紅色の双眸
彼方は、高笑いと共に自らも水面へと身を投げた。
全身を包み込む衝撃。 直後に襲ってくるのは、骨の髄まで染み渡るような清流の冷たさだ。 火照った体から熱が一気に奪われ、代わりに透明な爽快感が駆け巡る。 彼方は水面に顔を出すと、濡れた髪をかき上げ、大きく息を吐いた。 東京のプールのような塩素の匂いはしない。ただ、山の匂いと水の匂いがするだけだ。
それからさらに数十分。 彼らが童心に帰って水を掛け合っていると、ふいに場の空気を凍らせるような声が降ってきた。
「……あんたたち、なにしてんの?」
冷ややかで、呆れを含んだ声。
彼方が声の方を見上げると、そこには一人の少女が岩場に仁王立ちしていた。
黒髪のロングヘアに、知的な顔立ち。 着用している水色のワンピースタイプの水着が、彼女のクールな雰囲気を際立たせている。 彼女は眼鏡の位置を直しながら、彼方へと視線を流した。
「それに……見ない顔ね」
霞むような声で呟く。その瞳は、異物を検分するように鋭い。
「おお〜! 智子! お前らも川遊びかー?」
勝彦が、水を滴らせながら暢気に手を振る。 どうやら顔見知りのようだ。
「……そうだけど」
智子が短く答えると、その背後から、まさに真夏の太陽を擬人化したような二人の少女が姿を現した。
「やほやほー! あれ? 見たことないイケメンがいるじゃん!」
一人は、健康的な小麦色の肌を持つ活発そうな少女。 そしてもう一人は、ふんわりとした空気を纏った、あからさまにマイペースそうな少女だ。
「お〜 もう泳いでるんだね〜。私たちも泳ごうぜぃ〜」
三者三様。 だが、彼方の分析回路は瞬時に理解した。 あの岩場に立つ「智子」と呼ばれた少女こそが、この女子グループのリーダー格であり、勝彦と同等の発言力を持つ存在なのだと。
彼方は反射的に、水中で姿勢を正し、「仮面」を装着した。
「こんにちは。俺は、時坂彼方! 都会の方から、調査でこの空蝉村へ来てるんだ!」
爽やかな笑顔と共に自己紹介をする。 すると、智子は彼方をじっと観察した後、ふんと鼻を鳴らした。
「時坂くん、ね。……そこの騒がしい猿三匹に比べたら、ずいぶん大人っぽくて理性的だわ」
「うっせー! 余計なお世話じゃい!! 誰が猿だ!!」
即座に抗議の声を上げる勝彦。 だが、智子は眉一つ動かさず、氷点下の視線で彼を射抜いた。
「黙りなさいよ! うるさいと、その足に重りを括り付けて水底に沈めるわよ!?」
「……っ!?」
(こっわ……)
彼方は戦慄した。 比喩表現にしては具体的すぎるし、彼女ならやりかねない迫力がある。もちろん口には出さないが。
「んだとコラァ!! やれるもんならやってみろ!!」 「ハァ!? あんたこそ、女子の水着見てデレデレしてんじゃないわよ!」
ギャーギャーと言い争いを始める勝彦と智子。 顔を合わせるなりこの有様だ。どう見ても相性最悪の「犬猿の仲」。
「まぁまぁ、かっちゃん落ち着いて……!」 「ちょ、智子ちゃんもストップストップ!」
三英と博之が、暴れようとする勝彦を必死に羽交い締めにする。 一方、岩場の上でも、ギャルとマイペース少女が智子の両脇を固め、なだめている。
(なるほど……)
彼方はその光景を、水に浸かりながらボンヤリと眺めていた。 男たちの園に、嵐のような女子たちが加わった。 どうやら、彼方の静寂な調査旅行は、ますます遠のいていく運命にあるらしい。
〜*〜*〜*〜
「ううっ…寒っ……! お、俺はもう上がるわ…」
冷たい水に浸かり続けて数十分。 都会の温室育ちである彼方には、山の雪解け水も混じる清流の冷たさは、骨身に堪える厳しさだった。 ガチガチと歯を鳴らしながら、彼方は岩場へと避難する。
「えー! もう出るのかよ! 軟弱だなぁ!」 勝彦が水を掛けながら茶化す。
「あはは! 彼方くんってば、まだまだだね〜♪」
ギャルの由利香と名乗った少女が、ケラケラと笑い声を上げた。 彼女の視線は、遠慮なく彼方の濡れた身体や顔立ちを舐めるように見つめている。 彼方は無自覚だが、その整った顔立ちは、田舎の少女たちにとって刺激的な「都会の華」そのものだ。 智子は冷静を装っているが、由香里ともう一人のマイペースな少女、美桜は明らかに彼方に興味津々といった様子である。
