Etude「Rebellatio」
原作 ひとり雨著「反抗者」
グループ小説第二十二弾「リメイク企画」参加作品。
主の生誕より一三二九年 イングランド 冬
チェシャー北部、ローンドロープのはずれに、青い雪を被った白蝋樹の森を背にひっそりと佇む、ささやかな聖堂がある。
月は顕わに雲も見えず、あたりは夜とも思えず仄あかるい。一面の雪は星辰の耀いを吸って、おぼろな寂光を放っている。
堂へと続く路には蹄跡ばかりがぽつぽつと続いていて、雪を掻きだした形跡は窺えない。訪うものの根雪を破る跡もまたしかり。この聖堂に最初に鑿を入れたのは、珍しくもいと敬虔なるベネディクト会修道士の一介であったと聞くが、その厳しい会則とともに、彼の遺業もいまや忘れ去られて久しい。
この神の家を守る教区神父、夜はおしなべて不在であった。朝は前後不覚の高鼾。昼はにごったワイン片手に高吟し、夜はラバに跨って意気揚々と出かけていく。情婦の腹上で聖句を唱えるためである。時課は忘れ去られ、聖人伝は酒の染みにまみれ、聖トマスの像は俗埃にまみれた。ひとも神もここにはいなかった。
悪魔でさえ訪うにためらおうかとも疑われる、十字架を戴くばかりの氷室。今宵も例に漏れず無人のはずなのが、鉛硝子の色彩窓からはぼんやりと、蜜蝋の灯す火のあかりに晒された、しろい女の顔が歪んで見える。
だれかいるのである。
「リリー、まよい子が」
と、窓を仰いでいた女が言った。
応えるものはいない。すきま風の這入る廊内はしんとしている。ややあって曇った音が寂寞を小さく揺るがした。遠く白蝋樹の木叢からこぼれた雪か、この非常の刻限に懺悔を乞うひとの足音か。少し風が出てきたようであった。
「リリー。リル、まよい子が」
「こどもの血の匂いがする」
「まよい羊の血の匂いが。退屈は紛れて?」
「わたしたちと同じかな。神父さまにご用かな」
「懺悔にはちょっと遅いようよ。屋根を借りるのかしら。でも退屈は紛れるわ」
陶製の聖トマスの坐す、古い祭壇の前に女が二人立っている。くすみきった銀の燭台を右手に、王后のような緋色織の袖長衣で装ったのと、それに鏡あわせの造作のが今ひとりと。こちらは黒貂の外套を地面に引き摺り、同じような燭台を左手に持っている。血の気のない青白いかんばせに、揃いの紫紺のまなこが長いまつげを上下している。
その際立った容色! ひとが見ればなんと思うだろう。聖アグネスとクララの、精巧なる彫像と見紛うて跪くであろうか。動いているところを見なければ、それはとても人とは見えぬ美貌であった。
「わくわくしちゃう」
と、黒いほうが言ったなり、入口の木の扉が一度、どんと鳴った。扉は極めて薄い。二人のいるところから見ても、衝撃でかすかに撓むのが見て取れる。訪いびとは扉を蹴ったらしい。
ややあって、扉がくぐもった声で「開けてください神父さま」と言った。
率先して動いたのは黒いほうで、彼女が歩くと足下でなにかがりがり引き摺る音がした。赤いほうが燭台を祭壇に置いて、「開けてください神父さま」と真似て独りごちた。
扉が開かれると風が吹き込んで、蜜蝋のロウソクの二、三本が帽子をなくした。黒い女が抱えるようにして、訪いびとを奥へと案内する。十くらいの痩せこけた少年で、背にいま少し幼いこどもを負うている。染め斑の目立つきたない毛織服は古着であろう、その短躯にはやや剰った。
「神父さまはね、お仕事でお留守。こまったこまった」
黒い女が戯れかかって、少年の髪の毛をわしゃわしゃ弄りだした。ごわごわの栗毛を梳く繊手の、右の小指は見当たらない。
「リルおやめ」と、赤い女が口だけたしなめた。「神の子羊は眠る時間よ、ぼうや。どうしたの」
少年はしばらくの間、女たちの偉容の前にへどもどしていた。
「エミーが、エミーがとても悪いんです」と、少年はようやく口を開いた。「エミーを診てください。神父さまはいないんですか?」
「神父さまはいないんですか? 神父さまはジルがたべちゃった」
黒い女――リルの魔手が今度は背の幼子に伸びた。
