表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
  作者: 阿吽
1/1

1

 私の心に鬼がいる。

 無機質な空間にいる。いや、私自身が無機質であり、この空間を無機質であると錯覚しているだけかもしれない。

 この五畳半程の狭さしかない部屋にはこれといったものは何も無い。あるといえば、眼前に佇む一つの卓袱台と、その上にぽつんと置かれている、一杯の紅茶ぐらいである。

 なぜこれ程までに何も無いかというと先月、三年程前から私に生活費を仕送っていた父が肺癌で亡くなってしまったからだ。私は父が肺癌で入院していることなどは誰からも聞いておらず、この訃報には些かの悲しみを感じたが、ある期待によって冷めきってしまった。だが、その期待は強い憎しみへと遷移された。

 父が亡くなった翌日、私は名古屋で行われる葬式に急いだ。私は福岡住まいであるので、名古屋へ向かうには山陽新幹線を利用せねばならぬのだ。私は少しでも生き永らえるよう、倹約して暮らしているので、このようなことで自分の金を消費するのには厭気が差した。

 母からも、

 「わざわざ行かなくていいのに」

 と私が行くことを反対していた。だが、私は行くことに決めていた。

 式場には私の親族や父の仕事仲間らしき人らが着いており、全員、暗い顔をしていた。中には妹の、そろそろ五歳になるらしい娘がいた。私は一瞥すると、すぐさま目を逸した。私は子どもが嫌いなのだ。いや、嫌いになったというべきか。あの出来事があってから酷い罪悪感に蝕まれるようになったのだ。忘れ去りたい出来事だった。暫くすると、俯いていた母が私に気づいたらしく、すぐさまハンカチで涙を拭って、顔を上げた。

 母は心配そうに、

 「何で来たのよ。福岡からわざわざ名古屋まで大変だったでしょう?」

 と云ってきたが、私にはこれが癪だった。私はただ黙っていた。

 父の遺書には私への遺産の相続などは書かれていなかった。私はこのことを黙認で済ますわけにはいかなかった。私は母に詰問した。

 「私のはどうした?」

 母は呆れ顔で、

 「あんた、このために来たの?」

 と返した。

 そう返されたことで、激昂した私は語気を強めて、

 「私が来た理由などはどうでもいい。親父は生前、私への遺産の配分についてはどう話していたか?遺書に書かれていないならば生前何か話していたはずだ」

 と云った。

 「ああ、云っていたわよ。お父さんはね、あんたにもう渡しているから、これ以上、遺産をあんたへ渡す気はないらしいってね!」

 私は我を忘れて、母に殴りかかろうとしていた。その寸前、妹が仲裁に入り、事が大きくならずに済んだ。参列者等に見られていることに気づくのに数秒はかかったと思う。一旦冷静になったときに、私は過去に自分の犯した罪が頭に過るのを感じた。母が心配そうに、

 「さっきはごめんね。お父さんから渡された遺産の一部を分けてやろうか?」

 と云ってきたが、私は断った。

 そろそろ、父の四十九日である。私は多分行かないだろう。いや、行けないと云った方が適切なのかもしれない。

 元々アルバイトで家賃を賄っていたので、生活費が途絶えたことは私にとって非常に厭な出来事であったのだ。私は生活保護を受給しようとも考えたが、家族にこのことは知られたくはなかったので、諦めることにした。

 後ろでは雨音が不穏を孕んでいた。もう時効が近づいていることに気付いた。しかし、喜びなど無かった。自分の過ちをどう顧みても後悔しか残らない。

 紅茶に映った歪んだ顔が、私を静かに見下していた。

 さて、この部屋の外には何があるかというと同様に何も無い。窓外にはつい最近建てられた高層ビルが狭い路地を隔てて見下しているだけである。

 これが建てられるという知らせは一年前、大家から聞いた。彼はいい迷惑だと愚痴を零していたが同感であった。まあ、これが無かったところで、寂寞たる貸地が枯木を見事に生やして広がっているだけであったので、別にそれ程までに何も感じなかった。

