冷たき飛沫のうたごえ
冬ですが、敢えて「人魚姫」をモチーフの童話にしました。
冷たい海の底に、人魚の国がありました。その国の王様には、それはそれは美しい娘たちが三人おりました。一番上がソフィア、真ん中がエマ。そして末っ子はアンネ。ソフィアは金色の長い髪に碧い瞳。エマは青い目にやはり金色の波打つ髪をしています。アンネだけがくすんだ灰色の髪をしていて、彼女はお姉さんと違った髪を、幼い頃から大層気にしていました。
ある日のことです。アンネがいつものように目を覚まして、海の神様にお祈りを捧げに向かうと、エマが大粒の涙を流していました。何が起きたのかアンネが彼女に問いかけると、なんとソフィアがお城のどこにもいないと言うではありませんか。ソフィアは真面目です。何も言わずに遠くへ行ってしまうことなど、これまで一度もありませんでした。王様もお妃様も真っ青な顔です。季節は冬。海の水はいつもよりずっと冷たくなっています。
アンネは王様とお妃様にはっきりとした声で言いました。わたしがお姉さまを探しに行きます、と。王様は目を大きくさせました。お妃様と、涙で濡れたままのエマも同じです。王様はお城を離れるわけにはいきませんし、お妃様だってそうです。
「わたしがきっと、見つけてきます」
エマにアンネはそう言って微笑みました。エマは震えながらも頷きます。
「アンネ。この首飾りを持っていきなさい」
「お母さま?」
お妃様がそっとアンネに首飾りを手渡します。それは、海の底で見つけることの出来る、美しい石の使われた綺麗な首飾りでした。いつもお妃様がつけているものです。アンネは知っています。これが、母親のとても大切なものであるということが。いいのですか、と問いかける前に、お妃様は黙って頷きました。そして、娘の首にかけてやります。アンネは「ありがとうございます」と丁寧な声で言って、お城を出ました。
海はとても広くて、そしていろいろな生きものが生活しています。
「アンネ様。どうしたのですか?」
お城の外に出てすぐでした。青色の魚が声をかけてきました。ひらひらと尾ひれを揺らす彼女に、アンネは尋ねました。ソフィアお姉さまを見かけませんでしたか、と。すると、魚は少し考え込んで、そういえば、と口を開きます。
「さきほど、南の方へおひとりで泳いでいったのが、もしかしたらソフィア様だったかもしれません」
「分かりました、ありがとうございます」
アンネは魚に頭を下げ、それから手を振って南へと向かいました。ここから南へ進んだところには鮮やかな魚たちが住んでいます。もしかしたら、ソフィアはそこに居るかも知れません。アンネは大急ぎで泳ぎました。もともと早く泳ぐのはあまり得意ではありませんでしたが、アンネは大好きなお姉さんに早く会いたかったのです。
「まあまあ、アンネ様。こんにちは。そんなに急いでどこへ行くのです?」
二番目に声をかけてきたのは、イルカでした。つぶらな瞳がアンネに向けられています。
「ソフィアお姉さまを探しているんです」
「……ソフィア様? ちょっと前にお見かけしましたよ」
「本当ですか?」
「ええ。ここから西に泳いでいったのを見ましたわ」
イルカはそう言って西の方を向きました。西へ行けば、確か、小さな島があります。人魚はあまり海上まで上がることはありません。人間に見つかると、大騒ぎになってしまうと分かっているからです。それに、海で生きる人魚たちは、陸で暮らす人間のことがとても怖いのです。アンネだけではなく、ソフィアとエマも、そう育てられました。
「ありがとうございます、イルカさん」
アンネはイルカにも頭を下げて、西へと向かうことにしました。
水が冷たくて、それに大急ぎで泳いだせいで、アンネは少し疲れてしまいましたが、それでもソフィアを探すことをやめません。
