7 少年の音楽と魅力的な提案
まだ僕が小さい頃、家の中を1人で探索して遊んでいた時のこと。
『ここ、なんだろう?』
いつもは行かない別館の、廊下の突き当たり。他の部屋とは明らかに違う大きな両開きの扉を前に僕は目を輝かせた。
『何か面白いものがあるかも!』
小さな身体を使って重い両開きの扉をうんうん言いながら開けた先には、波のような独特な形の天井の大きな部屋が広がっていた。
『わぁ……っ!何ここ、面白い!』
時刻はもう黄昏時で、窓から柔らかな夕陽が差し込む。
そんな不思議な部屋の真ん中で、少し埃を被り、ひっそりと誰かを待つようにしてグランドピアノが佇んでいた。
『ピアノだぁ!』
幼心に興奮して駆け寄ってみると、それはまるで精巧に造られた大きな美術品のようで。
自分の肩と同じくらいの高さの椅子になんとかよじ登って、どきどきしながらピアノに薄く掛かった埃を手で払った。
「綺麗……」
響板が窓から差し込む夕焼けの光を反射して蜂蜜色に輝く。
幼かった僕には、それがどんな色よりも綺麗に見えた。
ーーあの日芽生えた感情を、僕はきっと一生忘れることはないだろう。
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「君はクラリスのためにピアノや音楽を捨てて剣を選べるかい?」
アリアさんさんが言ったその言葉を理解した時、僕は全身を巡る血液が徐々に冷めていくような感覚に襲われた。
指先から手の感覚がなくなって、自分が自分じゃなくなっていくような感覚に自ずと視線が下がる。
僕を見つめるアリアさんさんの声は厳しかった。
「見ての通りこの場所で必要とされるのは剣の腕、戦場を上手く駆け抜ける為の知恵、そして生き残る強さだ。子どもや大人が揃って口ずさむ、平和を喜び笑い合うための音楽じゃない。そのことは分かるね?」
「はい……」
見て見ぬふりをしていた。
『あれ?そういえば僕辺境伯家に婿入りしたら戦争に参加しないといけないんじゃない?』という疑問を。
もやしっ子の自分が重い鉄でできた剣を振るい魔物や敵国の兵士達と戦うだなんて、とてもじゃないけど想像出来ない。
何より、ピアノを失うだなんて考えた事もなかった。
「君には申し訳ないが、私は代々この国を敵国や魔物から守り戦ってきたアキドレア家当主として、剣を振らず矢を射らない人間を内に入れる訳にはいかないんだ。子どもにこんな決断をさせるのは酷だと思うが……どうか分かってほしい」
「僕からもお詫びしたい。娘をとても好いてくれたのに申し訳ないと思っている」
アキドレア夫妻が立ち上がり揃って頭を下げ、慌てた父さんが「あ、頭を上げてください!」と立ち上がる。当主に頭を下げさせるなどあってはならない事だ。何か言わなければと僕が立ち上がろうとした瞬間、父さんが振り向いた。
「ルート、お前は……」
「お前はどう考えているんだ」。父さんにそう言われて、自分が今口に出そうとしていた言葉をすんでのところで思いとどまる。
「僕は……」
僕は、ピアノが好き。
ピアノが奏でる優しい音も、ピアノを弾いて得られる幸福な時間も全部好き。
街の広場に置いてある、家のものよりも少し小さなピアノを弾くだけで街の人々が手を取って踊り出す。
それが嬉しくて何曲も弾いて、演奏が終わるとみんなで笑い合って。
蜂蜜色に染まった音響室でピアノと共に過ごした、あのどうしようもなく幸福だった黄金の午後の記憶を閉じ込めるにはまだあまりにも早過ぎるのだ。
「……ごめんなさい。僕は、きっといくら剣を振るったとしても音楽を捨てることは出来ないと思います」
「そうか……。じゃあ……」
「でも、ピアノが弾けなくても音楽は続けられると思うんです」
「……え……?」
音楽を突然断つことは今の僕には出来ない。
きっと、これから先もずっと自分の中で溢れる音楽を形にしたいと思うだろう。
「……でも、うちにはピアノなんてないよ?」
「ピアノが無くても僕には声があります。何かを叩いて音を出す腕や足があります。なんならギターとかバイオリンとかトランペットやらカスタネット持って行けばいいんです。大丈夫です!僕、楽器全般いけるんで!」
アリアさんが驚いたように目を見開く。僕は真っ直ぐアリアさんを見つめ、笑ってみせた。
