Ⅲ.戦うべき相手
悪魔は階級制度だ。
実に嘆かわしいことだが、地獄が存在を始めた時より、一度も制度の見直しはなされていない。
改革を訴え出る者もいないし、仮にいたところで、抑え込まれるのが関の山だ。
常に一人の王が統べる地獄では、彼が唯一の法。
序列があることにより力関係は一定に保たれ、大幅に変わることはないため、現代の人間社会のように格差が広がることはない。
似た状況のはずの天を見上げて、男は薄い笑いを浮かべた。
彼にとっての親愛なる王サタンは、本来、神の道具であった。
ルシファーと呼ばれ、神の愛を一身に受けていた輝かしい天使。
だが神は、人間に試練を与えるため彼を地上に遣わされた。
神は、時に愛する者を試す。
ルシファーもまた同時に試されていたのだが……
許しがたい裏切りに感じた彼は、神に反目し、敗北の末に地獄に幽閉された。
それからの彼は、サタンと名を変え、神に人間に復讐を誓った。
サタンの憎しみは、表現できないほど強大で奥深く、煉獄の熱量を遥かに凌ぐほど恐ろしい。
彼は、悪魔たちを使って人間に試練を与えることにした。
人間の悪なる心を——欲望を操ることによって——引き出したのだ。
かくして意外な形で神の目的は達成された。
いや、総ては神の手の内。
この‟人間への試練”を悪魔だけの責任にしようという、それさえ神の思惑に含まれているのだろうか。
しばらくすると、暗躍する悪魔の存在に気づいた者たちが現れ始めた。
彼らは自らをハンターと呼び、密かに行動していた。
これにより悪魔は地上での自由を奪われ、その数は逓減するとともに、地獄内の秩序は乱れ始めた。
混沌と狂気が大好物の悪魔にとっても、歪んだ力関係の中で生まれる混乱は迎合し難いものだ。
これは、地上で力を持ちすぎた悪魔への制裁——神による間引き——とも思える。
今もなお続く、この長きに渡るハンターたちの誤解は、本当に迷惑極まりない。
人間は、悪魔の力を必要とし、利用する。
己の欲望を叶えるためなら、自ら進んで魂を差し出す。
ハンターたちもまた、欲求を抱えているように見える。
軽薄さが透けて見えそうな、不完全で空疎な正義感を掲げ、戦う理由を、相手を探しているかのようだ。
人間は名前を付けたがる。
その理由とやらにも、おそらく『大義』とか『意義』とかいう名を付けているのだろう。
魂回収を仕事とする低級悪魔たちは、強力なハンターへの抵抗力を持たない者が多い。
そのため、奴らの放埓な振る舞いを許してしまう結果となった。
サタンの考えを慮ることはできないが、崩壊を避けるべく、対抗策は勝手に打つことにした。
まずはスパイ作戦だ。
ネーミングの悪さに我ながら失笑しつつ、男——悪魔——は思った。
しかしながら、物事は本質こそが大事なのだと。
物事の価値は外観だけでは分からない。
見る者によっても、その価値は異なる。
だが、絶対的な価値観というものも存在する。
もっとよく校内を見て回りたかったが、入学を許されていない身としては控えざるを得ない。
オースティンの息子、吸血種のカイ(χ)は、校舎を出るところだった。
コートの内ポケットからカプセルの入った薬瓶を出して、中身の一つを口に放り込むと思案を続ける。
ぼくの価値を示すことについては、全く問題ない。
成果の期待できそうな研究がバッグの中には幾つかあるし……
過信しすぎかもしれないが、超自然的存在においては、その身体能力の高さは疑いようもないだろう。
ただ、提示された条件が気になった。
『アルファと一週間組んで、狩りをすること』
アルファとは誰だ?
