令和不道徳講座
三島由紀夫氏の著作に「不道徳教育講座」というものがあります。
これは、井原西鶴の「本朝二十不孝」を手習いに当時の現代青年のために不道徳を説いた作品です。読まれる対象も青年を意識していますから、たとえば「先生」のような大人を小ばかにする内容がたびたび出てきます。そこで、私もこれにならって、大人社会を批評して後世の大人たちのために少しでも役に立てたらと思って、筆を執ります。
よく青年が、「大人」になるときの洗礼として「社会は甘くないぞ」といわれることがありますが、これがまず滑稽の極致といえるでしょう。大体人間というものは、老いも若きも放っておくとみなダメになってしまいます。もっとも大人というものはこれで1個の自由な存在だと考え違いをして、またその考え違いにみんなして陥っているわけですから、誰もこれを正す者などいません。いわば、人間の美しい部分が錆びついてしまうのです。これを古代中国の孟子は「性善説」といいましたが、反対の考えの性悪説でも根本は同じで、これは要は立場の違いです。性善説の紳士の目から見ればお世話をしてくれる召使がないために、性悪説の奴隷の立場から見れば鞭打つご主人様がいないために、人間は自由に落下していくわけです。
ここで、人間がただ落下してダメにになっていくとすると、これは万人の万人に対する闘争ですから、大人の寄り合い所帯であるところの「社会」とは少しく様子が異なってくるかなとは思います。しかし、大人といものは動物的な自由さとともに、奴隷的でもあります。これを一般的な用語で申し上げますと、「家畜」となります。こうした意味では、依然として寄り合い所帯であるわけです。
社会は家畜人間の寄り集まったものですから、当然牧場主がいるわけです。しかし、それは現代では臣民に超然する君主や造化の絶対神といったものはありません。では誰が主人の座におさまっているかというと、これは人格的な「何か」ではなく、お金です。この悪しきシステムに最初を初めて発見した英国のアダム・スミス氏は「神の見えざる手」などと述べましたが、まさにこの「見えざる手」が我々社会に生きる家畜人間の手綱を握っているわけです。
さて、社会は甘くないぞという呪いの言葉をもって社会の洗礼をうける青年は非常に多いわけですが、社会は甘くないという言葉がどこで使われるかというと、たいていは職場においてであります。つまり、職場で上司からこのようなお言葉を賜るわけです。職場とは仕事をする場所ですから、社会は甘くないは仕事すなわち金もうけは甘くない、我慢せよということになります。お金が無いと生きていけないのが「大人」の世の中ですからお金のために歯を食いしばって皆我慢しているわけです。これではおあずけをくっている犬と同じではないですか。もちろん青年も我慢をすることはあります。しかしながら、そこでの我慢はもっと知的です。そう考えると大人というのは、青年より幾分頭が悪いことになりそうですがいったいなぜでしょうか。
生物というのはよくできていて自分の能力のうち、必要なものを発達させ、またはこれを応用してさらに素晴らしいものに仕上げます。一方で必要のないものは切り捨てていくのです。これを進化と言ったり退化といったりしますが、こうした合理性が生物に備わっているのは一種の奇跡でしょう。
青年の生活には、様々な要素が必要になります。暴力や色恋や芸術的感性もここに含まれていきます。しかし、「大人」になるとこれらは全くと言っていいほど役立たずとなります。大人は生存に必要な資源だけを欲するようになるのです。生物は合理的ですから脳みそから金儲け以外は排除しますし、興味もそこに集約されるのです。
ここで、意地の悪い読者であれば、大人にも芸術を好む者がいるし、色恋に明け暮れる者もあるではないかという人がいるでしょう。しかし、それは大抵の場合、大人に背を向けた20歳以上の子供(これを社会では社会不適合と呼ぶようですが)か、その人物への観察が足りていないかのいずれかの場合がほとんどです。
こういった例に含まれないで、芸術だのを好む人物をよくごらんなさい。おおよそこんなところでしょう。
ビジネスマンのA氏は、芸術を好んでいます。彼は、東京のさる美術館が開催している特別展へと足を運んでおります。展示会の目玉はかのルネッサンスの巨匠、レオナルド・ダ・ヴィンチの名作「モナ・リザ」です。
「おお、これは素晴らしい」
「一体、この絵はいくらなのだろう。きっと想像も及ばない額にちがいない」
「こんなものをわが家のリビングにでも飾れたらきっとしゃれてるだろうな」
などと空想を働かせながら、彼の頭の中には、豪邸でバスローブ纏い高級なブランデイを片手にあのモナ・リザのほほえみを見つめる彼の姿があるわけです。
彼は彼で、富豪には及ばないもののなかなかの高給取りですから、ディナーもまた豪華です。彼は美食家として聞こえているので、都内の一等のレストランへ通うのです。恋多き彼は、ここで美女と夕食をともにします。女性は、その若き美貌を宝石や高級な化粧で覆ったいかにも現代的な都市女性であります。現代都市女性を前に、彼が語るには
「このレストランはミッシュランの星付きでね」だとか
「この素材は、最高級の」だとか
「このコースは1人何万円」だとかいう話です。
青年諸氏にとっては、こんな会話は下の下でそれこそ食欲すら失うような類の話でしょうが、彼らにとっては少しも堪えません。それどころか、そういう会話をしながら、彼は口の中に数万円を放り込んでいくのです。女性もこれを興覚めとも思わないで無邪気な相槌を添えてやはり口に数万円を放り込んでいきます。こうして彼は都内の家賃数十万のマンシヲンに帰っていき、カナダかそこらの木材で設え、ガチョウの羽を満載した布団が備えられた寝台に体を滑り込ませ明日の仕事に思案しながら眠りにつくのです。
以上が、芸術を知る「大人」の典型行動ですが、その無理解で青年をはるかに凌駕していることは明らかでありましょう。このように人の人たる部分を大人になると失うのですが、そういう者に限って最も人間的であると声を大にして主張するのです。
青年は、大人に大いに反抗しなさい。生活に難儀することはあっても人間として大人の「社会」に順応するためには、これしかないのです。順応の権化である官僚や社長といった人種が世の中で最もつまらない人間たちで構成されているのはこれが理由です。