第2話 元勇者、助けられる
沈黙。
もはや大地と一体化したように、うつ伏せになったまま動けなかった。
森は静まり返って小動物の吐息すら聞こえ、彼らは彼らで珍入者を一目見ようと枝や草木の後ろから覗いている。
ボクはというと、打撲やら裂傷やら、もろもろの負傷で苦しんでいた。
ぐぅ……とむなしくお腹が鳴る。空腹も追加だ。
「おねえちゃん、おなかへってるの?」
幻聴だろうか、幼女のような声が聞こえた。
「……」
「……しんでる?」
木の枝でつつくのはやめて欲しい。地味に痛い。
ただ、幻聴でも幻覚でも無いのがわかった。
「一応、生き──」
「ぱぱぁああああああああああああ!!」
失敗した。もう少し言い方があったのかな。
(こんな死にざま……いやだなぁ……)
しばらくするとふたたび声が聞こえる。「パパ、おねえちゃん死んでないよ」とか。
身体が宙に浮いた。
天に召されたにしては苦しい。まるで小脇に抱えられているような──。
「……あれ? ここ、どこ……?」
次に目を開けると、ベッドの上だった。
窓から入ってくる光は茜色で、まるで光の筋が降り注いでいるように美しい。
──ガチャリ
と扉が開いて小さな女の子が入ってきた。手には湯気が出ている桶を持っている。
「おねえちゃん、おきたの?」
「う、うん。あの……君はだれ?」
「ミッラだよ!」
「えっと、君が助けてくれたの?」
「あばばばばってへんなこえがきこえたから、いったの。ぱぱがうちまでつれてきていいよって、いったの!」
幼女は桶を机の上に置くと、中に手拭いを入れて絞り始めた。
楽しそうに笑っている顔が見える。
「おねえちゃんどろどろだから、あらってあげるね!」
服を脱がされて顔や身体を生ぬるい手拭いが洗い流していく。
そのあいだに記憶を探った。一体、なにが起こっているのだろう。
(覚えているのは……魔王の、顔)
いたずらっぽい笑顔を最期に、光に包まれた。
そしてボクは花畑の中で目覚めたのだ。
赤白黄色、色とりどりの花々の中央で、最初から眠っていたかのように。
それから辺りをさ迷っていると道路に出て、馬車に乗せて貰った。
(馬車での会話を信じるのなら……あれから十年)
凄まじい奇跡だ。
「おねえちゃん、はいっ」
ミッラが小さな鏡をこちらに向けてくれた。
写し出されたのは、色鮮やかな銀糸のような髪。
宝石のような紫色の瞳と、それらに見劣りしない典雅な顔。
(……か、かわいい)
机の上には畳まれた枯草色の──ぶかぶかなので裾が太ももにかかる──麻服と黒ストッキングがあった。
ベッドの脇に置かれた靴なんてゴツいブーツだ。
違和感が半端ではない。
(女の子に生まれ変わった……のかな。それにしては十代前半、両親とかも見当たらなかったし、どうことだか)
ミッラはボクが動かない間も、懸命に身体を拭いてくれた。
「おねえちゃん、きれいになったよ! おくすりもぬってあげるからね!」
桶を持つと、彼女は器用に扉を開けて部屋を出ていく。
「ありがと」
小さな背中に感謝を告げる。
ボクはベッドの脇に置かれていたリュックを手に取った。
(ブーツも変だけど、リュックも……さすがにおかしいって)
手探りで中を開けてみると、ナイフが見えた。
「これ、ボクのかな? ……そういえば」
今までにも何度か死んだことがある。気がした。
思い出そうとすると、まるで昨日の食事を思い出すように、断片的な記憶がよみがえる。
一度目は──そう、暗い夜だった。
◇
深夜。
曇天が星々を覆い尽くして不気味に蠢く空の下、漆黒の荒野を一台の馬車と、それ守る四騎が走っていた。
「……大丈夫か?」
馭者の男が車内を肩越しに覗く。
備え付けられた魔石灯が暗闇の中に淡く輝き、車内、そして幼子と美女の姿を照らし出した。
「はい。でも、ルカが起きてしまったようです」
高く優しげな声。
車内に座る女性はドレスを身にまとい、腕には幼子が抱きしめられている。
幼子の名をルカ・ルーファンと言った。