信頼関係を築くのが難しい相手だろうか。
意図は不明だが、単に期待に応えるだけではダメらしい。
求められているものが分からないままだと、答えを出しようがない。
だが、いい側面もある。
狩りは好きだ。
今はそこに集中しよう。
一週間は、ここにいる許可も出たことだし。
彼女にもきっとまた会える。
本当に戦うべきものとは何か——そんな疑問はここでは必要ない。全くの愚問だ。
戦うのは、そこに理由があり、必要があるからだ。
この平和に満ちた地上の楽園から窺い知ることはできないが、世には悪が蔓延っている。
それを排除できる力が必要だ。
ここでは悪の存在価値など皆無。
目的が単純でいい。この学校では、やつらを狩ることだけ考えていられる。
もちろん必要なら、この身を——支障のない程度に——研究のため呈してもいいし、ぼくの目的が達した後なら、自由に使ってくれて構わない。
……いや。
彼女に出会った今、そこは少し訂正したい気持ちになっていた。
この生への希望を見出してしまったから。
だが、協力は惜しまないつもりだ。
樹葉の間を抜けて初夏の香りを孕んだ風が、雑念を掬いとるかのように通り過ぎていく。
休憩時間は終わってしまったのか、中庭はすっかり生徒が疎らになっていた。
帰りは案内人がいなかったため、カイは校門まで続く舗装された道を外れて、彼女が居た場所まで行くことにした。
先程までの輝きは感じられないものの、靴底からの芝の感触は心地よいものだった。
大半は風にさらわれたが、まだ少し残る花の香りは彼女のものだろう。
一緒に写真の中にいた男の顔がチラと過った。
そういえば、彼女にどことなく似ていたような……。
騒がしい足音に思考を乱され、振り向くと校舎の方から生徒と思しき少年がこちらへ走ってくる。
浅く早い呼吸を何度か繰り返すと、カイを真っすぐ見据えた。
淡いピンクのシャツが優しい顔立ちと相まって、柔らかい印象。
少し癖のあるブラウンの髪からは、整髪剤の人工的な香りがする。
「よかった、まだいてくれて。あの……オミクロンがさ、君を案内しろって。ちょっといろいろやってたら遅くなっちゃって」
「あ。おれ、シェファーね。同室だから、よろしく」
どうもノリが合わなさそうだが、人の良さそうな屈託のない笑顔は嘘ではなさそうだ。
「こちらこそ、よろしく。おそらく一週間だけのルームメイトになりそうだけど」
できるだけ感じの良い笑顔を心掛け、右手を差し出す。
「え、一週間?あ、そうなんだ」シェファーはプレートに目を走らせた。
カイのネームプレートは『見学者』のままだ。
「えっと……」
シェファーは、赤面を伴って軽くうろたえながら、おずおずと手に触れた。
冷やりとした感触。
「あ……やっぱ、君ってそうなんだ」
戸惑った感じを見せたのは一瞬で、カイの親指だけ掴むと軽く振った。
これは握手なのか?
「でも、おれ、偏見とかないつもりだよ。彼女、魔女だし」
「魔女と付き合ってるくらいなら、ぼくは何の心配もいらないってことだね。嬉しいよ」
彼の思考回路を予測しながら、話を合わせてみる。
「あぁ。おれも、うれしい。……君、医者なんだって?おれさ——」
シェファーは、カイをまじまじと見つめ、感激しているように見えた。
なかなか楽しくなりそうだ。
寮の部屋まで道案内される間は、シェファーからアルファについての情報を仕入れるのにちょうどよかった。
20分ばかり、無秩序な脳が放り続ける言葉をカイはずっと聞いていたが、それをまとめるのは、まるで切り離された死体を元の姿に戻す作業のようだ。
死体を組み合わせて人間にするとこんな感じか。
アルファは、問題行動が多い無法者。
学校の貢献者であった両親は既に他界。
校長は彼らの後見人であり、それを笠に着て、基本やりたい放題。
双子のようによく似た妹がいて、彼女を溺愛している。
ハンターとしての資質は周囲から認められ、別格扱いされているが、好んで付き合おうという者はいない。
背が高く、見映えの良い顔で——カッコよくてと彼は言ったが、複数の高級車を乗り回し、女生徒から好意を持たれることがよくあるが、誰とも付き合うことなく妹と行動を共にしている。
大部分は主観的で感情的なものだったが、シェファーの話はかなり参考になった。
つまりは、問題児の‟相棒“が務まればいいということだろうか。
狩りにおいて、強さは必要不可欠だ。
やつら相手であるならば。
他は大して重要ではないだろう。
この時はまだ、これらが非常に簡単な問題に思えていた。