「わあ、ファルシフィカートゥス!」
「やめてください、エミーは具合が悪いんです、グッド・レイディ、やめてください」
と言われると、リルはますます「ファルシフィカートゥス!」と嵩にかかってふざけだした。その態から類推したものか、身分ある女という認識があるのだろう、やめてと言う少年の拒絶は、しかし控えめである。エミーは髪の毛を弄られてもなされるがままで、微動だにしない。薄目をあけて頤を反らせて、鼻孔からは乾いた鼻血が轍をなしている。滋養の不足からくる血の病で、その身を負う少年にも同様の症状が見て取れた。
「主よ哀れみ給え、キリストよ哀れみ給え……」
リルの攻勢はやまず、少年はとうとう泣きながらキリエを呟きだした。少年がしゃくり上げるたびに、エミーの骨ばった腕が力なく揺れる。主よ哀れみ給え! 彼は知るまい、その背に憩うものに息はなかった。
「神父さまはお留守よぼうや。主の従僕は忙しいの。お休みを貰えないから」
「でも、でもまた診てくれるって言ったんです。御礼ももうしたんです」
少年はつっかえつっかえ、半月前に家族が病んだこと、両親と兄は助からなかったこと、妹の容態もよくないこと、神父が親切に診てくれたこと、代価として豚二頭と絹の靴下を引き取っていったことを、乏しい語彙で打ち明けた。ジルはにこにこしながら「主よ哀れみ給え」と宣った。
「それはきっと御礼が足らないのね。もっと差し上げなくちゃ。きっとお金ね、十ポンドも払わなきゃ」
袖で鼻水を拭うと、少年は垢光りする小袋からなにかを掴みだしてジルに示した。悴んで血のいろの失せた手のひらに、ペニー銀貨を半分に切断した小片がひとつ。赤い女は腹を抱えて涙を流さんばかりに笑った。悲しいかな、貧しい少年はポンドという金額を理解しなかったのである。
少年は真っ赤になって「それしかないんです」と言って泣いた。
「お金がなければ神父さまはお困りだわ。仕方ないのだし、お帰りなさいな」
「エミーを診てくれるって言ったんです……」
「それしかないんです!」と言ってふたたびリルが絡みだした。少年は必死に妹を庇いながら、「エミーを助けてえ」と顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。
「お金がなくって、それでも助けて欲しいなんて、都合がいいわ」と、ジルが嗤い含みに言った。
「都合がいいわ。都合ってなあに?」と、リルが和した。
「神さま助けてえ」と、少年はその場にへたり込んだ。持たざるものは打ちのめされた。妹が背中から滑り落ちて、地面に投げだされた。
「そうねえ、お金がないなら、じゃあ代わりになにが用意できるの?」
少年はしばらくのあいだ黙って、再び小袋を漁って、震える手でしろい小さな十字架を差し出した。銀ではない、安物の白鑞である。金銭としての価値などほとんどない。無論、財貨の代わりに差し出されたものではなかった。
赤い女の笑みがたちまち消し飛んだ。黒い女は相棒の様子を見て、一拍遅れでそれに倣った。おお見よ、魔性の娘たち! 少年は妹の為にその信仰すら犠牲にしようというのだ。
二人の女は真顔で、お互いの麗貌を見合わせた。
「……じゃあ、なんにもなさそうだから、ぼうやの右腕をいただこうかしら」
少年は懶げに面を起こした。色濃い困惑が見て取れる。
「差し出すものがないひとは、せめて誠意を見せなきゃ。ぼうやもそう思うわね。その子を助けたいなら、ぼうやが、自分で、ぼうやの右腕をちょん切るの。できて?」
「がんばれ、おちびちゃん。これ使ってね」
少年の膝元に鞘がらみの短剣が投げだされた。二人の女はにやにや笑っている。短剣で腕が切れようものか。切れたとして、それが妹を救うどのような手段に変じるというのだろう。
彼のあばらの浮いた小さな背が激しく震えだした。今度は妹の体に代って、この不誠実な女どもの垂らした有るか無きかの一縷の望みで、とうてい耐えきれるはずもない痛苦を結わえたものを、誰の助けもなく負う覚悟を強いられたのである。代わりに負うてくれる親兄弟はすでに亡く、せめて決断の責めを引き受けてくれるものとていない。背後には妹が横たわり、眼前には剣が転がっている。この逡巡すら幼子の精神の耐えるに余った。
