表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

好きな作品を語る

好きな作品を語る③ 太宰治「誰」

 太宰治の「誰」を読み返した。


 正確には「誰」という作品は太宰作品の中でも特に好きなものではないが、今回は「好きな作品」という範疇に含める。


 「誰」という作品は太宰作品の中でもマイナーだし、取り立てて出来がいいものでもない。ただ、読み返してみて、太宰が一体何を求めていたのかがよくわかった。今回はそれについて書く。


 「誰」という作品は、作家太宰が、他人からサタン(悪魔)と言われたという話から始まる。太宰は他人からサタンと呼ばれた事をくよくよと悩む。そうして色々他人に聞きまわったり、調べたりした結果、自分は「サタン」のような大仰な存在でないと思うようになる。


 これだけならなんという事はないが、作品の最後に、太宰らしい落ちがついている。太宰は、自分の読者から手紙を受け取る。手紙の差出人は太宰のファンで、女性で、病人だ。ファンの女性は太宰に病院に会いに来てほしいと言ってくる。太宰は見舞いに行く。


 この見舞いで、太宰は余計な気を利かせる。太宰は、ファンはきっと自分に幻想を抱いているだろうと考え、自分の「赤黒い変な顔」を見せると幻滅するだろうと予測し、見舞いは挨拶だけして、さっさと帰る事にする。太宰はそれを実行する。病室に顔を見せると「お大事に。」と言って、逃げるようにその場を去る。太宰はファンから後でクレームの手紙をもらう。その手紙が、作品の落ちになっている。以下、その部分を引用してみよう。


 「「生れて、二十三年になりますけれども、今日ほどの恥辱を受けた事はございません。私がどんな思いであなたをお待ちしていたか、ご存じでしょうか。あなたは私の顔を見るなり、くるりと背を向けてお帰りになりました。私のまずしい病室と、よごれて醜い病人の姿に幻滅して、閉口してお帰りになりました。あなたは私を雑巾みたいに軽蔑なさった。(中略)あなたは、悪魔です。」

 後日談は無い。」

 

 これが作品の落ちだ。太宰は自分を悪魔ではないと思っていたが、最後には悪魔と呼ばれてしまった、という落ちだ。以下、この落とし方について考えてみよう。


 ※

 まず、私は、この病人は架空の存在だろうと思っている。太宰が、自分自身を照らし出す為に幻想的に作り出した他者だろう。最後の手紙の内容も、太宰の創作であろうと思う。ただ、こうした「フィクション」において、太宰が何を語りたかったか、それが大切な事だろう。


 太宰は妙な気の利かせ方をする。自分の赤黒い顔を見せる事が幻滅させるだろう、という気遣いだ。これは余計な気遣いだが、その事自体はさほど問題ではない。問題は、「良かれと思ってした事が仇になる」という事実だ。


 「良かれと思ってした事が仇になる」というのは、太宰にとっては良い事が、他人にとっては悪になる、という事だ。この他者との関係のちぐはぐというのが、太宰が世界に感じていたある感覚だった。


 ファンの女性は太宰をなじる手紙を出す。そこには特徴的な表現がある。「私のまずしい病室と、よごれて醜い病人の姿に幻滅して、閉口してお帰りになりました」。実際には、太宰は「女のひとは、おやと思うほどに美しかった」と書いているので、実際の印象とは真逆だ。


 女性の側から見れば、太宰は(自分を軽蔑して帰った)という風に見て取れる。このちくはぐとしたやり取りは、喜劇的なものに思えるかもしれないが、実際には悲劇的なものだったのだろう。というのは、太宰治の心の底に煮えたぎっているものを考えれば、こうしたすれ違いの関係は、彼と世界との関係をそのまま映し出しているからである。


 しかし太宰はそれを悲劇として描き出すよりも、ある種の喜劇として、描きだそうとした。だから、この関係は、一見、すぐに誤解を解けそうなものに見える。実際には太宰が問いたいのは、そうして他者に対して誤解に終わるしかない関係における良心、つまり、作品内における太宰本人の気遣いは、一体「誰」によって評価されるのか、という問題だった。


 これは太宰にとっては重要な事だった。自分の精一杯の「気遣い」が現実の他者との関係においては、必ずちぐはぐに終わってしまう。太宰はそこを抜け出そうとしていたが、彼の心はいつもそこに戻っていった。その原因は吉本隆明の言うように、乳幼児期における母ないし母代理との関係にあったのかもしれない。ただ、そのように因果を特定した所で、依然、自分は自分として生きなければならない。他者との関係が、ぎくしゃくとしたものに終わってしまうのは太宰が負った十字架であり、宿命だった。


 太宰が神を求めた作家であるのもよく知られている。彼の望む神はさほど雄大なものではなかったが、哲学的には意味のあるものとも言えただろう。「誰」という作品を基準にして言うなら、それは、「独我論を超えるものとしての神」だ。


 どういう事かと言えば、太宰が世界に対して良い心を持って働きかけても、それは必ず悪い結果に終わってしまう…この時の、良い心をそのままに評価し、掬い上げてくれるものこそが、太宰の求める「神」だった。


 太宰治は自意識的な作家だ。自意識はその本性上、世界にとって孤立するものとなる。自意識は世界と馴染めない形で存在する。また、他人と関係を結ぶにしても、そうした関係を持つ自分に対して絶えず疑問符を投げかける。自己意識と自己の分裂が、デカルト以来ずっと問題となっている。


 デカルトの「コギト」が、確実な真理だと我々が承認したとして、彼はその真理を一体「誰」に向かって語るのだろう? デカルトは全てを疑ったのではないか? 全てを疑って得た結論を、懐疑の対象としていた他者に向かって話すのは滑稽ではないのか? …こうした点に既に、近代文学が蹉跌するポイントが現出していた。それは自己の、自己との分離、すなわち、「分身」の問題である。


 太宰はその問題を、「真の自己」をわかってくれる「神」に求めた。その祈りが、太宰作品の終極を飾る事になった。「誰」のような小品においても、そうした構造が透けて見えると私は思う。こうした作品においても、彼の求めているものがはっきり現出しているように感じて、私は久しぶりに読み返して、感慨深かった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