女子高生は死んだ
『あーもう! まだステータスが足りないの!? もう30回はやり直してるのに!』
真冬の夜空の下、ホームで電車を待つ女子高生が、SNSに1枚のスクリーンショットと一緒にボヤキを投稿する。『りゅうほし攻略』のハッシュタグが付けられたそれには、すぐさまリプライが飛んできた。
『うわー、こんなステータスが高くても難しいんだ……』
『さすが、乙女ゲーにRPG勢を引き込んだ悪役令嬢! この微妙に手が届かない感じがそそられる!(死んだ目)』
『FF外から失礼。権能と好感度をマックスにすると安定しますよ』
『横から失礼、剣術があるとさらに安定しますぞ』
少女は項垂れる。
『2つもマックスにしなきゃいけない上に、剣術もなの……』
ため息をつきながら、スマートフォンの画面を閉じて、携帯ゲーム機を取り出す。そこには、ユア・ルーズと書かれたリザルトが表示されていた。
クエスト名は『大厄災 黙示録の竜』。
「もう! 今度こそ絶対にクリアしてやるんだから!」
『もう一度最初から挑戦する』のボタンを選択した瞬間、少女の視界が揺れた。
「危ない!」「このクソ親父! 暴れるな!」「手を伸ばして!」
様々な声が聞こえるが、少女の頭は理解できない。
————あ、この明るいの、電車のライトだ。
彼女が最後に思ったことは、それだけだった。
————————————……
「っ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
朝、陽の光を浴びて少女は勢いよく身を起こした。見慣れない部屋が視界に飛び込む。昨日荷解きしたばかりの寮の部屋だ。
実家より数倍良質なベッドから飛び起きて、やけに装飾過多な鏡を見る。そこには夢で見た黒髪黒目の凡人女はいない。ストロベリーブロンドのゆるふわロングヘア、ピンク色のくりくりとした大きな目の美少女がいた。16年間、見慣れた姿がそこにある。しかし、彼女は鏡に映る自分を、別の意味で知っていた。
「『聖剣の乙女』ソフィア・アルベール……」
少女は青ざめる。液晶の生々しい質感が、指先に残っていた。
彼女は思い出した。至って普通の女子高生だったこと、乙女ゲームが好きだったこと、最後の視界が眼前に迫る電車のライトだったこと。そして、分かってしまった。今は前世でプレイしていた乙女ゲーム『竜と聖剣の乙女』、略して『りゅうほし』の世界だということを。自分が、そのゲームの主人公になってしまったことを。
「異世界転生ってこと!?」
ソフィアは絶叫した。異世界転生は、前世で大流行していたジャンルだ。モテモテ、チートのどちらか、もしくはどちらもが確約されているジャンルだ。しかし、『りゅうほし』に転生してしまったと気づいたソフィアは膝から崩れ落ちる。
「もしかして、”あの人”と関わらなきゃいけないんじゃ……」
”あの人”というのは、『りゅうほし』最大の災害、リスノワール・ラモール・ガルグイユ公爵令嬢。いわゆる悪役令嬢だ。しかし、ただの悪役令嬢ではない。主に物理的に。
何しろ、前世で死に際にやっていたステージのボス『大厄災 黙示録の竜』こそ、悪役令嬢リスノワールなのである。
ラモール公爵家は、竜の血を継承する一族だ。噂によれば、ご当主様は王城より大きい竜に変身できるらしい。当然、リスノワールも竜に変身ができる。怒りを買えば、社会的にも物理的にも潰されてしまう。しかも、リスノワールはプライドが山より高い。人間全体を見下しているまである。
他の攻略対象なら多少マシだが、彼女の婚約者であるアーサー王子の攻略では、禁忌の呪術に手を染め、魔王すら乗っ取ってラスボスになってしまう。ここの戦闘で主人公が敗北すれば世界は文字通り滅亡するのだ。そして、その戦いに30回ほど負けて、前世のソフィアは死んでしまった。