「おやり。エミーを助けたいのなら、おやり。でも馬鹿げてるわ。腕をちょん切ったらきっと死んでしまうわ。自殺者の末路は地獄よ」
「馬鹿げてるわ。いたいからおやめ。血がでるよ。血が出たらちょっとちょうだい」
ふたつの朱唇は笑みに歪んでいたが、紫紺の眼はらんらんと少年の挙動を覗っている。少年がおもむろに短剣の鞘をはらうと、嘲りとも嬌声ともつかぬ声があがった。病を疑うほどに震えて、肘の下あたりに宛がった剣の切っ先は乱れにみだれた。
悪魔も耳目を覆え! 名ばかりの神の家は無垢なるものの呻吟と血に満ちた。少年は自らに二度剣を突き立て、三度肉を切り裂き、ために一度骨を咬んで刃は捲れた。数え切れないほどの躊躇と諦念が起こり、同じだけの勇気の発露と奮激があり、それらが物の数にならぬほどの大いなる苦痛が、小さな体を責めさいなんだ。聖堂の床を浸すのは偏に、ただ少年の妹への愛のみであった。
「骨が切れない、骨が切れない」とひとつ叫んで、少年はついに短剣を取り落とした。大量の失血で手足は雪の白きに、おびただしい流血が射るほどに目に朱い。涙と鼻水と涎が糸を引く、伏せられたその面は、しかし益なき自傷行為を悔いる色は見受けられず、ただ愛するものを救い得なかった自責だけに占められていた。
「本当に馬鹿げたこと。ぼうやはわたし達が嘘をついていると思わないの?」
少年は黙ったままである。
「後悔していてね? 本当に愚かしいことよ、ぼうやはきっと後悔していてね?」
少年はなおも黙ったまま、力ない指先で床を探り出した。それが短剣の柄を目指しているのだと判ぜられたとき、二人の女はふたたび卒然と顔を見合わせた。
「リル手伝ってあげて。もう十分」
「わたしほんとうにやると思わなかった」
リルが外套の裾をぱっと撥ねると、そのほそい腰にはいかにも釣り合わない、金で飾られた剣帯が露わになった。太い柄を握って大きく踏み出して、抜き打ちに少年の腕を斬り飛ばす。少年の叫びはごく小さく、鞘鳴りの余韻がそれを隠した。
黒い女が剣を拭う隙に、赤い女は堂に隣る神父の住まいへ飛んでいき、汚れた盆と木の杯と、二脚の簡素な椅子を携えて戻ってきた。
「リリー、ぼうやの口を塞いでいてね」
ジルは忙しげに、エミーの体をあいだにして椅子を向かい合わせに配し、少年の腕を拾って持ってきた杯に血を絞った。少年は朦朧として意識も定かではない。
「おちびちゃんは喋っちゃだめよ。わたしも喋っちゃだめ?」
「喋っちゃだめ、絶対」
腕を盆に乗せ、それをエミーの薄い胸のうえに乗せると、ジルは静かに椅子の片方に腰掛けた。少年の血は止まらず、もはや生きているものの反応はなにも見いだせない。この小さく痩せこけた器のどこに、これほどの血潮が流れていたのであろう。少年を見るジルの瞳に、嘲弄のいろはもはや窺えなかった。
「ぼうや、よく堪えたわ。よく頑張ったわ。よくこれだけの財産をこしらえたわ。――あとは代言人の仕事」
と呟いて、ジルは目の前の椅子に向かって姿勢を正して、着席を促すような手振りを示した。
突然、あやなす色彩窓のキリスト像が粉砕し、入口の木の扉がものすごい勢いで消し飛んでいった。堂内に颶風が起こり、須臾ののちぴたりと絶えた。明かりという明かりが失せた。ジルは乱れた衣服や髪もそのままに、血の杯を膝のうえに乗せて黙然と座っている。
リルが少年の口を塞いで、ついでに自身の口も手で覆った。ジルの対面の椅子に、黒いもやもやしたなにかが漂っている。長い時間をかけてそれは濃くなり、濃くなるだけジルの緊張は目にも明らかにいや増した。
無音の堂内にかすかに、犬がなにかを嗅ぎ回るような連続音がする。ジルがふたたび「どうぞ」というふうにして合図すると、エミーの頭上に集まった黒いもやから、
「どこだ、どこだ」
声がした。ずっと遠くから大声で叫んでいるような、耳に当たる微風のような、ちょっと聞き取りにくい声である。
