Ⅳ.
人を動かすのは、希望か欲望か。
どちらも似ているが、太陽と月、天国と地獄、まるで光と陰のようだ。
何かを望むとき、その心身は満たされていない状態。
つまり、隙間が生じているということだ。
『希望』は、そこに光が射し込み、
利己的なものが多い『欲望』には
やつらが付け入る。
学校では、『希望』に、より重きを置いている。
入学の際に、欲を手放すことを条件にはしているが、常日頃から意識することで、理性的コントロールができるようになるという考えからだ。
決して禁欲を強いるわけではなく、生徒の大抵の希望は叶えられる。
騒めく教室。授業前の風景は、普通の高校とあまり変わらない。
教室に入ると生徒は、各々‟いつもの”場所に座る。
だが、前方に3つ並んだ大きなディスプレイには、今日のテーマ『欲望のレベルについて』という言葉が映し出されていた。
その後ろには、木製の湾曲した長机が行儀よく列を成している。
幸運なことに、先に来ていたイータの隣は空だった。
アルファは、すかさずバッグを放って席を確保すると、ニヤリとして見せた。
実技以外は出席率の低いアルファだけに、教室に顔を出すのは珍しい。
それでも、イータに言われて少しずつ教室には居るようになってきたところだ。
今頃になって眠気を催してきたため、デルタ先生の授業時間を睡眠に充てる目論見だった。
「慌てなくても、いつも空いてるわよ」
「そいつは失礼。ここがやっぱり一番落ち着いて寝れると思って」
「また、そんなこと言って……デルタ先生にまで呼び出される気?」
呼び出される、といえば……
「そういえば、オミクロンに呼ばれてるんだ。何か知ってる?」
「いいえ。でも、理由なら色々ありそうだけど」
皮肉めいた言葉を紡ぐ唇さえ可憐だ。
妹の口元を見て、今まで忘れていたことをふと思い出した。
自分の下唇に触れると、腫れが残っているのか、まだ微かな熱を感じるようだった。
拭き取るときに、ゴシゴシやり過ぎたかもしれない。
「おれって、先生にモテすぎ——」ふざけて言いながら、あくびを噛み殺す。
眠ったら治るかな……と思いながら、アルファは次第に意識を手放していった。
デルタ先生は元聖職者だ。
昔、バチカンにいたとかいないとか……
経歴の詳細は公表されていないため、生徒は勝手な仮説を立てていた。
落ち着いた容貌と言動で生徒から慕われ、服装も含めて聖職者らしさたっぷりだが、『教皇の影で秘密裏に動いていた悪魔祓い (エクソシスト)』というのが、専ら一番支持されている説だった。
威風堂々たる先生の姿を見て、教室内の騒めきが一瞬で静まる。
その体格から、聖水だけでなく槍を持たせても様になると言われていた。
「さて……」
「表題の通りなのだが、これを見て自らの考えをまとめてほしい」
デルタ先生は、ディスプレイにアブラハム・マズローの欲求段階説を示したカラフルなピラミッドを映した。
その後も先生の解説を交えての映像は続き、アルファは安眠を妨げられることなく、深い眠りに落ちていった。
再び教室に騒めきが広がり、誰かが軽く肩に触れる。
「アルファ。先生からのプレゼントよ」
イータはもう既に片付けを終えていて、アルファにレポートを渡す。
バレてたのか。
熟睡後の晴れやかな気分も一気に霧散して肩を落としていると、イータが慰めるように背中をポンポンと叩く。
足早にドアに向かうと、そこには幼馴染みと従兄弟が待っていた。
二人の頭に張り付いているニヤけた顔が、今はこの上なくウザい。
「アルファ、随分楽しそうな学習方法だな」
「いったい何の学習してたんだよ」
からかうのを笑いで受け流すと、この訓練仲間の逞しい腕が飛んでくる。
二人の敬愛に満ちた攻撃を肩と背中に受けながら、
「おれ、先に教務 行ってくるわ」と、イータにだけ聞こえるように告げると、
彼女は素早く瞬きした。頷く代わりに。
理由も分からず立ち尽くす二人をそのままにして、アルファはオミクロンの元へ向かった。
呼び出しなんて嫌な予感しかしない。用事は早く済ませたいものの、その足取りは重かった。