今日、五歳になったばかりの男の子は、何事かもわかっていないような困惑した表情で辺りを見ている。
「きゃああああああああああああ!」
闇の中、突然の若い女性の叫び声に母の抱きしめる力が強まった。
「クソッ! シェラを放しやがれ!」
続いて聞こえたのは男性の怒号。
馬車の後方からと思われるそれらの声、その中には馬のものと思われる断末魔の嘶きも含まれている。
「ルーファンさま、これ以上逃げても追いつかれます。どうか、あなた方だけでもお逃げください!!」
馬車の窓から見えるのは並走する、残り二人の騎士の姿。
命を懸して主人を守るという明確な意思には恐怖などは微塵も無い。
「だがそれでは……」
「──へっ、どうせ死ぬならカッコよく死なせてくれって!」
ひとりの騎士が言う。それは主従の関係ではなく、友としての言葉だった。
「そうね。それに、マーカスとシェラの仇を取ってやらないと!」
女騎士が口元を緩ませて懸命な作り笑いをしている。
ライルと呼ばれた馭者の男は唇を噛み、にじみ出る血すら噛み締めて、意を決した。
「……任せる。奴らをぶっ殺せ」
「「──はっ。御武運を!!」」
二人の騎士は馬の踵を返し、後方の闇へと突撃する。
その姿は既に見えない。
雲の隙間からは蒼白い月明かりが辺りを照らし、馬車の小窓からは暗闇に煌めく幾つもの銅色だけが浮かんで見えた。
地上近くで光る星々は、まるで流れ星のように、騎士たちを目掛けて一斉に飛びかかり──
母はキュッと、腕の力を強くする。
「……ブラックホーン」
それは恨みを込めたような微かな声。そして、
「二人は……騎士として立派でした」
悲しげな言葉だった。
「ハンナ、ジェフ……ちくしょう。マルセロの野郎! 親友だと信じていたのに……」
「ライル、神さまはすべてを見てくださっているわ。このようなこと……お許しになられるはずがない」
「あぁ。そうしてくれないと、彼らが浮かばれない」
悲しみを吐き出すように言い終えた瞬間、馭者の男──父さん──の姿が掻き消えた。
それは一瞬の出来事であり、それでも幼子の目にはその一部始終が確かに見えている。
馬車を追っていた獣、ブラックホーンと呼ばれる黒い獣が右側から現れ、父を拐ったのだ、と。
「──ライル!?」
母の叫びと同時に、馬車は横からの強い衝撃を受けた。
あっという間に横向きに倒されて勢いのままに転がり、馬車は荒野を滑っていく。
強い衝撃が収まった時には全身に鈍い痛みだけがあった。
幼子──ルカは目尻に涙を溜めて、母を見る。
優しげな美しい顔には一筋の赤が流れていた。
砂塵舞う荒野を月明かりが照らし出す。
月影に現れたのは馬のように大きな猫科の生き物。艶のある黒の毛に全身を覆われている姿は、真っ黒の虎のようだ。
そんな獣が、馬車を取り囲んでいた。
「私たちが死んでも、ルーファン家の血は絶えない。絶えたりしない!」
凛とした鈴の音色のような声が夜闇に響く。
黒の獣は唸りをあげた。
「ルカ、私が守ってあげるからね?」
母は腰の短刀を抜き、前に構える。
無惨にも壊れている扉を押し開け、悠然と進んでいく。
幼子は目を閉じた。
──その光景を見たくなかったから。
幼子は耳を押さえた。
──その音を聞きたくなかったから。
しばしの時が流れた。
ルカがゆっくりと目を開けると、そこには魔石灯に照らされた黒い顔があった。
生々しい朱に濡れた牙が、怯える幼子の姿をありのまま、写す。
「なんで、こんなことに……」
幼子、ルカ・ルーファンはただ瞳を閉じることしか出来なかった。
◇
それが、初めての転生だった。
両親を失った悲しみ。
捕食される恐怖。
勇者となる前に──妖精に転生して魚に食べられる──捕食された経験があるけれど、今は語るまい。
廊下にいるであろうミッラの声が聞こえた。
「ぱぱぁ」
「どうした? 薬は塗ってあげたのかい?」
「あのね、おねえちゃん、おちんちんが付いてたよ」
「……は?」
ボクはシーツを持ち上げて股間を確認する。
「……はっ」