「…………」
「どこだ」
「…………」
黒いもやはしきりに「どこだ」を繰り返したが、ジルは杯を握ったまま沈黙を貫いた。リルは少年を抱き抱えて、物音ひとつ漏らすまいと縮こまっている。
ややあって「どこだ」は止み、重苦しい静寂が堂内を訪れた。ジルはもやが黙るのを見計らって、持っていた杯をそっと目の前に突きだして、中身をすこしだけ床にこぼした。
もやは「ふーん」と思案するような声をあげた。
「ふーん。のどがかわく」
「…………」
「こどもだ。みおぼえがある」
「…………」
「これにはほんもの――」
「にせもの」
ジルのひと言が絶妙の機で、黒いもやの言葉に被さった。もやはちょっと言葉を切って黙ったあと、
「――をいれておいたから、ふーん、しんでいるわけだ」
感情に乏しい声で言った。
「このこは……にいる。このうではほしいが、このうではとてもやすい――」
「たかい」
「――から、じゅうぶんにつりあう。ふーん。ちもじつにくろい――」
「あかい」
「――あまそうだ。これではきっとおつりはでない」
「でよう」
「どこだ」
「…………」
今度はもやのほうも押し黙る。椅子が細かにがたがた鳴り、嗅ぎ回る音は荒々しい鼻息のようなものに変わっている。ジルは一度ほそく深呼吸をした。吐く息も杯を握る手も震えていた。
「…………」
「…………」
突如、ぐしゃっと音がして、もやの座っていた椅子が粉砕した。もやがぐわっと膨張して、怒れる獅子の唸り声のような声をあげて、ジルの目の前まで迫ってくる。ジルも負けじと椅子を蹴立ててぱっと立ち上がり、もやに挑戦するように指を差した。
「神の忌むべき自殺! 交渉者は地獄へ堕るだろう!」
「神の褒むべき犠牲! 交渉者は天国へ昇るだろう!」
寸分も違わぬ機で、もやの呪いの言葉にジルの言葉が被さった。もやはいよいよ堪えかねたように「どこだ! どこだ! くそ! その不実なあたまを食いちぎってやる!」とわめき散らす。もはや前の微風のごとき声ではない。百匹の獅子が一斉に吼えかかったような、身の毛もよだつ咆号が、すぐ目の前のたおやかな女をなぎ倒さんとばかりに浴びせかけられた。
ジルが目を硬くつむって震えている間に、獅子の咆号は徐々にうなり声となり、鼻息となり、嗅ぎ回る音となって終熄していった。
ゆっくりと目を開けると、すでに椅子のうえの黒いもやはいない。盆のうえに少年の腕はない。エミーの胸がかすかに上下して、木の盆は床に滑り落ちてこんと転がった。交渉は成功したのであった。
「ジル、怖かったねえ」
鞘の鐺をがりがり引き摺りながら、リルが及び腰で近寄ってくる。外套に半ば隠すようにして抱えられた少年は、すでに生き物のいろを失っていた。
「本当に、悪質だわ、ここの神父さまは。あれほどのものを養っていらしてよ」
「エミーちゃんは大丈夫?」
「取引は成功よ。それよりぼうやだわ。ぼうや」
呼びかけられると、少年はうっすらと目を開いた。その面はすでに蒼白である。体中の血のほとんどが抜け出てしまっていながら、しかし少年は平生の通り、ことさらに支障を感じたふうはない。
「ぼうや、エミーが見えて?」
「エミー、エミーを診てくれたんですか?」
少年の問いにはいらえず、ジルはただにっこりと微笑んだ。
「ぼうやが用意したもので、この子の命を、購ったの。ぼうやは本当によくやったわ」
「……よくわかりません。ぼく、お金もってないのに」
「ぼうやの右腕にはね、それだけの価値があったの。ぼうやはたくさん痛い思いをして、たくさん勇気を出したから」と言って、ジルは糸が切れたように床に尻餅をついた。総身の震えはいまだに治まらない。
「神父さまは、お帰りですか?」
「来たけど、また出て行っちゃった。すごい怒ってたよ」と、リルが答えた。
「御礼をしなきゃ」と言って立ち上がろうとした少年の腕を、ジルがやんわりと押し留めた。
「よくお聞き、ぼうや。あの神父さまの中にはね、悪魔がいてよ」
「神父さまに? だって神父さまですよ」