「ど、どうしよう……」
鏡の横にかけられた制服を見て、ソフィアは涙を目に溜める。なんと、今日はゲームの舞台であるムーンストーン学園の入学式だ。
庶民ながら希少な光魔法を宿すソフィアは、救世主である『聖剣の乙女』に覚醒することを期待されている。そして、前世のことなど頭の片隅にもないソフィアは、期待を一身に背負い、入学試験を突破した。貴族が通うような名門校であるムーンストーン学園に入学することになったのだ。
もうゲームからは逃げられない。けれど、画面越しでも怖かった悪役令嬢に勝てる自信が彼女にはなかった。
「ううん、落ち込んでいても仕方ない! アーサー王子にさえ近づかなきゃいいんだもん! というか攻略対象の人に近づかなきゃ平和だよ! たぶん!」
ソフィアは鏡に映った自分を奮い立たせて、涙を拭い、ほぼヤケクソで制服に腕を通した。
入学式は滞りなく行われた。クラス分けの際にソフィアはクラスメイトとなる令嬢たちに渋い目で見られていたが、ソフィアが思ったより罵倒の声は少なかった。
なにやら、彼女たちは何か用事があるらしい。庶民のジャガイモ娘に構うことなく、ホームルーム終了後にはさっさと教室を後にしてしまった。ソフィアもおおよその人間が帰った後に、寮へ戻ろうと足を進める。
安泰で地味な学園生活の始まり。しかし、大きな誤算が一つあった。
————リスノワールが、いない。
ソフィアと彼女は同級生となるはずだった。イラストレーターのお気に入りと言われていた彼女は、立ち絵でもスチルでも存在感が強い。入学式当日も恐ろしいほどの眼力で庶民を睨みつけていたはず。しかし、その姿はどこにもない。
不思議に思いつつ、昇降口を出るとソフィアは目を丸くした。
「お祭りでもやってるのかな……?」
校舎と校門の間にある噴水の広場には、前が見えないほどの人だかりができていた。
「アーサーさまぁ」
「エリック様、今度お茶会でも……」
人混みの中から聞こえる甘ったるいクラスメイトの声。猫撫で声で呼ばれたその名前に、ソフィアはクラスメイトの目当てがゲームの攻略対象であることを悟った。
小柄なソフィアに彼らの姿は全く見えないが、見る気もない。イケメンは好きだが、命の危機には代えられない。反射的に人だかりの方とは反対側に顔を背ける。瞬間、ある人物がソフィアの目を釘付けにした。
————あれ、あんなイケメン、攻略キャラにいたっけ?
身を隠すように、見覚えの無い美丈夫が木に背を預けていた。
彼のスラリと伸びた長身は黄金比率で描かれた芸術品のようで、肌は陶器のように白い。長いまつ毛に縁取られた真紅の瞳は鋭く、見つめられたら胸きゅん、または恐怖で卒倒してしまいそうだ。
攻略対象のシャルル・ラモール・ガルグイユに薄らと似ているが、彼は短髪。対してそこの美丈夫は結んだ髪が腰下まである。また、雰囲気も違った。シャルルは繊細でふわりと優しい薄幸の美男だ。対して彼は鋭い、有無を言わせない強烈な存在感がある。
————ここはゲームだけどゲームじゃない。みんな生きてる人間だもん、目立つ人はい……る……。
再び歩みを進めようとしたソフィアはあることに気づく。
「リスノワールに、似てるな……」
あの男は、全ての要素がリスノワールによく似ているのだ。
————まさか、ね。
よくよく見れば、彼は3年生の証である赤いタイをつけている。つまり18歳だ。リスノワールは、ソフィアと同い年の16歳。遠目から見た印象で警戒心を抱くなど彼に失礼だ。ソフィアは自省する。そのまま再び歩き出そうとするソフィアに、大きな影が落ちる。
