受け入れられない
騎士が主君に恩の見返りとして要求するもの。それは金品だったり、領地だったり、とにかく実益を求めることが筋だ。シャルルとユルギスは主従関係にこそないが、今は雇用にも似た形である。少なくともシャルルの中では。
ユルギスは金品を求めることはせず、シャルルの時間を要求した。であれば、修練を共にすることを要求し続けるだろう。……と、シャルルは思っていた。
ぺら……ぺら……。
深い沈黙の中、紙が捲れる音だけがシャルルの鼓膜を揺らす。横には、灰がかったプラチナブロンドの髪の青年が、集中して娯楽小説を読んでいる。
————どういうことだ。
シャルルは困惑していた。
シャルルがユルギスに差し出した放課後の時間。その2回目。シャルルは、ユルギスに図書館に連れてこられていた。
初め、シャルルは勉強会かと思い至った。
ユルギスは「貴卿のおすすめの本を教えていただきたい。分野は問いません」と言ったのだ。しかし、兵法の本を薦めれば「日々読んでおられる本は、もしや全て勉学の……!?」と、あらぬ方向に思考が向かい始めた。ここで妙な方向に勘違いされてしまえば、シャルルの数少ない娯楽は、全て学術書に支配される。余計な嘘を吐かないために、シャルルはこの前読了した神話を題材とする娯楽小説を薦めた。
趣味を聞き出されたことで、再びシャルルは思い至る。相性が良さそうな妹を、婚約者に勧めることが目的ではないか。
それとなく妹の婚約者を探しているのか聞き出せば、「全員に恋人や婚約者がいます」と言われた。二度目の撃沈である。
そして、現在。ユルギスに勧められた本を、シャルルは読んでいる。
あらゆるジャンルに手を出してきたシャルルでも知らない、マイナーな作家の冒険小説だ。正直期待していなかったが……
————大当たりだ……。
すっかり虜になってしまい、傍にはその作家のシリーズがどっさりと積み重なっている。閉館までに読みきれなければ、貸し出し手続きをして馬車で読むつもり満々だった。
そして今、2巻を読み終えたところで、正気に戻ってしまった。
「お気に召していただけたようですね」
小さくくすぐるような声に、シャルルの微動だにしなかった肩が僅かに跳ねた。
「あ、ああ。どこでこの作家を知った?」
「それは……」
誤魔化しで放ったシャルルの言葉に、ユルギスは照れくさそうに口元を抑える。
「私、実は児童書や絵本が好きでして……。その作家の方も普段は児童書を主に書かれているのです」
一世一代の告白にも勝らぬも劣らぬ赤面具合。
シャルルの目の前にいる男は色素が薄く、女性らしさすら感じるほど柔らかい顔立ちだ。しかし、平均から頭ひとつ飛び出た長身の筋骨隆々な大男である。意外性は渋滞しているはずだ。しかし、彼女は全く衝撃を受けていなかった。自分でも驚くほど、何も。
思いつく原因はひとつ。一度シャルルに想いをぶつけてきた、口に出すことも憚られるような、やんごとなき性癖の侯爵である。その衝撃と比較すれば、彼の趣味は可愛らしいとさえ思えてしまう。大多数から外れようと、攻撃性が皆無な時点で否定する理由がない。
素直に気にしない素振りをすればいい。ただ、それはどうも躊躇われた。素直に思ったことが好印象に繋がるのだ。好印象は、与えておけば与えておくだけ得をするというのに。
「……なるほど。だから、単純な言葉で的確かつ、遊び心がある描写ができるのか」
結局、シャルルの口から吐き出された言葉は、打算まみれの素直な言葉だった。
その言葉で、真珠色の瞳が少し見開かれた後、少し困ったようにはにかむ。
「また、紹介させてください。貴卿が好きな本も、また教えてください」
「ああ、もちろんだ。私も楽しみにしている」
2人は時折感想を交えながら、寮の門限ギリギリまで本を読み続けていた。
