「3」
稲荷遣、旧知の人より怪異を聴くこと。
…彼女の話はこうだった。
この村にはかつてから沖に白い炎が浮かぶことがあると言うのだ。
その炎が立ち上がった時三人の女を選んで舟に乗せる。
白い炎はそれこそ数十年に一度のペースでしか浮かばないものだった。
…所がある年から急に増え出したのだ。多い時は四~五回。その度に村から女を選んで舟で流していたらしい。
それもボロ舟で必ず時化の夜に。非力な女達の舟など一溜りも無い。
そんなこんなしていたら村に女の数が圧倒的に少なくなった。流石の村人達ももう女を差し出したくなどない。…会合を開きとうとう白炎の警告を無視する事に決めた。女達を村の高台にある神社の脇の一所に集め、出入口や窓を塞ぐ。
どうせなにも起きやしない。
そう思いつつも男達は高台に上がって女を守ろうと小屋の周囲を張った。言い伝えでは白炎が陸に上がってきて厄災をもたらすとされたからだ。全員迷信だと信じ込んでいた。それがいけなかったのだ。
見張っていた男達の1人が崖から浜辺を見た時に、白い波がモヤモヤと寄せて返しているうちに、ぽこりとひとつ…ふたつ…みっつの大きな泡になる。男は目を凝らしてみていたが、なにかゾッとした気配を感じて別の男を呼んだ。その男も覗き込み、目を凝らす。
大きな泡は幾つかの泡を統合してもぞもぞと動き出しムクリと湧き上がる。それは布を被った人の形をしていた。全部で三体。
ありゃなんだと男が言っているうちにその布を被った人の影は赤い目を光らせ、地を滑るように走り出した。明らかに高台に向かって。
男達は危険を知らせに仲間の元へ走る。三体の白布被りはあっという間に山道を駆け登る。
男達が小屋の前に集結したのと白布が山道を登りきるのとほぼ同時だった。赤い目を光らせた白布は獣のような敏捷さで手前の男を白布の中へ引き込む。悲鳴をあげる間もなく引き込まれすぐ、白布がゆらりとその場を動くと男の服だけが地面に残されていた。肉体は跡形もなく消え失せている。男達はどよめいた。
白布の赤い目が光る。一人の男がもろに目が合い、途端に男は狂声を上げて泡をふき膝から頽れる。
男達は抵抗しようと武器を奮った。猟銃まで放った者もいる。
けれど全ては無駄。
武器は砕け弾丸は布に呑まれた。白布の中に服だけ残して消えた者が三人。
赤く光る目を見て発狂し絶命した者が四人。
男達の被害が拡がる前に村長が地面に平伏し許しを乞うた。
白布達はゆらりゆらりと小屋に近寄ってドンドンと戸を叩いた。
一人の男が平伏しながら布の足元に目をやると、白布の中には足が無く、代わりに水が滴り落ちているのを見たという。
別の男は布が伸ばした手はぬるりと黒く細長い鱗らしきが見えたという。
白布は小屋の向こうに向かって何やら声をかけていて、その声は聞いた事も無い言語だったと別の男は言う。
だが中にいた女はハッキリその白布がかけた声を聞いていた。
その小屋の中にいる女達の亡くなった恋しい父母や子供や亭主や恋人の声だったらしい。
私はそこまで聴いて思わず我慢できずに苦々しげに吐き捨てた。
「悪質な怪異のよく使う手ですね。愛しい恋しい懐かしい、再び逢いたい人の声音を使う。嫌らしいやり方だ」
「全くだ」
お紗和さんも暗い目をする。
「中に居る女達はそりゃ失った人の声がすれば飛び出したくなるだろ、その時だ」
女達が戸に手をかけた時、赤ん坊が大声で泣きだしたのだ。そしてその声を聞いた途端、赤ん坊の母親が連れて来て、入り口の土間の隅に控えていた一匹の大きな白い犬が、扉の向こうに向かってけたたましく吠え始めた。
すると外側から響いていた誘い声がピタリと止んだ。代わりに不気味な呻き声が響きだした。
その様子に戸に詰め寄った女達は、皆そこで手を引き込めた。呻き声は今まで一度だって聞いたことのないくらに冷たく不気味で恐ろしいものだったから。
赤ん坊の母親はこのままではイケナイと女達に奥で一塊になっているように伝え赤ん坊を女達に預けると、犬と共に外へと躍り出た。
白布達は犬を見た途端にどういう訳か悲鳴を上げて小屋から遠ざかる。
なんとか追い払えるかもしれない。
一条の光を見出したかの様に見えた時、女はにわかには信じられない光景を目にすることになる。
背後の小屋で言い争いが聞こえたので、振り向くと、扉が少し開くのが見えた。赤ん坊を預けていた女が赤ん坊を調度放り出したのである。
赤ん坊は驚いて更に泣き出した。女は慌てて赤ん坊の傍らに駆け寄り抱え上げると、小屋の戸をどんどん叩く。だがその戸は固く閉ざされてしまっていた。
女はあまりの非道な仕打ちに対して腹を立てたが、中の女たちの気持ちも重々わかる。怒ったところでなにもならないとすぐに切り替えて白布に向き直った。
三体の白布は赤い目の光をチラつかせながら、様子をうかがっている。その時地面に平伏していた男が小声で女の名を呼んで言った。
「目だけはまともに見るな、倒れてこと切れた連中と同じになるぞ」
女は解ったと応え、犬に命じた。白布達を倒せ、と。
白布達はその号令と犬が地面を蹴ったのを見届けるとじり、と空中をすべるように後退し、ふわりと向きを変えて坂道を猛然とした速度で下りだす。