どれだけ泳いだでしょうか。アンネは上へ上へと泳ぎ、顔をちょこんと海上に出してあたりを見回します。小さな島が見えました。小さな島とは言っても、それは大海原と比べればという話です。そこにはお城がありました。白くて立派なお城です。アンネは人魚ですから、人間の生活やそういったものを良くは知りません。けれど、人魚の国と一緒で、王様やお妃様、王子様やお姫様がいるということくらいは知っています。
アンネは人間に見つからないように祈りながら泳ぎ回ります。すると、海に突き出したごつごつとした大きな岩に、ソフィアの姿が見えました。
「ソフィアお姉さま!」
彼女へ近付いて名前を呼ぶと、ソフィアはびっくりとした目で妹を見つめます。
「アンネ、どうして……?」
「わたし、お姉さまを探しにきたんです」
「そう、ごめんなさい、アンネ」
ソフィアは頭を下げました。そんな彼女にアンネは問いかけます。どうしてこんなところに居るのですか、と。けれども、ソフィアはなかなか答えませんでした。じっとアンネは彼女を見つめ続けます。五分くらい経ってからでした、ソフィアが小さな声で答えを発します。
「私、あのお城の王子様が気になってしまうの」
ソフィアの細い指が、お城を指し示しています。今はその王子様の姿は見つかりませんが、ソフィアの大きな瞳にはきっと彼の姿が映し出されているのでしょう。アンネは驚きました。アンネはまだ人間でたとえると十を少し過ぎたくらいの歳で、誰かを好きになるということを知りません。ですが、姉のソフィアが言っていることはなんとなく分かります。
でも、ソフィアもアンネも、それからここにいないエマも人魚です。生まれてからずっと、海とともに生きるものです。王子様は人間です。王様にこのことを言えば、きっとこっぴどく叱られてしまうでしょう。王様はあまり人間を好んでいません。お妃様だって、似たようなものです。
「お姉さま。わたし、聞いたことがあります」
少しだけ間を置いて、アンネが言いました。
「人間はこの季節、大切な人におくりものをする、って」
「おくりもの?」
アンネは前に、教育係の者からその話を聞いたのです。なんでも冬には聖夜と呼ばれる日があって、大切な人へなにかをプレゼントするのだ、と。想いも同時に届くかもしれない、そんな話を聞いたのです。ソフィアは胸に手を当てました。きっとそこでは、心臓がいつもよりずっと早くドクンドクンと鳴っているのでしょう。
「だから、ソフィアお姉さま。海の魔女さまに相談しましょう」
海の魔女と呼ばれる女性は、何でも知っています。アンネたちが暮らすお城からちょっとだけ北へ泳げば、そこにたどり着けます。何を贈ればいいか。どうやって贈ればいいか。海の魔女ならきっと教えてくれるでしょう。ソフィアは頷きます。ふたりは、すぐに深い海の奥へと向かいました。世界を見下ろす空には、綺麗な星がきらきらと瞬いていました。
◆
「それで、ソフィアは人間にプレゼントを渡したいのかい」
海の魔女が尋ねてくるので、ソフィアはおそるおそる「はい」と答えました。アンネの首元では、お妃様から渡されたそれが輝きを放っています。
「ソフィア。歌を贈ればいい。人魚が持っているものは、美しい歌くらいだろう?」
「歌……」
ソフィアは考え込みました。確かに歌は得意です。王様もお妃様も、ソフィアの歌声をとても褒めてくれます。でも、そんな形がないものでいいのでしょうか。一方、アンネはそれを名案だと感じました。人魚と人間は住む世界が全く違います。けれども、歌であればきっと喜んでもらえるでしょう。それに、ソフィアはアンネとエマより上手に歌うことが出来ました。
しかし、問題はどうやって人間の王子様に歌を聞いてもらうかです。人魚は足を持ちません。陸を踏みしめて、王子様のところへ行くことは出来ません。ソフィアは遠目から彼を見て、惹かれてしまったのです。ちゃんと顔を合わせたことは一度もありませんでした。
「そうだねぇ……あたしが欲しいものをくれるなら、ソフィア。おまえを人間にしてあげるよ」