「今、何と言ったか」
「へ?」
禍々しく唸るような声がソフィアの頭上に降り注いだ。
見上げれば、頭が何かに当たった。それはよく鍛えられた胸板。桃色の瞳を射抜くのは、鋭くぎらつく赤い眼光。
先ほどまで木陰にいた男がそこにいた。
「え、ぁ……その」
「何と言ったのかと聞いている」
「リ、リスノワール様と似ている、と、い、言いました……」
リスノワールの名前が出た瞬間、美しい眉間に深いシワが刻まれる。
「こちらへ」
ソフィアにそう促すと、彼は背を向けて歩き出す。
彼を怒らせてはいけない。そう本能的に感じ取ったソフィアは、小さい歩幅で彼の背中を負った。
向かった先は寮……ではない。学園の裏に止めてあった一台の馬車だった。と言っても馬はついていない。御者もいない。黒い外装も相まって、いやに不気味な馬車だ。
ソフィアは膝が笑い始めていたが、男にエスコートされるまま、馬車に乗り込むしかなかった。
「へっ、ひ、ひろい……」
中は馬車の外観では想像もつかないほど広い。ソファ、ダイニングテーブル、事務用のデスクなど、生活から仕事まで完結できる広い部屋だ。寮の部屋の3倍はあるだろう。壁には扉もある。どうやら一部屋では無いらしい。
「そこのソファにでも座れ」
次いで馬車に乗り込んだ男は、それだけ言って部屋の隅にある扉の奥へ姿を消した。
ソフィアはそそくさとソファに向かい、ゆっくりと上質な布に腰を下ろす。恐る恐る部屋を見渡すと、飾り気は少ないが質のいいもので拵えてあることが素人目にもよく分かった。しかし、あまり品のないことをしてはあの恐ろしい男に何をされるか分からない。ソフィアはすぐに目を閉じ、男が来るまで奥歯をガチガチ鳴らしながら固まっていた。
「紅茶とコーヒー、好みはあるか」
「こ、こうちゃがすきです」
「ミルクと砂糖は」
「さ、砂糖を10個ほど……」
「随分な量だな」
ソフィアは困惑していた。目の前で小言を言いながらも紅茶に角砂糖を10個もぶち込む男に。
扉から出てきた男は、紅茶とコーヒー、そしてお茶菓子が乗った盆を持っていたのだ。自分の身の回りのことなど他人に全て任せそうな雰囲気を醸し出す男が、慣れた手つきで紅茶とコーヒーを入れる姿は、強烈な違和感がある。10個も砂糖が入っているはずの上質な紅茶も、ソフィアには味がしなかった。
「本題に入るぞ」
男はソフィアの目の前に腰を下ろすと、出会った時と同じ嘘を許さない視線でソフィアを射抜く。
「“リスノワール“をどこで知った」
心臓を鷲掴みにされるような低い声。怒りか、それとも常にこのような恐ろしさなのか、ソフィアには分からない。
ソフィアは全て吐いた。前世の名前から、ゲームの概要、ここがゲームの世界そのものだということ、全てのエンディングまで、事細かく全てを吐いた。
「————で終わります。いいいい以上です!」
「なるほど」
ソフィアの話を遮ることなく、全てを聞いた男はそれだけを呟いた。見れば見るほど、彼はリスノワールによく似ている。
リスノワールの行った、主人公の生首を皿に乗せる、主人公を奴隷商に売りつける等々の悪逆非道の数々も全て暴露してしまった。この男が何らかの理由で男装したリスノワールであれば、侮辱罪ですぐさま処刑台送りである。全てを話し終わったソフィアの背中は「余計なことまで話してしまったのでは」と冷や汗でぐっしょりだ。
しかし、ソフィアが怯えていた激昂をすることもなく、淡々としている。コーヒーを飲む手も震えていない。
「ククク、リスノワールの人生は、随分な終わり方じゃないか」
むしろ、笑っている。
しかし、どう見ても純粋な喜びの笑みではない。愉悦か、嘲か、とにかく恐ろしい笑みであった。
