あなたは神様を信じますか?
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本を手に取ってくださり、ありがとうございます。
こちらの作品はミステリー、ホラー、青春劇、伝奇、SFと様々なジャンルとなっております。
楽しんでいただけますと幸いです。
あなたは……神様を信じますか?
古来より、神とは畏怖すべき『恐ろしいもの』であり、同時に救いをもたらす『慈悲深いもの』として語られてきました。
人知を超え、ただそこにあるだけの絶対的な存在。
けれど、もしも私見を許されるのなら。
神様というのは――信じる者の足元を照らす、等しく優しい灯火のような存在だと定義したいのです。
ふふっ。もちろん、これはあくまで一つの仮説に過ぎません。
しかし、世界は残酷なほどに美しいのだと、私はあの夏の日に知ってしまったのですから。
〜*〜*〜*〜
夏。
世界が、熱にうなされているようだった。
視界を白く焼き尽くすような盛夏の日差しが、アスファルトから立ち昇る陽炎をゆらゆらと揺らしている。
鼓膜を圧迫するのは、万の蝉たちが奏でる命の絶叫。
その圧倒的な夏の喧騒の中、錆びついたバス停の前に、一人の少年が影のように佇んでいた。
少年の名は、時坂 彼方。
高校三年生。
大人と子供の境界線に立つその少年は、リュックサックのベルトを握りしめ、ただ静かに眼前の光景を眺めていた。
右を見ても、左を見ても、どこまでも続く深い緑の連なり。
都会の喧騒を拒絶するようにそびえ立つ山々は、この場所を外界から完全に隔絶している。
そして、彼方の視線の先――蜃気楼の向こう側に、その集落は息を潜めるように存在していた。
「空蝉村」
地図の等高線に深く埋もれ、時代の流れからも取り残された場所。
山と川の恵みだけで循環する、陸の孤島。
「……はぁ。ようやく、着いた…」
彼方の口から漏れたのは、短く、乾いた呟きだった。
それは無理もないことだ。
彼が辿ってきた道のりは、単なる移動距離ではない。
多くの人間がひしめき合う都会から、電車とバスを乗り継ぐこと丸一日。移動時間にして十三時間。
日常という名のレールから外れ、ようやくこの最果ての地へと辿り着いたのだ。
彼方は、汗ばんだ前髪を払うと、古びたスニーカーのつま先を村の方角へと向けた。
その瞳は、驚くほどに凪いでいる。
学生の一人旅だというのに不安を感じさせない、その瞳。
ただ、その視線だけが、吸い込まれるように村の奥――深い森の闇を見据えていた。
空蝉村では……ある伝説が、まことしやかに囁かれている。
――『神隠し』。
この村の神域に触れた者は、現世から姿を消してしまうという古い伝承。
彼方がこの地を訪れた理由は、まさにそれだった。
高校三年生、最後の夏休み。
その自由研究の題材として、彼方はこの村に伝わる神隠しの伝説について、調べることにしたのだ。
彼方はリュックを背負い直すと、熱気渦巻く村の中へと、ゆっくりと歩き出した。
〜*〜*〜*〜
村の入り口を抜けると、そこにはセピア色の記憶をそのまま現像したような景色が広がっていた。
色褪せた看板を掲げるタバコ屋に、ガラス瓶の中で涼しげな音を立てるラムネ、子供たちの笑い声が染み付いたような駄菓子屋。
軒先には古びた新聞受けがあり、風に乗ってふわりと、硫黄の混じった温泉の香りが鼻先をくすぐる。
それは、彼方が幼い頃にテレビの画面越しに憧れた、日本の原風景そのものだった。
「うっわぁ……すげぇ……!」
彼方の口から、自然と感嘆の声が漏れた。
都会の喧騒に慣れたその目には、この静止した時間のような空間が、あまりに鮮烈に映ったのだ。
その時、タバコ屋の店番をしていた老婆と、ふいに視線が合った。
店先で団扇を仰いでいた老婆は、目を細めて彼方を見つめる。
「おや? アンタ見ない顔だねぇ。旅行かい?」
老婆の声は、日向の縁側のように温かかった。
「あっ、俺、都会の方から来た時坂彼方って言います!」
彼方は慌てて背筋を伸ばし、ペコリと頭を下げた。
「旅行……ではないんですけど、俺、今最後の高校三年生の夏を過ごしてて。自由研究に何しようかな〜って考えてたんですけど」
「どうせ最後なら、普通じゃないことがしたくて、この村に伝わるっていう神隠しや伝承について調べに来たんですよ!」
少し興奮気味に話す彼方の言葉には、年相応の冒険心が滲んでいた。
「あらあら……そうだったのかい。ここまで来るのは大変だっただろうに……」
老婆は目を丸くした後、孫を見るような柔らかな表情を浮かべた。
けれど、すぐに村の通りを見渡し、少し申し訳なさそうに眉を下げる。
「宿はちゃんと取ったのかい? まぁ、ここいらに来る旅行客なんざ、そうそう居やしないからねぇ。宿はいつでも空き部屋があるから大丈夫さね」
老婆はそこで、彼方の少し古びたリュックサックに目を留め、心配そうに声を潜めた。
「お金は、大丈夫なのかい?」
学生の一人旅だ。無理をしているのではないかと案じたのだろう。
彼方はその優しさに触れ、照れくさそうに頬をかいた。
「はい! 俺、高校一年の頃からずっとバイトしてて。でも……特に欲しい物とか無くて」
彼方は、自身の掌を見つめながら、はにかんだように笑った。
「使わなかったら、数十万近く貯まってたんですよね」
欲しいものがない。
彼方にとってそれは当たり前の日常だったが、現代の若者が口にするには、あまりに無欲な言葉だった。
けれど、その欲のなさが、老婆の目には浮ついたところのない堅実な少年の姿として映ったのだ。
「はは、そうかいそうかい。じゃあ大丈夫だね」
老婆は安心したように笑うと、シワの刻まれた手で道の奥を指差した。
「宿は、この先の民家を抜けたところにあるよ」
「ありがとうございます!」
彼方はもう一度、丁寧にお辞儀をした。
「ふふ、楽しんでらっしゃいな」
老婆の満足そうな声に見送られ、彼方は再び歩き出した。
夏の風が、彼の背中を優しく押している。
その足取りは軽く、少年は吸い込まれるように村の奥へと進んでいった。