「……ソフィアの様子はどうだ?」
図書館を出て、人気の無くなった学園を歩きながら、シャルルは問う。
「彼らから離れられたことで気持ちが楽になったのか、よく笑っていましたよ」
シャルルは内心で胸を撫で下ろした。これで自分の時と同様、緊張緩和のためにスイーツで餌付けする事態になっていれば、今度こそ懐から財布を出す所存であった。しかし、どうやら杞憂だったらしい。
「教える側としては、彼女は素直で健気なので、とても教え甲斐がありますね。故郷の妹を思い出します」
ユルギスも満足そうに花を飛ばしている。妹の話を持ち出すあたり、痴情のもつれになる可能性は低そうだ。ソフィアをめぐっての争いが勃発した暁には、社交界で百戦錬磨の公爵令息もお手上げである。
「それは良かった」
「シャルル卿もご一緒できれば良いのですが……」
「難しいな。私の立場は、あまりにも目立ちすぎる」
「そうですよね……」
ユルギスは苦笑いをする。
シャルルとユルギスが白昼堂々行動を共にしているのも、3年間共に過ごしたクラスメイトという体の良い縁があるからだ。
ラモール家は血筋により、他の貴族より頭ひとつ抜けて名が知れている。数えきれない勲章を、竜の血はもたらすのだ。当然、仕える者も相応の評価を受ける。
そんな名門貴族の令息とあれば、人間関係には常に家が絡んでくる。その“友人“という存在は、家がどんな派閥にいるかなどを示す材料にもなりうる。だからこそ、シャルルは特定の友人を作らない。
弱みを誰にも握らせないように。
————共犯者を、生み出さないように。
「身分差があろうと分け隔てなく……という体でも男女である以上、よろしくない噂が出ますからね……」
ユルギスも貴族だ。シャルルを取り巻く事情が全く分からないわけではない。
「私が長い期間を貴卿の友人としてこの立場にいることも、何かしらの影響があると見るべきなのでしょう。この立ち位置が欲しい者は多いでしょうから」
自分が美味しいポジションにいることも、分かっている。
「私が言うのもおかしな話ですが、シャルル卿に何か不都合があれば、すぐにおっしゃってください。ご迷惑はおかけしたくありません」
しかし、ここでシャルルを優先するところが、ユルギスがユルギスたる所以であった。
通常、シャルルに擦り寄る輩は、ここで引き下がらない。ここまで接近できたら、あとは意地でもしがみつこうとする。
そもそも裏がある者は、自分がいるポジションについて目当ての権力者に言うこともしない。彼の真意が、彼女には靄がかったように全く見えてこなかった。
「先日の話の続きをしよう。ユルギス卿」
そこで、シャルルは直接聞くことにした。
「貴卿は、何を求めて学園にいる」
彼の求めているものが、彼女には分からない。分からないのならば、問えばいい。もし、答えられなければ、この関係は自ずと消滅していくだろう。
ユルギスは少し息を詰まらせると、真珠のように一点の澱みもない瞳で告げる。
「私は、この国の人々の、穏やかな日常を守ることだけを望んでいます」
それは、あまりに素朴な願いだった。
「それは……言葉のままの意味で受け取って良いものか?」
「はい、これだけが私のここにいる理由です」
ありきたりで、平凡。並の騎士は、「それは大前提として」と、何か壮大な目標や、野望を並べ立てるものだ。
「具体的な将来については……」
「兄の元で騎士として前線に出ます。もし、戦線が終結したら、領地で治安の維持に努めます」
確かに具体的だ。辺境は技術ある騎士が不足していることが常。将来性設計としても筋が通っている。だが、シャルルはひとつ引っかかった。
「ならば、わざわざこの学園に来る必要はないだろう」