「あの、あなたはやはり……」
リスノワールではないか。しかし、男は首を横に振る。
「私は、シャルル・ラモール・ガルグイユだ」
「そう、なんですか……? けれど、随分と見た目が違うような……髪がもっとふわふわで垂れ目、だったような……?」
ソフィアの記憶にあるシャルルは、濃い紫の緩いウェーブがかった髪の青年だ。目元は優しく、右目の下にホクロがあった記憶がある。
「遺伝など些細なことで変化する。私はリスノワールの実兄。妹に似ているのもおかしな話では無いだろう?」
「そ、そうですよね、血が繋がった兄妹、ですものね」
それを言われては返す言葉も無い。ソフィアは納得せざるを得なかった。
「では、リスノワール様は……」
リスノワール自身は存在しているらしいことに、ソフィアは前のめりになる。シスコンを拗らせていた彼女に、兄とこんな密室にいたと知られれば最悪命が終わるだろう。
「5年前に、リスノワールが乗っていた馬車が崖下に落ちて死んだ」
「……え?」
あっさりと開示された事実に、ソフィアは頭を殴られたような衝撃を受ける。
「谷底に落ちて遺体も見つかっていない。社交にも一切出ずに死んだからな、君がリスノワールの顔を知っていることが疑問だった。しかし、なるほどな。前世の知識とは」
安心したような、どこか虚しいような風が、ソフィアの心に広がった。
リスノワールは、ストーリーの悪役として登場人物たちから嫌悪され、強さからプレイヤーのヘイトも買う完全な悪だった。実際、前世の女子高生も、ゲームがクリアできずに苛立ちを覚えていた。しかし、それでも、死というものは受け入れ難い。
「君としては、ひとつ憂いが消えて良いのではないか。少なくとも大厄災は免れ……」
「いえ」
ソフィアは反射的に否定した。男の赤い瞳が見開かれる。
「悲しい、です。リスノワール様の死は、悲しい、です」
声は震えていた。しかし、先ほどまで泳いでいた薄桃色の瞳は、憤るように赤い瞳を逃さない。
「リスノワール様は、私にとって不都合な人かもしれません。で、でも、死を良いことだとは思えません」
ソフィアの歪んだ視界で、目の前にいる男と、リスノワールの姿が重なる。
「シナリオの中で、あの人は苦しんでいました。その苦しみ以上のことを誰かにしていても、彼女が苦しんでいたことに間違いは無いんです」
地位、美貌だけが価値とされ、人々に群がられていた15歳の少女。歪んだ性格の人間には、歪んだ人間が集まる。
悪役だから当然だ。ソフィアの記憶の中で女子高校生が囁く。しかし、ソフィアはそんな女子高校生が許せなかった。
ソフィアは気づいた。女子高生は自分ではない。異世界転生をしていない。死んだ人間の記憶が、なぜか植え付けられただけだと。
故にひとつの答えが形を帯びる。
「ゲームをしていた私は、あの人が死んで薄ら笑っていました。でも、違うんです。違う。笑ってはいけない」
あの時、女子高生は死んだ。記憶の全てがソフィアに移されようと、女子高生の人生はあそこで終わった。楽しみにしていた修学旅行も、喧嘩中の両親と仲直りすることも、何もかももう出来はしない。16歳—— ——のその先の未来は、どこにもない。
『女子高生』は、この世界をフィクションとして扱う。しかし、『ソフィア』にとっては全てが紛れもない現実だ。電車に轢かれた女子高生も、16歳で生首になった悪女も、11歳で事故死をした少女も、ソフィアには生々しい死に違いない。終ってしまったのだ。彼女たちはもう、自分の足では歩けない。