女は赤ん坊を抱き、犬をけしかけながら三体を追って浜辺まで降り立った。
三体の白布は、海へ身を投じるとあっという間に波間に溶けて消えいく。
そのいかんともし難い光景を女はなすすべなくみつめていた…が…
「その女、何を見て、何を聞いたと思う」
お紗和さんが問いかけてきた。
「見当がつきません」
だろうさ、とお紗和さんは天井をまた仰ぎ見る。
「アァーンアァーンて…なんとも物悲しげで気持ちの悪い赤ん坊の様な泣き声と“海か浮かび上がる巨大な白い人影”さ」
その映像がチラリと私の脳裏によぎる。
人は巨大なものをみると一瞬認識が遅れる。巨大なものの近くにいればなおさらだ。
だが視得たその巨大な赤子は目も鼻も殆どなく、口だけをあんぐりあけて霧を掻き分けてぬるーりぬるーりと進んでいく。そのビジョンだけで背筋に冷たいものが走るのには十分だった。
「余りの得体の知れなさに女はそのまま村を飛び出たんだ。赤ん坊と犬だけ連れてね。そして東京に出て、変わり者の雇い主に出会った、それが私さ」
「まさかと思ってましたけど…お紗和さんが実際に体験した話しでしたか…」
嗚呼、とお紗和さんは頷く。
「今でも思い出すとゾッとする。あれはね、海坊主の赤ん坊の亡霊だよ。それこそこの下に埋まってるっていったのがその赤ん坊の死体だってのさ。なんでも五百年だか前に、巨大な真っ白いのっぺらぼうの人の形したバケモノが浜辺で死んでたのが始まりらしい」
「祟りを恐れて村人達がそいつを丁重に浜辺に葬ったらしいんだが…その夜に大きな時化で大波が起きたんだと。次の日そいつを埋めた後にこの巨大な岩場が乗ってたってのさ。墓標のつもりなのか知らんが奴の母親のバケモノが置いたって語り継がれてるんだ」
「成程…しかしそれにしたって何故村人達は…犬はくだんの怪異が怖がったにせよ、わたしとお紗和さん、赤ん坊を嫌うのです?」
「恐らくだが」お紗和さんは赤ん坊が伸ばしてくる手に指をあずける。
「私は怪異に立ち向かってしまったからだろうね」
「ここに帰ってから聞いた噂だが、あたしが村を着の身着のまま逃げ出したその後すぐ、怪異を鎮める為、人身御供の三人女舟を始めたらしい。そこから怪異がパタリと収まってたんだとさ。そんな奴等からしてみりゃあたしは儀式を邪魔する邪魔者でしかない」
「それがあたしが奴等に忌み嫌われる原因だね。あと…赤ん坊は…もしかしたらだが怪異が赤ん坊同士だからなのか…とも考えたんだがまだストンと腑に落ちてない」
「なるほど…」
「だからあんたのことも…わかんないのさ…なんでなのかねぇ…」
「多分」
私は左手で顎と口元を覆う。
「私がこの鳥居の存在に気付いてしまったからでしょうね」
お紗和さんは詳しく話してくれと言った。
「宿に着いた途端、何か妙な気配を感じて雨の中を外に出たのです。その時にこの巨大な岩の上の鳥居に気付きました」
「アタシらの病気みたいなもんだね。直ぐに怪異に呼ばれてしまう」
「白い装束の男達に警告はされたんです。なのに…」
私は口ごもった。ツレの赤樫伊三郎の濡れ場を見て、折角逃げ込んだ宿から出てしまったとはちと言い難い。左手で顔を覆うと溜息が出た。
しかしお紗和さんの勘働きは流石である。一瞬にして言葉の向こう側を読み取られた。
「宿先でとんでもないもんに出くわしちまったのか。そりゃご愁傷様だが隠し立てしないで包み隠さずに全部話しなボーヤ」
「どう言ったらいいか」
「見たままを全部さ」
そこでお紗和さんに、遣いに出た時、島で何があったのかを簡単に話し、今は件の赤樫伊三郎と共に各地を転々としている事、ここはたまたま通りがかって雨宿りのつもりで寄った事、その宿で美しい女に出会いツレが本の数分のうちに女と床を共にしていた事を説明した。
お紗和さんは私の話を目を閉じ黙ぁって聞いていたが、女のくだりになると閉じていた目を急に開けて私を見る。
「ボーヤ、その女の事、もっと聴かせとくれ!どんな女だったね」
ンンと私は唸って記憶を辿る。
「艶のある黒髪、白い肌、着物は赤黒格子柄」
お紗和さんはそれを聞くなり険しい顔になる。
「ボーヤ、その女にかかったら、アンタの道連れがおかしくなるの無理はない。早く何とかしないとボーヤのツレがエラいことになっちまうかも知れない」
「エラいことって…」
「魚女の餌にされるよ」
「魚女…?」
「そうさ。白布を被って出てきた化け物がいると言ったろ。あいつらは恐らくね、魚女だよ。魚女達はね、海坊主の仲間さ。人間の男の肉が大好物だから、男が海で死んだら魚女の餌になるのさ。けどね、船で出される女は恐らくみんな魚女になるんだ。…だからアンタのツレも喰われちまうかも知れない。魚女共を鎮める贄にされちまうよ」
嗚呼と私は微かに笑う。
「ボーヤ笑い事じゃないよ」
「いえ…あの多分彼は平気です。なんなら魚女達の方が危ないかも…それより我々もそろそろ此処を脱け出ないとね」
「ボーヤは大分強くなったんだねぇ」
お紗和さんはしみじみ言う。その顔は優しげだ。赤ん坊がそれに感化された様に無邪気に笑い出す。足元の犬もフンフン鼻を鳴らし足に飛びついてきた。私は犬の頭を撫でながらお紗和さんに言った。
「4」へ続きます