 しかし、いつかは見てみたいものだ。光成智樹君が興奮気味に語っていた蓮池というのを。私はまだそれを見たことがないので、見物済みの智樹君にエスコートしてもらって談笑を挟み乍ら、見たかったものだ。だが、彼はもう故人である(まあ、私が彼を殺したのだが)。

 そういえば、今日の紅茶はどことなく歪んでいた。いや、私が歪んでいるのかもしれない。だが、今日は紅茶の方が歪んでいると主張できる程の確信を私は抱いていた。私の紅茶はよく専門店で出されるようなものではない。云うてしまえば、インスタントだ。だが、私にとってたとえインスタントであっても紅茶を飲むという行為自体は自分の犯した過ちを忘れることのできる唯一の至福であるのだ。だから、紅茶が歪んでいることは、私にとって大きなストレスになり得ることであるのだった。

 歪んでいることをどうにか上手く説明しようとするが、私は生まれつき鼻が詰まっているため、嗅覚で歪みを表現することは生憎できない。だが視覚と味覚ならできるはずであるので、それなりに頑張ろうと思う。

 まず、視界に入った瞬間、その歪みは現れる。鼻が悪い私でも見ただけでどのような匂いであるのかは容易に想像できた。恰も濁流が堰を切るかのような勢いで私の鼻腔に流れ込んで行く。このことを想像していく内に今日改めて自分の鼻の悪さには感謝せねばならぬのだと思った。

 次に味覚についてだが、これは云うまでもないかもしれない。ゆっくりと味わおうとすると、私の舌の上で蚯蚓が息を潜めてにゅるにょろと這っているように感じる。逆に早く飲み込もうとすると、私の舌の上で蚯蚓が離れまいと留まろうとする。

 この不穏さは今日どことなく静かで歪んでいた。静かで歪みのある不穏、このことを反芻すると、思わず笑みが溢れてきた。何と拙劣な表現であると。

 これは紅茶だけに言えたことではない。前にも述べたが雨音もそうだし、生温い空気も同様である。今日の天気は音で分かると思うが土砂降りの雨だ。また、カレンダーは無いが、今日が十二月であることは明白である。そして、雨が入らぬように窓はきっぱりと閉めている。だがなぜか、生温い空気が私の周りに纏わりついてくるような感覚があるのだ。不穏という名の、人によって姿を変幻自在に変え行く色を帯びているような空気だ。顔を上げると、一見、何も無い空間があるようにも思えるが、目を凝らすとその色が一面に散らばっていて、漠然と広がっていた。それは靄がかかっていて、明瞭には見えぬが、ゆっくりと、移動していて、私のことを静かに見下している気がした。

 今、指をしゃぶっている。このことは私の昔からの癖で、よく同級生から、気持ち悪いと非難されていた。だが、一度身に付いた癖を取り除くことは不可能に近いことだろう。

 中二の時に、私のクラスにいた木村君に至っては、考え事をする時に、消しゴムを指でちぎり、その時にできた粗く大きい欠片もちぎり、それが細かくなるまでずっとちぎり続けるというちぎり癖があった。後で聞いた話だが、彼はティッシュなどの紙切れもちぎる癖があるという。

 テストの時、私は木村君の前の席であったので、テスト終わりに、彼の前に消しカスがたくさん散らばっていたのをよく発見する。ある時、私は彼に訊いたが、彼は自覚はしているようだがやめることができぬらしいというようなことを云っていた。私は彼にせめて、消しカスだけは塵箱に捨てるよう促した。その日から、やめるようにはなったのだが、暫くしてまた、その癖が再発したようだった。やはり人はそう簡単には癖をやめることができぬのだと改めて思い知った。

 指をしゃぶるのだけでは足らないらしく畳に足を擦り続けていたらしい。擦ることも同様に私の癖である。この不穏の中ではこうして一時の快感に身を委ねるしかないのだということを私は理解していた。

 はて、今は何時であろうか。昨日、早く寝ることができなかったので、今が何時かはよく分からない。外は不穏であるので天気で判断はできそうもない。明かりは無い。暗い……。

 まだ無機質である。

 誰か私の心にいる鬼を早く成敗してくれぬものか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