彼方はタオルで体を拭きながら、ふと川の中を見やった。 そこには、言い争いながらも楽しげに水を掛け合う勝彦と智子の姿がある。
美しい顔立ちの智子と、野性味あふれる男前な勝彦。 「犬猿の仲」とは言うが、並んでいると妙にしっくりくる。まるで一枚の絵画のようなバランスの良さだ。 彼方はそんな青春の一コマを微笑ましく眺めつつ、少し離れた木陰のベンチに腰を下ろした。
心地よい疲労感に身を委ねて目を閉じる。
〜*〜*〜*〜
それから、どれくらいの時が流れただろうか。
「……まだ上がらないのか。アイツらどんな体力してるんだ……」
彼方は重たい瞼を擦りながら、ぼんやりと考えた。 いくら夏とはいえ、長時間水に入っていれば体温を奪われるはずだ。 だが、川の方からは未だに楽しげな声が……。
いや。 なにかがおかしい。
数分前までは確かに聞こえていた歓声が、ピタリと止んでいる。 それだけではない。 サラサラと流れていたはずの川のせせらぎ、けたたましく鳴いていた蝉の声、風が葉を揺らす音。 それら全ての「世界音」が、スイッチを切ったように消失していた。
真空のような、絶対的な静寂。
「……おい?」
彼方は弾かれたように立ち上がり、川を覗き込んだ。
すると…… ──誰も、いなくなっていた。
勝彦も、博之も、三英も。 女子グループの智子たちさえもが、忽然と姿を消している。 荷物は岩場に残されたままだ。
(上がったのか? いや……)
それにしてはおかしい。 彼らなら、彼方に一言もかけずに帰るなどあり得ない。 それに、水面は鏡のように凪いでおり、誰かが上がった波紋すら残っていないのだ。
「な、なんだこれ……」
背筋を冷たいものが這い上がる。 徐々に、しかし確実に、彼方の心に焦燥と恐怖が芽生え始めていた。 これは、ただの迷子ではない。世界の理がズレている。
その時だった。
チリン……。
どこからともなく、涼やかな鈴の音が鼓膜を撫でた。 彼方がハッとして音の方へ視線を巡らせると、川の上流、白い霧が立ち込める岩場に、見覚えのある後ろ姿があった。
巫女装束の少女。天宮 雫だ。
「雫ちゃん!?」
彼方の心臓が跳ね上がる。 知っている顔を見つけた安堵。彼は一目散に駆け出した。
「おーい! 雫ちゃん! みんなが急にいなくなって……!」
だが、走っても走っても、その背中は近づかない。 まるで空間がゴムのように引き伸ばされているかのように、距離が縮まらないのだ。
「はぁ……はぁ……なんだこれ……! 待ってくれ!」
彼方の叫びに応えるように、雫がピタリと足を止めた。 今がチャンスだと、彼方は残る力を振り絞って駆け寄る。 今度は、追いついた。手が届く距離まで。
「はぁ…っ…はぁ……し、雫ちゃん」
荒い息を吐きながら、彼方は彼女の肩に手を伸ばす。
すると。 雫は、ゆっくりと彼方へと振り返ろうとした。 ゆっくり、ゆっくりと。 コマ送りの映像を見ているような、あるいは錆びついた機械のような、生物としてあり得ない不自然な速度。
ギギ……と、首の骨が軋むような幻聴が聞こえる。 そして、彼女の顔が完全にこちらを向いた。
「――――」
彼方は息を呑み、声すら出せなかった。 そこにあるのは、確かに雫の顔だ。 だが、その瞳。 かつて彼方の深淵を見透かした透明な栗色の瞳は、今や**「鮮血の紅」**へと変色していた。
その双眸は、彼方を見ていない。 彼方の背後にある「死」そのものを見つめているような、虚無の紅。
〜*〜*〜*〜
「か……ん。かな……くん……」
遠くから、水膜を通したような音が聞こえてくる。
「彼方くん! 起きて!」
「っ!!」
バッと、弾かれたように彼方は顔を上げた。 心臓が早鐘を打っている。全身が冷や汗でびっしょりだ。
「……え?」
視界に飛び込んできたのは、心配そうに彼方の顔を覗き込む、由香里の派手なメイク顔だった。 その後ろには、勝彦や智子たちが「よく寝てたな〜」と呆れ顔で立っている。
「あはは♪ 疲れて寝ちゃってたの? うなされてたよ?」
由香里が面白そうに笑う。 川のせせらぎが聞こえる。蝉の声がうるさいほどに響いている。 先程までと同じ、夏の午後だ。
「夢……?」
彼方は自身の掌を見つめる。震えは止まらない。 現実に戻った安堵感。 だが、彼方の脳裏には、あの焼きつくような「紅色の瞳」の雫が、呪いのようにこびりついて離れなかった。




