、夏の午後の粘りつくような静寂に、あっけなく飲み込まれていく。


 建物の奥から漂ってくるのは、古い畳の匂いと、どこか懐かしくさを覚える線香の残り香。 人の気配はある。柱の傷にも、磨り減った床板にも、確かに生活の痕跡が刻まれている。


 「あれ? いないのかな? すみませーん!」


 彼方は今度こそ、腹の底から声を上げた。 若々しいその声が、薄暗い廊下の奥へと木霊する。


 直後──。


 「えっ!!?」


 奥の部屋から、素っ頓狂な驚愕の声が弾けた。 ドタドタドタ! と、慌ただしく床板を踏み鳴らす音が近づいてくる。


 「ご、ごめんなさいねえ!! お客さんが来るなんて思ってなくて!!」


 勢いよく姿を現したのは、藍染めの浴衣を少し着崩した、四十代半ばから五十絡みの女性だった。息を弾ませ、引きつった筋肉を無理やり持ち上げるようにして、彼女は「営業用」の笑顔を作った。


 「あ、いえ! 大丈夫ですよ。急にお邪魔しちゃって」


 彼方は、完璧な「好青年」の仮面を被り、人懐っこい笑みを浮かべて応じた。


 女将は一度深呼吸をして呼吸を整えると、値踏みするように彼方をじろりと見上げ、僅かに眉を寄せた。


 「一応聞いておくんだけど……宿泊で、間違いないかい?」


 その声音には、商売っ気よりも、警戒と不安が色濃く混ざっていた。


 「はい。宿泊でお願いします」


 「おお、そうかいそうかい! ……随分元気な子だねえ。ちなみに、何泊くらいする予定だい?」


 客だと確定した途端、女将の顔がぱっと明るくなる。現金なものだ。


 (夏休みの初日から来れたから、二十五日は泊まれるかな。一泊一万だとしても、ギリギリ……)


 彼方は無意識に、背中のリュックの重みを確かめた。 中に入っているのは、三年間、学校が終わった後にコンビニや倉庫作業で時間を切り売りして貯め続けた、三十万円の現金。 高校生にしては大金だ。


 「ここって、一泊いくらですか?」


 「うちの宿はね、食事付きで、一日五千円だよ」


 (……安っ!!)


 都会育ちの彼方にとって、その金額は衝撃的だった。 彼の知る限り、東京のビジネスホテルでさえ素泊まりで一万は飛ぶ。それがこの村では、食事までついて半額以下。 まるで、ここだけ昭和の物価で時が止まっているかのようだ。


 「じゃあ――二十五日、お願いします」


 彼方は迷わず即答した。


 「はーい! 毎度!! 二十……え?」


 威勢のいい返事が、空中で凍りついた。 女将は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、瞬きを繰り返す。


 「まっ、待っておくれ。聞き間違いじゃないよね? に、二十五日? 本当に?」


 「はい。二十五日でお願いします! お金なら、前払いでも大丈夫ですよ?」


 彼方は悪びれもせず、リュックを下ろそうとする。


 女将の顔には、驚愕と困惑、そして僅かな歓喜と底知れぬ恐怖が入り混じった、なんとも形容しがたい表情が張り付いていた。 この閉鎖的な村に、二十五日も滞在する「余所者」。 そんな異物は、恐らくここ数十年、誰一人としていなかったのだろう。


 「ま、毎度あり……」


 女将は引き攣った笑顔をどうにか保ちながら、震える手で宿帳を開いた。


 そして、女将が案内をしてくれる。


 廊下を進むにつれ、彼方の靴下の裏に伝わる冷気が増していく気がした。 次々と現れる無人の和室。 黒光りするほどに磨き上げられた廊下の板、手入れの行き届いた障子の桟、欄間に彫られた精緻な透かし彫り。 これほど格式高く、手入れの行き届いた宿であるにも関わらず、人の気配がまるでない。埃ひとつ落ちていないことが、かえってそこにある「不在」を際立たせていた。


 (なんで、こんな素敵な宿に客が来ないんだろう?)


 彼方の胸に、素朴な疑問が芽生える。 廃れているわけではない。まるで、誰かが来るのをずっと待っていたかのように、準備だけが完璧に整えられている。


 「……ところでお客さんは、何しにこんな辺鄙な村へ?」


 前を歩く女将が、世間話のついでといった風情で尋ねた。


 「俺、今高校三年生なんですけど、最後の自由研究にこの村に伝わる『神隠し』の話や伝承を調べようと思って」


 彼方の声は、夏の空のように屈託なく弾んでいた。 その単語が出た瞬間。 女将の背中が、ピクリと強張ったように見えた。


 ほんの数秒の沈黙。 廊下の軋みすら止まったような静寂の後、彼女はゆっくりと振り返った。その顔には、柔らかな笑みが貼り付いている。


 「おやおや……本当に元気だねえ……。物好きというか、なんというか。……じゃあ、お客さんの部屋はこちらだよ」


 女将がスッと襖を開け放つ。 その瞬間、彼方は息を呑んだ。


 そこは「客室」と呼ぶにはあまりに広すぎた。 十畳は優にある本間。床の間には季節の掛け軸と、野趣あふれる生け花が飾られている。 そして何より目を奪うのは、大きく取られた窓の向こうに広がる景色だ。


 手入れされた日本庭園。 苔むした石灯篭に、計算して配置された飛び石。小さな池の水面が午後の陽光を反射し、ゆらゆらと障子に光の紋様を描いている。 静謐で、贅沢で、そしてどこか――隔離された『座敷牢』のような美しさがあった。


 「うわぁ〜!! すげえ!!」


 彼方は思わず声を上げた。その感動に嘘はない。


 「ふふ、そこまで喜んでもらえると、この一番いい部屋に決めて良かったよ」


 女将は心から嬉しそうに目を細める。


 「部屋の鍵はこちらね。それから、設備は好きに使って構わないから。ただ、貴重品とかは、その金庫にでも入れておいてもらえるかい?」


 彼女は床の間の脇にある、古めかしい金庫を指差した。


 「一応、二十五日も泊まるなら、私が定期的にこの部屋を掃除しておくからさ」


 「本当ですか!? ありがとうございます!」


 「はは、若いお客さんを見てると、こっちまで元気になれるからねぇ。これくらいサービスするさ」


 そう告げると、女将は満足げに微笑み、音もなく襖を閉めて去っていった。


 パタン、と閉ざされた空間に、彼方一人。 彼は上質な座布団に腰を下ろし、畳の井草の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。


 (さて、どうするか……)


 夏休みの初日というのは、大抵の人間が浮かれているものだ。 そして彼方も、その「浮かれた高校生」という役を演じることに、なんの苦痛も感じていなかった。 自由研究という建前はある。けれど、最初くらいは純粋に村を楽しんでも構わないだろう。


 ――そんな甘い考えが、毒のように思考を麻痺させ始めていることに、彼は気づかない。


 「よし。じゃあ、ひとまず散策でもするか」


 彼方は誰に言うでもなく呟くと、弾かれたように立ち上がり、部屋の鍵を掴んだ。


 宿の玄関を飛び出すと、そこは圧倒的な夏の支配下だった。 視界を白く染める陽射し。 耳を聾するほどの蝉時雨が、村全体を包み込むように、あるいは閉じ込めるように響き渡っている。




 

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