怖い夢
「マキ。最近、怖い夢とか、見てる?」
「怖い夢?最近仕事で疲れてるから、ほとんど見てないんじゃないかな」
「俺さ、ときどき、崖から突き落とされかけたり、運転していて事故りそうになったり、乗ってた飛行機が墜落しそうになったり、なんだかわからないけどパニックになって、汗だくで目を覚ますことがあるんだ」
「マジ?ナオ、疲れ過ぎだって」
「いや、実はさ、怖い夢を見たときの共通点があるんだ」
「え?どんなの?」
「俺、無意識のうちに胸に手を当ててたらしいんだ。心臓に近いところに手を当てて見た夢は、どうも怖い内容になるみたいなんだよ」
「科学的根拠ってあるの?」
「うーん、それは良くわからないけど、夢の世界で自分がいるとするじゃん?無意識のうちに、自分を守ろうとするなにかが働いているんじゃないかな。その前段階として、心理的に自分にとって怖い出来事が夢の中で展開しているんだろうと思う。崖に立ってて、誰かに突き落とされそうになって、必死に逃げ回ってる、みたいな。
で、それに気付いて以来、できるだけ手を伸ばして、胸付近に手が当たらないようにしてる。うんうん唸って、マキに迷惑掛けたくないからさ。どうせ見るなら、楽しい夢ばかり見てたいしな」
「ナオ。私がもし怖い夢見ててうなされてたとしたら、私の手を胸から離してくれるよね」
「もちろんさ。マキのことは、俺が体を張って守ってやるよ」
友人の紹介で真剣交際を始めて六ヶ月。特に秀でたところのない、ごく平凡な男だが、一緒に住み始めて気が付いたのは、男にしては珍しく素直になんでも話してくれるナオの純粋さだった。今のところ、マキの歴代の彼氏の中では断トツの優しさなのも高得点だ。
誰も読んでもいないのに向こうから駆け足でやってくる三十路、という現実を前に、マキはこの人の妻も良いかな、と思い始めていた。
「うーん、うーん…」
マキの隣でナオが苦しんでいる。その声で目覚めたマキは、ふと、ナオの胸に目をやった。案の定、左手がナオの胸に当たっている。どんな怖い夢を見ているのだろうか。
「寝返りをうったときに、無意識に手が当たっちゃうのよね」
マキは、苦しんでるナオの左手をゆっくりと、胸から離してあげた。
「ムニャムニャ…」
夢の内容が変わったのだろうか。ナオの額から汗が止まり、徐々に表情も柔らかに変わっていった。
人は、その日に見た夢の内容を、目覚めたらほとんど忘れていく、という。何故なら、次の夢を楽しく見ることができなくなるからである、という理由が定説だと言われているが、定かではない。どれだけ楽しい思い出も、夢の世界ではほんの一瞬の記憶に過ぎない、記憶を留めておくことのできない、悲しくも切ないものなのだ。
その日以来、マキは胸に手を当てて眠ることはなくなった。マキもときどき、怖い夢を見て目を覚ます日がこれまでもたびたびあったのだ。でも、今後のパートナー候補であるナオに胸の手のことを教えてもらうまで、その原因は単なる疲労だろうと思い込んでいたのだ。
「ナオ、案外優しくて頼りがいのあるパパになってくれるかも知れないな…」
「ミホ!ミホちゃん!明日は遠足でしょ?いつまでテレビ観てるの?」
夕食の後片付けをしながら、テレビの音声にかき消されないように、マキがひとり娘・ミホに大声で注意している。
「ママ~。ミホね、昨日ね、怖い夢見たの。おっきい象さんが、長~いお鼻をこ~んなに伸ばして、ぐるぐる巻きにしてミホを連れて行こうとするの」
「ようし。今日はパパと一緒に寝よう」
ナオとマキは、今日も二人の間で、三人で川の字になって眠り始めたミホの寝顔を、幸せそうに見守っている。
二人は、大切なひとり娘・ミホが怖い夢を見ないように、誰に似たのか寝相の悪い彼女の両手を、胸より上に行かないように、ナオは左手を、マキは右手をそっと、降ろしてあげた。