魔女は言います。
「欲しいものってなんですか?」
アンネが問いかければ、魔女はくく、と笑いました。
「その首飾りさ」
「!」
魔女が指差したのは、アンネがお母さん――お妃様から持たされたとても美しい首飾りでした。アンネは驚きました。ソフィアも、それがお妃様の大切なものであることを知っています。そう簡単に渡すことは出来ません。けれど魔女はじいっとそれを見て、ソフィアの返事を待っています。どうしたらいいのか、アンネには分からなくなってしまいました。そんな妹の隣でソフィアはぐっと唇を噛みました。
「……アンネ」
ソフィアの声は掠れていました。どうしても王子様に会いたい。会って、歌をプレゼントしたい。悩むふたりの前で、魔女は笑っています。アンネはお姉さんであるソフィアの力になりたくて、ついに首飾りを外してしまいました。魔女が何故これを欲しがっているのかは分かりませんが――ソフィアの望みを叶えるには、もうこれしかありませんでした。
「ふふ、約束通り、ソフィア。おまえを人間にしてあげよう」
魔女は首飾りを受け取って、一度奥へと消えました。すぐに戻ってくると、彼女の手にはあやしげな薬の瓶がありました。魔女がソフィアに言います。これを飲めばおまえは望み通り人間になれるよ、と。ソフィアは震える手で受け取って、アンネへ手招きました。一緒に西の島まで行こうというのです。もうアンネには、何が正しいことなのかちっとも分からなくなりました。そのままソフィアと一緒に、魔女の暮らす家から出て、並んで泳ぎました。海はいつもと同じはずなのに、いまはやけにその海水が冷たく感じられました。
ふたりは、島の近くにある岩の上まで辿り着きました。ソフィアは手にした薬瓶を開けます。ただならぬ匂いがしました。アンネが不安そうに姉を見つめます。ソフィアは勇気を振り絞って、魔女から与えられた薬を一気に飲み干しました。
すると、なんということでしょう、ソフィアは全身が焼けるような痛みを感じて、大きな声で叫び始めたではありませんか。アンネはソフィアの名前を何度も呼んで、背中をなでてやりました。そのうちにソフィアは光に包まれ、人魚としての体を失い――人間のような足を得ていました。彼女はぐったりとした様子で、岩に座りこんでいます。
「ソフィアお姉さま……?」
アンネは戸惑いながら、名を呼んでみました。ソフィアはアンネを見つめると微笑みます。これでひとつめの願いは叶ったのです。一番の願いは、お城の王子様に会って、歌を贈ること。ソフィアは人間の足をばたばたとさせて、例の島まで泳ぎました。アンネは追いかけますが、ソフィアはそのまま陸に上がると、走っていきます。アンネには、彼女をこれ以上追いかけることが出来ません。アンネは人魚であり、人間ではないからです。すぐにソフィアの姿が見えなくなってしまいました。アンネは急に不安になります。お妃様の大切な首飾りを勝手に魔女へ渡してしまったことを、今になって後悔したのです。いけないことをしてしまいました。
しばらくすると遠くから歌が聞こえてきました。アンネは岩の上でそれを聞いて、はっとします。聞き覚えのある歌。これこそ、ソフィアの歌でした。彼女は願った通りに、王子様へ歌を贈ることが出来たのです。とてもとても美しい歌声でした。けれど、アンネは真っ青な顔をしています。早く、出来る限り早く、お妃様に伝えねばなりません。自分がしてしまったことを。
◆
「……なんてことを」
お城に戻ったアンネを待っていたのは、お妃様の悲しい顔と、王様の怒った顔でした。エマはまだ泣いています。王様は言いました。あの海の魔女は、昔、このお城で悪いことをして追放された人魚だと。そしてお妃様の首飾りは、この海を守るという特別なものだったのだと。アンネは泣き出します。自分が、そしてソフィアがとんでもないことをしてしまったことを、今になって気付いたのです。叱られるとは思っていましたが、魔女が悪い人魚で、首飾りがとても大きな意味を持つ宝であることを知らずにいた――そんな無知な自分が嫌になりました。アンネは、涙が止まりません。魔女は、首飾りの力を悪いことに使おうとしているのかもしれない。王様がお妃様とそんな話を深刻な顔でしています。