リージア家はもとより騎士家系だ。騎士になるのも、身内同士で完結できる。難関校であるムーンストーン学園に来るのは、金銭面、時間も含めて非合理的だ。
「騎士が強ければ強いほど、みんなは安心して暮らせると思いまして」
ユルギスは躊躇いなく、あっけらかんと言ってのける。
「……なるほど、それはそうだ」
単純明快すぎる答えに、シャルルは心の中で両手を上げた。
「信じて、いただけましたか?」
飄々とした態度を崩さないシャルルに、ユルギスはどこか寂しげに微笑む。
「そうだな、正直、今の話は何百もの人間から飽きるほど聞いた」
体温を持たない、変わらぬ目線がユルギスに注がれる。
民の平穏を願う言葉を、シャルルは毎日聞いていると言っていい。その全てが上辺で、シャルルに好印象を与えるためだけの打算的なものだ。
「……今は、信じていただかなくて結構です。冷たくあしらっていただいても構いません」
輝く瞳が、凶暴な瞳を真っ直ぐに捉える。
「ですが、どうか許しをいただけるのであれば、私は貴卿を知りたい」
ユルギスの全てが、真っ直ぐに全てを訴えかけてくる。ただ、それでも、彼の考えていることは、やはり、彼女には信じがたい。
「なぜ、3年間距離を置いていた私を気にかける」
最後の質問を、彼女は投げかける。無駄な質問だと、彼女は分かっていた。言葉はとうに彼女の中で力を持たない。
それを知ってか知らずか、ユルギスは「非礼をお許しください」と前置きをして、意を決するように口を開く。
「私はついこの前まで、貴卿を冷酷な方だと恐れていました」
あまりにも直接的な言葉に、赤い瞳が見開かれる。
「笑顔のまま人を遠ざけながら、真意を明かすわけでも無いのに、人の心を操って利用している。と」
それは、貴族なら特段珍しくない性質だ。薄汚い心を、綺麗な建前で覆うのは日常茶飯事である。しかし、彼はそれを冷酷と評した。あまりにも貴族らしくない、平凡で、特別ではない評価。
これが何が原因で覆り、彼はシャルルと共に過ごしているのか。彼女は黙って言葉の続きを待った。
「そんな貴卿が、ソフィアさんが泣いていることに動揺し、伺った馬車には従者の方はおらず、慌ただしく湯を沸かして、彼女の好物を自らの手で振る舞うことに躊躇をしなかった」
息を呑むシャルルに、ユルギスは続ける。
「素直なところ、目を疑いました。私が見てきた貴卿の行動からくる印象と、真逆でしたから」
真珠色の瞳が、柔らかく細められた。
「そこで、私は貴卿を知りたいと思いました」
彼の声色が、表情が、あまりにも暖かい。夜なのに、陽だまりすら感じるほどだ。これが全て演技であるのなら、彼女はいよいよ自分の目を潰して、世界を見ることを辞めるだろうとすら考えた。
「そう……か……」
彼女は、悪役ならばここで無礼千万だと怒鳴ってやるべきだと分かっている。しかし、口から出てきたのは力の無い声だけ。
彼女の振る舞いの冷酷さは、彼女が一番理解していた。愛らしい恋心を向けてくる令嬢を愛想よく袖にし、自分を慕おうと見出した者を笑顔であしらいながら、自分の都合のいい方向へ誘導する。自分のやってきたことは、冷酷なのだ。多くの嘘と欺瞞を重ねてきた彼女だが、それを否定することをどうしてもできなかった。
「ご迷惑はおかけするつもりは無いので、少しの時間、私に時間をください」
街灯が、ユルギスの微笑みを照らす。揺るぎなく、暖かで、疑うことすら忘れてしまいそうな瞳が、シャルルを照らしていた。
「……貴卿がソフィアの面倒を見てくれる間は、私の時間を与える。これが、私が支払う対価だ。その時間は、好きにするといい」
しかし、彼女は受け入れはしない。傲慢な振る舞いであることを、彼女は重々理解していた。
それでも、聖剣の乙女の誕生、兄の快復。そのためならば、彼女は何でもする。何にだってなるのだから。