キャサリンのマーマレード
ヘンリーはその日、初めてマーマレードなるデザートを食べた。
それは兄アーサーの妃キャサリンが、彼女の生国スペインから、イングランドへと持ち込んだレシピだった。
さわやかなオレンジの香りが、ケーキに練りこまれた香ばしいアーモンドとバターによく合った。
「これは、なんとおいしい菓子なのだろう!」
ヘンリーは感動して言った。
「殿下のお口に合ったようで、よかったわ」
キャサリンは、興奮で頬を紅潮させる義弟ヘンリーへと、優しくほほえみかけた。
それから彼女は、ちっとも手を伸ばそうとしない自身の夫アーサーへと、マーマレードをのせたケーキを薦めた。
「アーサー様も、どうぞ召し上がって」
スペイン訛りの抜けきらないキャサリンの言葉に、夫アーサーは青白い顔をわずかに歪ませた。
アーサーの妃、スペイン女のキャサリンが寄越す、マーマレードなる異国の未知の菓子。
アーサーは生来、虚弱な体質であった。
だから彼は、ケーキからぷんぷんと漂うバターのこってりした香りと、オレンジの酸っぱさが混じりあうことに、口にする前から、すでに胃もたれしたような心地だった。
「いや、私は遠慮しておくよ」
アーサーはおだやかな口調ながら、きっぱりと断った。
「おなかが空いていらっしゃらなかったのね」
キャサリンはさみしそうにほほえんだ。
「またアーサー様のおなかのよろしいときに作らせますから、そのときにはきっと、お召し上がりくださいね」
「ああ、そうしよう」
アーサーはうなずいた。
ほっとしたように顔をほころばせる兄に、ヘンリーは眉をひそめた。
(これほどおいしい菓子を断るなど)
ヘンリーは兄アーサーのつれない様子に胸がもやもやとした。
(それに兄上は、今後もきっと、食べるつもりなどないのだ)
第一、兄アーサーときたら、義姉キャサリンに冷たい。
彼女は兄の健康を心配し、兄に滋養をつけさせようと、こうして砂糖たっぷりの甘く口当たりのよい菓子をわざわざ作らせたのだ。
優しく、賢く、でしゃばらず、楚々として美しいキャサリン。
彼女からはいつでも、異国スペインの風がふいているようだ。
スペインのオレンジと、彼女の紋章であるザクロと、神秘的な黒い瞳と、それからなんといっても、あの、つややかな金茶の髪。
(あの美しい金の髪にもういちど触れられたら、どんなにいいだろう)
ヘンリーは、義姉キャサリンと踊ったときのことを思い出した。
キャサリンは軽やかに、ほがらかに。
まるで妖精シャナのように踊った。
めそめそと陰気臭いケルト妖精、すすり泣きのバンシーのようなのではなく。
キャサリンはまるで、異国スペインの、美しく神秘的なシャナだ。
ヘンリーは王子でありながらも、王太子である兄アーサーがいたため、これまでずっと、コーンウォール公爵になるべく、あるいは聖職者を目指して学んできた。
学問はヘンリーに啓示を与え、彼にとって重要な時間だった。
まだ十歳のヘンリーにとって、低俗な女遊びは汚らわしいばかりだった。
気が強く、可愛げのないイングランド女にも、興味は惹かれなかった。
だが、キャサリンは。
「アーサー様、ウェールズに向かわれるって本当に?」
キャサリンは不安げにたずねた。
「ウェールズは、ここロンドンよりずっと寒いと聞いたわ」
「大丈夫だよ」
アーサーは彼の妻へ、優しく答えた。
「ウェールズはたしかに荒野ばかりだけれど、きっときみも気にいるよ」
アーサーが自信たっぷりに言うので、キャサリンはそれ以上、何も言わなかった。
アーサーはキャサリンと、つい先日結婚式を挙げたばかりだというのに、ウェールズのラドロー城へ行くなどと、突然言い張った。
プリンス・オブ・ウェールズとしてのつとめを果たすというのが、アーサーの言い分だ。
父王はカンカンになって「ならばキャサリンを置いていけ!」と、アーサーに怒鳴りつけた。
(暖かなスペインからやってきたキャサリンが、ウェールズを気に入ると、兄上は本当にそう思っているのか?)
ヘンリーはマーマレードケーキをかじりながら、青白くのん気な兄の横顔を、ひそかににらんだ。
(ウェールズの厳しい寒さで、もし、兄上が――)
ヘンリーは手にした残りのマーマレードケーキを、あってはならない悪魔のささやきと一緒に、すべて飲み下した。
神の徒として、アーサーの弟として。
けっして願ってはいけないことだ。
アーサーが手をつけなかった、スペインのマーマレードケーキが、まだ皿の上に残されていた。
ヘンリーは最後のひとつをつまみあげ、ハンカチにくるんで、胸元にしまった。
イングランド王ヘンリー8世がマーマレードを好んだという逸話は
「もうひとつのワールドヒストリー 料理メニューからひもとく歴史的瞬間」
ヴィンセント・フランクリン (著), アレックス・ジョンソン (著), 秦 亜吏加 (監修), 村松 静枝 (訳)
からです。