11 黄昏の鍵盤と気まずい部屋
アキドレア辺境伯領への馬車の旅から1ヶ月後。荷物の整理も終わり、とうとう出発の日が近付いて来た。
「…………」
夕暮れの音響室にピアノの旋律が優しく響く。
「……この身も心もあなたのために……」
ルートの歌声が優しく曲に乗る。指が鍵盤の上を滑るように動いた。
この白く細い指も、来年この家に帰って来る頃には沢山の剣だこと傷が出来ているのだろう。
……そして、感覚を忘れて指が動かなくなり、今みたいにはピアノが弾けなくなってしまうのだろう。
それでもいい。自分で選んだ道だ。ピアノが思うように弾けなくなったって後悔なんてしない。また1から頑張ればいいのだから。
「今覚悟を決めてあなたのもとへ……」
ポロン……と静かにピアノから手を離し、ゆっくりと息を吐く。
と、隣からぱちぱちと軽い拍手が聞こえて来た。
「とっても素敵だったわ!」
「ふふ、ありがとう……あれっ母さん!?」
拍手が聞こえた方を振り向くと、少し離れた所にちょこんとお行儀よく椅子に座った母さんが居た。
いつの間に。全然気付かなかった。
「いつから居たの?」
「さっきからずっとよ。うふふっ」
そう言って母さんはにっこり笑った。
今年で38歳になったはずなのに全く老ける気配がない。20代後半と言われてもまだ頷ける。纏う雰囲気が若くハキハキしているという所もあるだろうが不老不死の薬でも飲んでいるのではないだろうか。
プルプルで皺のないきめ細かな白い肌に桃色の頬。長い黒髪を緩く巻いた姿だけならお淑やかに見えるのだが、閉じていれば色気を感じさせる目は開くとたちまち瞳の中を好奇心でいっぱいにして夜空の星のようにキラキラと輝かせる。落ち着きのなさが玉に瑕だ。
「さっきっていつ?」
「この曲の前の前の曲の途中からずっと聴いてたわよ」
そんなに前から。気付かないにも程がある。
音楽に集中していると周りが全く見えなくなってしまうのは僕の悪い癖だ。
この間なんて作曲に相当集中していたのか何度話し掛けられても全く反応しなかったらしく、やっと気付いた時には傍らに立っていた父さんが半泣きになっていた。あれは悪い事をした。
「ルーちゃん、私のお部屋に来てってメイドちゃんが呼びに来たの気付かなかったでしょ」
「えっ来てたの!?全く気付かなかったよ!?」
「うふふっ、だから私が来たのよ。こらこらーお母さんとお話しなさーいって来たのにあんまり素敵な演奏してるんだもの、ミイラ取りがミイラになっちゃったわ!」
「みいらって?」
「気にしないで!」
母さんはたまに変わった言葉を使う。なんでも、ことわざ、だとかおたく用語、だとか。
「推せるわ!」とか「尊いわ〜」と言って喜んだり、凄いものを見たらすぐに神だと言う。
今ではあまり気にしていないけど、昔は分からなくてよく聞き返していた。その度に「尊いものを前にしたら語彙力が無くなるのよ!」と言われた。そろそろ勉強して欲しい。
「渡したい物があるのよ。明日出発でしょう?私きっと朝起きれないから今のうちに渡しておきたいのよ」
「えっ見送りしてくれないの?」
「行けたら行くわ!」
「絶対来てくれないやつだ」
これから1年会えないかもしれない息子に対してあんまりじゃないのか。
まあ朝に弱くて10時過ぎに起きてくることが多い母さんが7時に起きて来れるとは思っていないから、薄々と『あれ見送りは大丈夫なのかな』とは思っていたけど。
「てへぺろっ!」とウインクして舌を出す母さん。若い。僕は呆れつつやれやれと溜息を吐いた。
「まだピアノは弾くのかしら?後で部屋にいらっしゃいね」
「はーい」
ひらひらと手を振りながら母さんが出ていく。
手を振り返し重い扉が閉まると、音響室には僕だけになった。
「…………」
ピアノの鍵盤を指でなぞる。ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ……。
この音とも、暫くお別れだ。
「今までずっと、ありがとうね」
あの日からずっと傍に居てくれた、僕の友達。
幼い頃はよじ登って座っていた椅子からすっと立ち上がり、鍵盤の蓋を静かに下ろす。
艶やかに光る響板を指でそっと撫でると風でカーテンがふわりと揺れ、夕日が差し込んだ。
もう時期夜が訪れる。冷たく、暗い寂しい夜が。
そして時に、夜空の煌めく星達が優しく地上に光を降り注ぐ素晴らしい夜が。
「……行ってくるね」
また僕が君を弾くその日まで。
僕はあの日の黄金色の思い出に別れを告げた。
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「うふふっオリちゃんったらだめよぉ、ルーちゃんが来ちゃうわ」
「えへへ〜いいじゃない、お仕事疲れたから癒して欲しいなぁ〜」
「もう、ちょっとだけよ?」
「えっへへ〜えへえへ」
「…………」
感傷に浸っていた気持ちを返してくれ。
母さんの部屋に呼ばれてノックしようとしたところで両親がイチャつく声が聞こえて来た。
仲が良くて何よりだが時と場合を選んで欲しい。あと父さんがデレデレしすぎて気持ち悪い。もう既に入りたくない。
回れ右してやろうかと体の向きを変えたところで「あれ、ルート。どうしたのさ」と兄さんがこちらに歩いて来た。
だめだこっちには行けない。
後ろを見るとああ忙しい忙しいと言いながらぼいんぼいんとゴムボールのような巨体を揺らすソフィーさんが走って来た。
だめだ押し潰される。あっちもこっちも行き場無しだ。
「ちくしょう!僕はここで死ぬのか!」
「何言ってんのか分かんないけど母さんに用があるならとっとと入りなよ」
気付くと「ボクも母さんに用があるしさぁ」と面倒くさそうな顔をした兄さんが既に横に立っていた。
何故早歩きで来たのかと惚けていると兄さんにグイと引っ張られ、ソフィーさんが「あら失礼」と横を通り過ぎた。
『ああ、庇ってくれたのか』
「ありがと」とお礼を言うと「ボサっとしてないで気を付けなよね」と笑いつつ、頭をぺしぺし叩かれた。
「…………!」
やっぱり腹立つ。
「入るよ」とノックもせずにドアノブに手を掛けた兄さんの手を止め、ぶんぶんと首を振る。
やめろ、そこから先は魔窟だぞ。
「なんなのさ?」と不満げな兄さんにしーっと指を立ててクイクイとドアを親指で指す。
兄さんは首を傾げていたが、意味を理解したらしくそっとドアに耳を当てた。そして聞こえて来た声にだんだんと顔色を悪くさせるとスッとドアから耳を離し、何も言わずに頭を押さえて去って行った。
「…………」
僕も帰ろう。
兄さんとは反対の方向へくるりと向きを変え、僕は自分の部屋へと戻って行った。
ルートの母は違う世界から来た人です。