その時でした――その魔女が姿を見せたのは。魔女は首元にそれを輝かせて、にやりと王様を見つめます。お妃様は真っ青な顔でした。空気はまるで、凍ってしまったかのようです。
「この首飾りを返して欲しければ、アンネかエマを私のところへ連れておいで」
魔女はそれだけ伝えると、北にある住処へと消えてしまいました。エマとアンネが顔を見合わせます。王様とお妃様は、娘たちを見つめました。大切な娘と、国の宝である首飾り。それを天秤にかけることなど、出来るはずがありません。ですがアンネは言いました。エマを優しい目で見つめ、そして前を向きます。
「……わたしが行きます」
エマが妹の名を呼びました。
「だって、わたしに責任があるのですから。エマお姉さまには何の罪もありません」
「アンネ……」
「お父さま、お母さま。本当にごめんなさい。そもそもソフィアお姉さまに、魔女さまのことを教えたのはわたしなんです。だから、一番悪いのはわたしです。ソフィアお姉さまのこと、怒らないでください」
ソフィアは、うまれてはじめての恋を実らせたかっただけ。そうアンネは言いました。ソフィアは今、きっと王子様のそばにいることでしょう。人間の姿で、彼に歌を贈り続けていることでしょう。アンネは、それでじゅうぶんでした。大好きな姉が幸せなら。魔女が何故、アンネかエマを自分のもとに置こうとしているかは分かりませんが、罪をひとつ償う覚悟をアンネは決めていました。
「アンネ。おまえは私の可愛い娘であり……海の神様からの贈り物だ。そんなおまえとこんな形で離れることになるなんて」
「お父さま……」
「ああ、アンネ。首飾りのために、あなたと別れなければならないなんて……!」
お妃様がアンネを抱きしめました。首飾りは、古より海のお城に伝わってきた特別なものです。なにがあっても取り戻さなければならない、そんなものだったのです。持ち主を護ってくれる、そう信じられてきたものでした。だから、お姉さんを探しに向かったアンネに渡したのです。アンネは大きく頭を下げると、お城を出て魔女の暮らすところへと急ぎました。胸の奥がひりひりとします。エマの泣き声が耳から離れません。
「海の魔女さま。アンネです」
「おお、来たのはやっぱりおまえだったか」
「……はい」
「約束通り、あの首飾りは返してやるよ。あとで渡しに行くからね」
「……」
魔女は笑っています。ですが、アンネはそれと真逆です。
「別に、おまえを傷つけるようなことはしないよ。ただ、あたしは独りが嫌になって――話し相手が欲しくなっただけだよ」
そう言って、魔女がアンネの頭を撫でました。その手は驚くほどあたたかくて、アンネの頬に一筋の光が走ります。ソフィアは恋を実らせ人間として生き、エマは今まで通り人魚として生き――そしてアンネは魔女とともに静かに暮らす。姉妹はそれぞれ違った道を進むことになりました。
「アンネ。話を聞かせてくれないかい」
「ええと、どんなお話ですか?」
「なんでも構わないさ」
魔女が笑っています。さっきと違って、アンネの頬は僅かにではありますが、薄く紅がさしていました。
こういったお話を書くのは、はじめてかもしれません。
読んでくださった方、ありがとうございました。
余談ですがソフィア、エマ、アンネという名前は童話「人魚姫」の作者、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの出身国、デンマークに多いという女性名からとりました。
またこういうお話が書けたらいいなぁと思います。