「神父さまだって人間なの。悪魔にあっちにいけ、こっちにこいって言われれば、そうしてしまうの」
少年は目を閉じて、持っていた小袋のなかに手を突っ込んで、白鑞の十字架をそっと握った。少年は素直に驚いた。ついさっき触ったときには氷のようだったのに、どうしたことだろう、今はまったく冷たさを感じないのである。
「悪魔はとても親切に見えるの。ぼうやのお父さんお母さんも、お兄さんも、きっと神父さまに感謝して」
「死んじゃった。死んでいきました」と言って、少年はその幼い瞳に一瞬、淡い叡智の光をきらめかせた。「ぼくも、ぼくも……」
ジルは応えずに、静かな寝息を立てるエミーを見やった。薔薇色の頬。内なる太陽の反射のような血の温み。ああ、懐かしい、憂わしい、輝くその瞳! 彼女が遠い昔に捨ててきてしまったすべてが、そこに横たわっていた。
「おちびちゃんにあげるね」
リルが纏っていた外套を脱いで、エミーの小さな体を丁寧に覆った。外套ひとつでエミーの体を購えたら、どんなにか良かったろう。ジルもリルもそう思っていても、それはついに夢想に終わった。それはまさしく悪魔の所行であったから。
「そうよ、ぼうやは死んだわ。でもこうして動いている。なぜだかわかって?」
少年は無言で首を振った。ついでにリルもそれに倣った。
「大事なことを言うから、よくお聞き。ぼうやはね、わたしを仲介して、悪魔と対等の取引をしたの。悪魔は人間とは絶対に対等な取引はしない。ひと抱えの宝石も、彼らは砂粒ひとつで購うの。そうして、人間にはそれが正当な取引だと信じさせるの。悪魔と対等の取引ができるのは悪魔だけ。悪魔は悪魔を欺かないから。だから、悪魔は悪魔とは取引をしないの」
少年は混乱の極みにあるようだった。「今はわからなくてもいいわ」と言って、ジルは後を続けた。
「でもほんのごくまれに、取引の相場を偶然知りえたひとが、ほんとうにうまく立ち回って、悪魔から価値の高いものを得ることがあるの。そういうひとはね、たちまちに神さまからそれは重いお罰を蒙るの」
「お罰って」
「ぼうやは、いえ、わたしたちはね、天罰を蒙ったから、もうお日さまの下にはいられないの。おいしいものも食べられないし、飲めないの。もう二度と眠くならないし、土にも還れないの。火に当たっても暖かくならないし、春も夏も凍えなければいけないの。どんなに悲しくたって辛くったって、もう涙はでないの。――そうして、そうしてね、そうじゃないひとたちが堪らなく羨ましくて、嫉ましくて、憎らしくなるの」
「ぼくも?」
「ぼうやも。ぼうやはね、もう人間じゃないわ。悪魔のようだけれど、悪魔の法に叛いたから悪魔でもないわ。あるひとは罪人なんて呼ぶわ」
「エミーは? エミーもそうなんですか?」
「エミーは大丈夫。でもぼうやはもうエミーの傍にはいられなくてよ」
「どうして!」と言って、少年は妹の傍らへと這っていこうとした。「いやだ、もうエミーはひとりぼっちなんだ。ぼくがついてなきゃ!」
そう言う口に反して、少年は妹の数歩前で勢いを失った。なにか信じられないようなものを見る目で、妹の顔をしげしげと見つめている。
「ぼうや、ぼうやにはわかっていてね? もうエミーはエミーに見えない。エミーにとってぼうやがさっきまで兄であったのと同じ。ぼうやには今のエミーは妹じゃないの、妹だったひとなのよ!」
少年は泣いた。彼にはもうなにも聞こえないようだった。床を掻きむしって痛哭し、あまりにも受け入れがたい真実に五体十指を振りまわして抗い、転げ回り、あらん限りの声をあげてかつての妹の名前を叫んだ。父の母の兄の名前を叫んで助けを求めた。少年は哭いた。振り絞るようにして流した血の涙は、床に落ちるまえに金の粒となってぱらぱらと散った。
彼の体に残った最後の血の一滴が失われたとき、ようよう少年はその紫紺のまなこを上げた。床に散らばった金の粒――己の命の最後の燃え残りを掻き集めて、少年は自身の垢光りする袋に詰めた。