「僕にとって音楽は今の僕を形作っているものだから。彼女が好きだと言った僕の曲をこれからも作っていきたいんです。剣も音楽も、どっちも諦めたくない!僕はどっちも頑張ります」
これが今の僕の答えだ。
我儘で甘い考えだと言われてしまうかもしれないけど、自分の本心を偽りながら彼女と接したりなんてしたくない。
何より彼女と会ったあの瞬間から、僕の中から音が溢れて止まらなくなってしまったから。
これから彼女と一緒に過ごす上で音楽を辞めるなんてどうしたってできっこないのだ。
大きな溜め息が響いた。
アリアさんの溜め息に父さんが慌てて足を踵で踏んでくる。今すぐ撤回しろという意味だろう。
僕は父さんの足を踏み返した。
ここで折れるわけにはいかないのだ。
長い沈黙の後アリアさんはソファに腰を下ろし、カップに紅茶を注いだ。そして口を付けると静かにカップを置く。
その少しの時間がとても長く感じる。
やがてアリアさんはゆっくりと口を開いた。
「うちの子はね、泣き虫なんだ。寂しがり屋の甘えん坊で可愛いんだよ」
「存じ上げております」
帰り際に名残惜しそうにぎゅうっと抱き着いてきたあの温もりを思い出して顔がにやけ……そうになるのを手の甲を抓って抑える。
「……君なら、あの子が泣いてても素敵な曲を演奏して笑顔にしてくれるかもね。……いいよ!合格だ!!!」
「ほんとですか!?ありがとうございます!!!」
満面の笑みで顔を上げたアリアさんに僕は思わず勢い良く頭を下げた。
「やった……。やった……!」
クラリスさんと結婚出来る。ご両親からのお許しが出た今、あとは彼女と距離を詰めるだけだ。
「やっぱり君は面白いね。まさか誤魔化しも一切せずに堂々と自分の意見を言ってのけるとは感服したよ」
アリアさんがぐびっとカップを煽る。
「いい息子さんですね」とガイオスさんに微笑まれ、父さんが嬉しそうに照れたように頭を掻いた。
「私たち夫婦は君が我が家に加わることを心から歓迎しよう。……そして、ここからは私と夫からの提案だ。君、暫くうちに住んでこの環境に慣れてみない?」
「……えっ」
「どうかな」と言われて考える。
自分はまだ14歳だし親元を離れて生活するには早い気がする。そんなに急に勢いで決めてしまっていいものなのだろうか。
いつも勢いで決めているが、これからの自分の環境を変える大事な決断だ。今作曲中のクラリスさんに捧げる曲も完成していないし、ポムじいと新しく作る予定の隠し扉もまだ案を練れていない。まだ我が家でやりたい事が沢山ある。
もう少し具体的な説明を聞いて、よく考えてから返事を出した方がいいのでは。
「その話詳しく教えて貰ってもいいですか」
僕はぐいっと身を乗り出した。それはもうぐいっと。
アリアさんが「ヒャッ……!」と引き笑いした後声を出さずに無音で笑い出し、アリアさんの隣に座っていたガイオスさんはカップの中でブフォッと吹き出して「ごめん、ごめんね……ふふふふ……っ!」と首を後ろに向ける。
「ぶふっ……失礼、よく分かるようにじっくり説明してあげ……ふはっ!ごめん、ちょっと待ってね……」
「はい!待ちます!」
「ダメだこの子面白過ぎる……あーしんど……」
「父さん、なんだかよく分からないけどウケてる」
「そうだね、なんでか分からないのなら仕方がないね」
婚約のための一歩になるならこれを逃さない手はない。じっくり話を聞いた上で最善策を考えよう。
「はーはー……あーやっと落ち着いた……。じゃあ、今から言うことをよく聞いてね。君には騎士団に入団して、アキドレア家の当主を支える者としての技能を身に付けるべく、鍛錬に励んで貰いたい」
「なるほど、婿修業ということですね」
「うん、話が早くて助かるね。騎士団の寮に住んで今居る騎士達と親交を深め、そして皆から慕われるような存在になって欲しいっていうのもある」
「ええっと……僕、騎士団の寮に住むんですか?」
貴族を招いて宿泊させる場合、だいたいがその屋敷の客間に案内されることになる。通常騎士を雇う側の存在である貴族が雇われる側の騎士達と寝食を共にするのは、かなり異例だと思うのだけれど。
「申し訳ないんだけど、君を今の段階からうちの屋敷に住ませてあげることは出来ないんだ。もし君がうちの訓練生活に耐えられなくて断念してしまったとして、うちの娘に良からぬ噂が立つと困るからね」
