第5話 元勇者、気合いを入れる
ボクが保護されたミッケ村は湖岸に位置した村であり、湖はシイアー湖といって、とても大きかった。
この国の首都に近いこともあって、村にはいつも活気がある。
早朝の陽光がきらきらと反射する湖を眺めるのは、ボクの日課となっていたし、開店前に店まで駆けていくボクと村のみんなが挨拶するのも、これまた日課となっていた。
宿屋『白うさぎ』に戻ると──ボク目当てらしい──お客さんが既に座っている。
彼らに挨拶をして働いていると、新たなお客さんを知らせる鐘が鳴った。
「いらっしゃいませ~」
いつもと同じように、いつもの挨拶をして、息を飲む。
来客である二人の女性は、武器を持っていたのだ。
腰に剣を携えてはいるが、それでも騎士や戦士ではない格好。
ボクはこのような格好の者たちを戦場で見たことがあった。
冒険者。
魔物の対策を専門にしている、なんでも屋。
戦闘のみを専門にしている者もいるが、本来の仕事は名称の通り──冒険である。
世界中の隠された秘宝や財宝、武具などを探し求める夢追人。
そんな彼らではあるが、実際は大半の冒険者が商人の護衛などをおこなって生計を立てている。
そんな女冒険者が二人。
ボクを捕らえに来た──なんてことはなく、普通に席に座って普通に注文している。
そもそも捕らえられる謂われなんて無いんだけど。
「じゃあ魚の香草焼きと蜂蜜酒を」
「私も同じの」
「か、かかかかかかしこまりあしたー」
動揺しつつ厨房に振り向くと、背後で声が聞こえた。
「今回の依頼、どう思う?」
「討伐依頼でスライム……なんてねえ」
厨房に注文を伝え、しばらくすると昼休みになった。
オッロさんも一段落した様子で酒を飲み始める。
「オッロさん」
「ん、どうした?」
「この村の近くにスライムがいるって聞いたんですけど」
その言葉を聞いた瞬間、一階にいる村人全員の顔が曇った。
「えっ、どうしたんです?」
「あのスライムは、なぁ……」
「あれは……ちょっと、ね」
「そうだねぇ……」
周りの人の口々からやたらと暗い息が漏れている。
老若男女誰もが暗い顔で暗い言葉で、うつ向いていた。
(スライムってあのスライム……だよなぁ。でも、この雰囲気……)
スライムなんていうのは、ぷよぷよとした最弱の魔物なのだ。
子どもでも倒せるような存在だと、勇者であった頃に聞いたことがある。
たしか、せいぜい穀物を襲うネズミと同程度の、害獣だって。
(そういえばボク、スライム見たことないや)
勇者だった頃の思い出せる記憶というと、魔界などとも呼ばれる魔族領の奥深くに侵入したこと。
大戦で戦っていたこと。
それ以前の記憶があまりなかった。
だからこそスライムなんていう平凡な魔物は直接見た記憶がない。
出会ってきたのは、スライムなどよりも遥かに危険で、遥かに異常な者たちだった。
(んあー)
ボクは腕を組み、眉間にしわを寄せて考える。
(そ、そういえば、姫の顔すら覚えてないんですが……?!)
顔面をカウンターテーブルと一体化する程にごつんとぶつけた。
(……まぁ、仲間の顔が思い出せるだけ……よかったのかな……)
魔王討伐後に無事に帰還していたらどうなっていたのか。考えるだけでも震えが止まらない。
「おねえちゃん」
肩をつつかれた。
見ると隣に座っていたミッラが心配そうにこちらを見ている。
「おねえちゃん、だいじょうぶ? また、きおくそうしつ?」
「いや大丈夫。……あのさ、スライムがどうかしたの?」
「えっとね、もりにスライムがいるんだけど、とってもつよいの。すっごいあばれるからみんなめいわく、してるんだあ……」
「倒せないの?」
「たくさんでいくと、にげちゃうの。ひとりでいくと、まけちゃうの」
「なるほど」
んー、と考えてボクは椅子から立ち上がった。
スライムが村の人々に迷惑をかけている。
ミッラとオッロさんに助けて貰わなければ、ボクは死んでいただろう。
村の人たちも、よそ者であるボクに優しくしてくれている。
なら、
「ふふん、ボクに任せといてよ!」
昼休みは始まったばかり。
ボクは二階の、借りている自室に向かった。
リュックの中からアーカーシャの剣──なんて御大層な名前の癖に、剣よりも短くナイフよりは長い、中途半端な両刃の『剣』を取り出す。
いつの間にか入っていたベルトを腰に回し、そこにナイフを装着した。
「あれって現実だったのかなぁ……。とにかく、村のみんなに少しでも恩返ししなきゃ、ね」
やる気を入れるために独白するとパシンと両頬を叩いてボクは村を出た──。
スライムとは温厚、あるいは無力な生き物である。
人里が近くとも、その辺をぽよんぽよんと飛び跳ねている魔物だ。
人間を襲う、など考えられない。
彼らはあまりにも弱いのである。
それこそ幼女が木の棒を降り下ろせば、弾け飛ぶほどに。
そしてスライムの体液は回復薬の材料となった。
体液自体にも弱い回復効果があるので、風邪薬などの常備薬として乱獲される時期もある。
それでも絶滅など、しない。
無数に存在するからだ。
スライムたちは知能もなく、知性もなく、戦う──などの概念も存在しない。
回復薬に使えるから。薬になるから。
人間の利になるからこそ、穀物や畑を荒らすスライムを誰も殲滅などしないのである。
まるでただそこにいるだけ、道端の石のように。
人は彼らを見てはいるけれど、本当の意味で──視てはいなかった。