「エミー、エミーや、さようなら! ぼくはいかなくちゃ! これを持っておおき、ぼくの代わりだと思って」少年はぎゅうぎゅうに詰まった袋を妹の衿にねじ込んだ。「こんなことってあるのかなあ。ぼく、お前があんなに好きだったのに、ぼくにはもうお前の顔がわからないんだ!」
赤い女と黒い女が少年の肩に手を置いた。じきに日が昇る。神の家を発つときが来たのである。
「ぼうや、お別れは済んで?」
エミーは黒貂の毛皮にくるまって寝息を立てている。少年はまるで落としてしまった自分の命を探すようにそれを眺めていたが、ややあって「はい、もういいです」と言った。
「神父さま、帰ってこなかったね」とリルが言った。
「これからどこへ行くんですか?」と少年が聞いた。
「陽のないところ。月のあるところ」とジルが言った。
「そこはちょっと暗いかもしれないけれど、歓迎してくれるものはきっとあってよ。わたしたちの仲間もいる。そこでもし気が向いたら、ぼうやにそうしたように、わたし達のかつての仲間たちを助けてあげましょう。それは大きな代償を伴うけれど、きっとお互いに後悔はしないわ。ぼうやは後悔していて?」
「ううん、後悔してません」
「ぼうやの名前は?」と言って、ジルは少年を抱きしめた。
「エルクっていうんです」
「そう、エルク! あなたを歓迎するわ」ジルもリルもにっこりと笑って、そうして二人でまったく同じ文句を口に上した。「そしてようこそ、われらがコッレギウムへ。小さな叛逆者よ」
翌年の春、ローンドロープに新しい神父が赴任した。
前任者は謎の怪死を遂げている。胴体と右腕以外のすべてを切り取られた無惨な姿で、彼は半月後に村人に発見されたのであった。
加害者は杳として知れず、ただ彼が死後握っていた、遺留品と思しきものの一点が残るのみである。粗悪な鎚打ち貨幣ではなく、周到に鋳られた一枚の金貨。ピザンティン金貨より二回りも大きいそれには、ラテン語でこう記されていた。
Da dextram misero――哀れな者に救いの右手を、という意味である。
ローンドロープ→ローンドロップ→ローンドロップス→ローンレイン→ひ○り雨。
書き終わってみれば、なんだか原作からかけ離れた代物となってしまいました。屋台骨は代えずに仕上げたつもりです。でもあくまでつもりなんで、うん、仕上がってません。
まず原作の舞台設定からして根底から変えちまいました。原作にビルやライトや手術台(と思しきもの)が出てきたので、「こら近代物だべな……」と思っていたのですが、なんとリル女史が剣を持ち出したじゃありませんか。「アーラこんオナゴおらがタイプだべさ。こったらモン振りまわしてえ」てなもんです。ビルさん、ライトくん、手術台氏には申し訳ないことをしましたが、「剣が出てきてもおかしくねえ設定にすっぺ」との判断により、思い切って中世代のイングランドを舞台としました。名前もジルリルはそのままですが、エクスをエルクに、エミリアをエミーに変えてあります。
短編は初めて書いたのですが、一番きつかったのは字数制限! なんとかこうとか形にはしましたが、言葉を削った部分も多く、ルビも最低限しか振れなかったので、かなり読みづらいものになったかもしれません。多分に憾みの残る作品となりました。
最後の「コッレギウム」は組織とか組合とかを表わす言葉です。組織なんて書くといささか陳腐になるので、あえてそのまま書いたんですが……それにしても、あんなのがあとどれくらいいるんでしょうね。
聖トマスやらアグネスやら時課やらというタームは、説明していると自己満足に終わる恐れがありますので、単純にキリスト教の風味として聞き流してください。
最後に、原作者のひとり雨さんにはある意味申し訳のない仕儀となったような気がします。もし原作を大きく歪曲したことについて、ひとり雨さまが不快感を覚えられた時の用心に、先手を打ってお詫び申し上げます。また原作を練習作として転用させて頂いたことについて、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
かしこ