「結婚に陰謀があったり、友情の裏には損得勘定があったりするでしょう。しかし、けれど、『死んで良かった』ということだけは、絶対に肯定できません! 死でなければ悪事を止められなかったとしても、死んでも尚嘲笑うことだけは、絶対に……!」
言葉を吐き切ったソフィアは、ヒューヒューと喉を鳴らし、手を痙攣させている。『ソフィア』としての意思に、全身の神経がついてきていなかった。しかし、目だけは大粒の涙をこぼしながらも、力強く目の前にいる男に怒りを訴えていた。
「君に、深く陳謝する」
しばらく間をおいて、圧倒されていたシャルルの口からは、その言葉だけが出た。
「謝るのは、私にではないと思います。シナリオの中では悪逆非道でも、この世界で妹さんはただの10歳の女の子で、まだ何もしていないまま亡くなってしまったのですから」
「……ああ、その通りだ」
シャルルは、すっかり冷めてしまった紅茶を淹れなおす。その表情はただただ美しく、穏やかなものだった。
「今後君はどうするつもりだ」
心身ともに落ち着いた頃、投げかけられた質問にソフィアは目を泳がせた。
「その、何も決めていなくて……推薦されて周りに流されるまま勉強してここに来たので、本当に、何も……」
これまでのソフィアの人生は、前世も今世も至って平凡で、希望に溢れた夢はなかった。前世の知識など、あっても意味が無い。女子高生の記憶が混ざったことで、曖昧だった自分が浮き彫りになってしまった。残るのは流されるまま生きてきた、虚しい自分だけだ。
「では、シナリオ通りにグレイルアリーナを目指してはどうだ。ひとまずの目標としては最適だろう。私が師事をしてもいい」
「えっ」
思っても見ない提案に、ソフィアは目を丸くする。
「あの大会は、学年を問わない2対2の決闘で勝敗が決まる。上級生への下剋上さえ叶う大きな大会だ。ゲームではイベントとやらになっているらしいな」
「は、はい」
シャルルの言う通り、グレイルアリーナはゲームでイベントになっている。聖剣の乙女として覚醒する重要なイベントだ。
「ゲームというのなら、数値やダイスで勝敗が決まるのだろう? もしくは戦略か?」
大きくは間違っていない。乙女ゲームのイベントらしく攻略対象と共に参加し、これまで磨いた魔法と剣の技能、そしてパートナーの好感度が勝敗に影響する。
「……この世界でもその辺で勝負できたら楽なのだがな」
シャルルは立ち上がると、壁に掛けられていた剣を片手に取った。
「持ってみろ」
「は、はいっ、あっ、わわっ!」
ソフィアが剣を両手で受け取った途端、思わず手から剣が滑り落ちる。必死で剣を掴むソフィアだが、細身な見た目に反し重量がある鞘がソフィアの手から抜けていく。鋭い銀色の刀身が、行き場を失ってソフィアの柔い手に落ちてゆき————
「……思ったより、危ないな」
シャルルの手が、剥き出しの刀身を受け止めた。
「え、あ……」
「悪かった。人間の娘がここまでか弱いとは……。どこか切ってはいないか」
「シャルル様こそ、手で……!」
「竜の皮膚はこの程度の剣では切れん」
シャルルはソフィアの無事を確認すると、何事もなかったように剣を鞘に戻し、壁に掛け戻す。彼の言う通り、手袋が切れただけで、血の一滴も出ていない。
「グレイルアリーナでは、この剣を握れなければ話にならない」
「うっ、やっぱり、ゲームみたいに上手くはいきませんよね……」
ゲームではターン数を考えてトレーニングの種類を選べば、グレイルアリーナを突破できる。しかし、先程少し触れた剣の重みは、生半可なもので扱えるようになるとは到底思えない。
「何かを極めろとは言わない。ただ、何かしら行動はした方が良い」
シャルルは再び椅子に腰をかけ、コーヒーカップを手に取る。