確かにそれは困る。
クラリスさんと一緒に居られる生活の為ならどんな環境にも耐えてみせるつもりだけれど、不安の種は摘むに限る。
もし僕がやむにやまれぬ事情で……訓練中に命を落としてしまったとして、その時点で僕との噂が立ってしまっていたら彼女が将来誰とも結婚出来なくなってしまうかもしれない。彼女の立場が危うくならない為に念には念を入れておいた方がいいだろう。
まあその場合僕はクラリスさんと結婚した男を地獄の底からでも呪い殺すつもりだけども。
「勿論今まで剣も握ったこともなさそうな君の為に私達も手取り足取りサポートする。それに、クラリスも」
「えっ」
「勿論騎士団の訓練にはクラリスも毎日参加するし、一緒に居る機会は多くなるんじゃないかな」
それはつまり、朝はおはようの挨拶から始まり清々しい空気とクラリスさんの可愛さにときめき、夜は訓練に疲れて眠そうな顔をしているクラリスさんにときめいて一日を終える生活が出来るということか。
それってもう。
「実質新婚生活……」
「君が考えてる事は多分違うと思うけどこっちも君の生活をサポートするし多分そんなに悪い話では」
「お世話になります」
「決断早っ!!!えっ、いいの!?本当に!?」
欲望には勝てなかった。
クラリスさんに剣の扱い方を教えて貰える。手取り足取り。うっかり手と手が触れ合っちゃったりして。
思わず顔がにやけて父さんに肘でつつかれる。
危ない、意識が完全に違う世界へ飛ぶところだった。気を付けなければ。
「期間は1年だ。1年間騎士団の生活に耐えられたら正式に君とクラリスとの婚約を結ぼう。もっとも、クラリスの意思も考慮した上でだけどね」
「これからよろしくね」
「よろしくお願いします!」と頭を下げると、「よかったな、これから頑張れよ」と父さんに背中を叩かれる。
本当によかった。取り敢えずは一件落着だ。これからクラリスさんに恋愛対象として好きになって貰えるよう、精一杯頑張ろう。
『あー安心したら喉乾いてきた』
せっかく紅茶を用意して頂いていたのに今まで緊張して一口も飲んでいなかった。勿体ない。
カップを手に取り喉を潤し……、僕はピタリと動きを止めた。
「あ、それ私のカップ……」
利き手が左だった為、微妙な位置にあったアリアさんのカップに間違えて口を付けてしまった。
当主のカップに口を付けてしまったことはかなり大きな失態だが、それよりも遥かに大きな衝撃が走る。
「……あの、これは……」
「…………」
お湯だった。
自分達の前に置かれたのは確かに色の着いた紅茶だったのに、今僕が口にした何の味もしないのに温かさのみが感じられるこの透明な液体は紛れもなくお湯。
アリアさんが無言で俯き、ガイオスさんが「あー、まさかここでばれるとは……」と困ったように笑う。
「……ん?」
今気付いたが、テーブルの上にはポットが2つ用意されていた。アキドレア家側に1つ、ローゼブル家側にもう1つ。そして先程ぐいとカップを煽っていたアリアさんがお代わりを足したのはアキドレア家側のポットからだ。
いや、待てよ。何故当主が自らお代わりを淹れているんだ。普通なら執事やメイドがやるはずの仕事を、どうして当主が……。
「……ローゼブル侯、少し席を外して貰ってもいいだろうか。ご子息と話したいことがある。ガイオス、ローゼブル侯に騎士団の訓練所を案内して差し上げて」
アリアさんの声にガイオスさんが「ご案内致します」と席を立つ。
突然どうしたのかと戸惑う父さんを優しく、かつ素早く誘導し応接室のドアが閉まる。
部屋の中はアリアさんと僕の2人きりになった。
「あ、あの……」
異様な空気に包まれた応接室で思わずきょろきょろと辺りを見回す。
部屋の何処にも執事やメイドが見当たらない。当主に付き従う従者が何処にも居ない。
『……まさか』
「ごめんね、実は懸念すべき事項はもうひとつあるんだ……」
他家の当主が居ると話し辛い事。そして現在のアキドレア家が抱えている最大の問題。
僕の中であるひとつの仮説が浮び上がった。
アリアさんはテーブルに勢い良く両手をついて言った。
「単刀直入に言おう。我が家は貧乏です!」
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