従兄弟たちには上手くイータが説明してくれるだろう。
だが、実際は……
二人は気にもせず、イータに説明も求めなかった。
「で、イータ。狩りはどうだった?」
周りを気にするように少し声を潜めて、従兄弟のシグマ(σ)が尋ねる。
顔を少し寄せたので短いハニーブロンドの髪が触れそうになる。
この二つ上の従兄弟は、ライオンのように逞しい姿で子猫のように目を輝かせている。
「朝、図書棟に行ったんだって?もしかして何か分かったことがあったの?」
これは幼馴染のファイ(φ)。
シグマが猫なら、ファイは明らかに犬だ。
好奇心でいっぱいの人懐こい瞳で返事を待っている。尻尾があるなら振っていそうな感じだ。
超大型犬か大狼サイズだが。
二人の勢いに若干、気圧されながら、
「そうね。収穫はなかったけど、予防はできたわ」
詳しい話はカフェテリアで、と彼らを促した。
三人がカフェテリアで向かい合わせに座っていると、ラムダ(λ)がトレーを持ってやって来た。
「やぁ、イータ。……どうだったかな、試作品は?」
彼は生徒だが、普段は研究棟にこもりっきりだ。
ちょうど空いていたイータの前に座ろうとしているのを見て、シグマが自分の隣の席を指さす。
「はいはい。キミは、こっちね」
ラムダは、渋々といった感じで移動すると、座り終わらないうちに同じ質問を繰り返した。
「後で報告書を出そうと思ってたんだけど……結論から言うと、かなり助かったわ」
ラムダの表情は分かりやすく、嬉しそうに身を乗り出してくる。
「ホント?今、聞かせてもらえる?」
この二人の会話が昨夜の狩りに関係する話だと分かって、プロテインバーをかじっていたシグマは聞き耳を立てた。
ファイは、ハンバーガーのバンズを外してケチャップを付けるのに夢中だ。
「威力に関しては補助的に使ったほうが……もしメインにするなら……」
「だとすると……」
そこへ双子の魔女を連れて、アルファが‟登場”した。
とにかく、良きにつけ悪しきにつけ、彼は目立つ。
今日は、トレーの上で山盛りにされたピザも、その一因に違いない。
だが、たくさんの好奇の目に晒されても、一向に構う気配はない。
それどころか、座るなり、少し怒った様子で二枚重ねにしたピザをほおばっている。
「良い話じゃなかったみたいね」
言いながら、イータは紙ナプキンを渡す。
「会った時からムスッとして、理由を言わないの」
「そうそう。教務室から出てくるなり、発狂してた」
双子のエラとレイラも気づかわしげだ、彼女たちなりに。
ほおばりすぎたせいで口を使えないアルファは、首を振って反論を訴えている。
「いや、事実でしょ。アルファはいつも拡声器使ってるみたいに声が大きいから、どこにいるかバレバレ」
「そうそう、ストレスに効くのあげようか」
レイラはアルファの炭酸水のボトルを取ると、小瓶の中身をその中に落とした。
得体のしれない液体は、撹拌しなくてもみるみるうちに混ざり、炭酸水を見た目だけファンタグレープに変えた。
「はい」
にこやかに手渡され、アルファが目を剥いた。
「飲めるかーーー!」
「グリーンの方が良かったの?」
「余計にストレス値、上げちゃったみたいね」
「まぁ、効果は保証するから、飲んでみて。一口でいいから」
まるで子どもに言うかのように、レイラが優しい口調で宥める。
「オレが試そうか?なんか、おいしそう」
超大型犬……もといファイがパープルになった炭酸水を見つめている。
そんな彼を12の瞳が見つめた。
「いや、おれが飲みますよ。レイラは、おれの精神的安定のためにやってくれたんだから」
アルファは突として立ち上がり、ボトルを掴んで飲み干した。
今度は、アルファに視線が集まる。
「ん、草の味……」
想像して、一同が顔を顰める。
魔女だけは当然といった顔だったが。
「効果の程は?」
「あぁ、もう全っ然、オミクロンに言われたことなんて、気にならないかも……」
言いながらもよろけて倒れそうになった。
「おっと。大丈夫?」
アルファを後ろから支えたのは、モノトーンカラーの少年。
吸血種でドクターのカイだった。