「その点において、グレイルアリーナは目指しておいて損は無い。剣術、魔法、大会実績。どれも成績に活かせる。騎士や魔法師にならないとしても、腐らない利益だ」
実に合理的で、魅力的な提案。しかし、ソフィアの脳裏に真っ先に浮かんだのは、ひとつの疑問だった。
「……なぜ、そんなに初対面の私のことを考えてくださるのですか?」
口をついで出た言葉に、ソフィアは口を手で塞ぐ。また無礼なことを聞いてしまったのでは無いだろうか。今までのあれこれも無礼千万であった自覚はある。恐る恐る顔を上げるとソフィアは息を呑んだ。
微笑んでいたのだ。リスノワールによく似た、凶悪で美しい顔面が、慈母の如く柔らかく微笑んでいた。
「君が妹の死を想った礼だ。君はあれの死に思うところがあったのだろう?」
「そ、それのために?」
「ああ、それだけのためだ」
「不要だったか?」と問うシャルルに、ソフィアは首を横に振った。
「い、いえ! あの、グレイルアリーナ、出ます!」
「その心は」
「授業を差し置いても、剣、使えるようになった方が良い、ですよね……?」
シャルルの口角が釣り上がる。
リスノワールはいない。しかし、魔王はいる。それは一介の村娘でもよく知る事実だ。剣は使えるに越したことはない。むしろ、使えるべきだ。
単純に危ないだけで避けるというのは、これから悪い方向へ下っていくこの世界において得策とはいえない。
「私が教えよう。貴族と違って護衛もいないのだ。自衛ができた方がいい」
印象こそ違うが攻略対象との思わぬ秘密の特訓。少女の小さな胸は跳ね上がった。しかし、ある一つの不安点に気づき、「あっ」と声を上げる。
「でも、公爵家のご子息接触すると……」
ゲーム内では、分かりやすくリスノワールがいじめっ子のボスだった。そのリスノワールはもう居ない。しかし————
「令嬢達が何をするか分からない……と?」
分かっていたようなシャルルの返事に、ぎこちなくソフィアは頷く。
「私に全て任せるといい。君がすることは、指定の時間以外、私とは初対面だという顔をしていればいいだけだ」
流石公爵家嫡男というべきか、シャルルは何か考えがあるようだ。ソフィアはそっと胸を撫で下ろす。
「剣を握るだけでなく、どこでも通用するよう徹底的に鍛えてやる。覚悟しておけ」
そして、シャルルは「初日から門限破りをさせるわけにはいかない」と、ソフィアを帰路へ送る。道すがら、ソフィアは仄かに心に芽生える暖かいものを感じていた。
————シャルル様、シナリオと違って威圧感はすごいけど、優しくて素敵な方だったな。リスノワール様と見た目がそっくり過ぎるのが気がかりだけど、やっぱり血の繋がった兄妹だし、そういうこともあるよね。楽しみだなぁ、シャルル様との特訓!
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————とでも、思っているのだろうな。
薄暗い馬車の中、鏡の前で男は呟く。凶悪な美貌は一層凶悪に歪み、顔色には生気がない。ワイシャツを脱いだ胸元には、白い包帯のようなものが巻かれていた。男は、その結び目に手をかけると、一瞬で全てを脱ぎ去ってしまう。
————好意を抱いた相手が、自分が恐れた“大厄災“だとは思いもしない。なんと、愚かで、無垢な娘。
鏡に映るのは、内に炎を秘めた濡羽色の長い髪に、鋭く縁取られた眼孔に鮮紅の瞳をはめ込んだ凶悪な美貌。そして、胸元に柔らかいふたつの果実を実らせた”女”。
立ち絵がそのまま動いているかのような、”悪役令嬢 リスノワール”がそこにいた。
————利用させてもらうぞ、『聖剣の乙女』。
吐き出した薄寒い嗤い声。どろりと赤い瞳は、鏡の中にいる竜の女を見つめていた。