1.ユカとユイカ
僕の愛した女性は僕たちの娘を生んだ時に亡くなった。彼女は昔から体が弱かった。学生の頃もしょっちゅう病欠の彼女の代筆をしたものだ。そんな彼女と僕との間に子供ができたと分かった時は嬉しかったけれど、体の弱い彼女に生ませても良いのか、散々二人で悩んだ。結局彼女が強く子供が欲しいと言ったから、彼女のお腹に宿った女の子を産んでもらうことに決めた。
妻の陣痛が来る一週間前、仕事から帰って二人でご飯を食べ、僕と彼女は一緒にテレビを見ていた。お腹を撫でながら隣に座っていた彼女は、座っているのに疲れたのか僕の右の腕にもたれかかって来た。
「シュンくん、この子の名前を決めておきたいのだけれど、何か考えてる?」
「そりゃもちろん!お前のユカって名前に少し付け足して、ユイカってのはどうだ?ユカのように可愛くて、優しくて思いやりがある女の子になればいいなって」
「…もう、ズルいよそれは。でもそれだとシュンくんが呼びづらくて大変じゃないかしら?」
「俺が間違える?そんなわけあるっか、っての」
そう言って僕は空いている方の手で軽くユカの頭をチョップした。それから彼女の頭を撫でて、そのまま顔から首、小ぶりな乳房、そして大きくなったお腹へと手のひらを優しく下ろしていく。彼女のお腹を撫でると、確かにお腹の赤ん坊の動きを感じた。
「うぉ、結構動いてるんだな」
「ふふ、早くお父さんとお母さんに会いたいんだって」
「そうかー。ユイカは早くユカに会いたいのかー。俺も早く二人をまとめて抱きしめたいぞー」
ほら、やっぱりその名前じゃ分かりづらいわ。という彼女の言葉を打ち消すように、僕は柔らかい唇を塞いだ。
「大変、申し訳ございませんでした!!」
僕たちの子供を取り上げてくれた産婦人科の先生は、もう何度目かの悲鳴のような謝罪の言葉を僕に向かって言っていた。しかしその時の僕にそんな言葉は耳に入ってこなかった。
「ユカが…死んだ?」
途切れそうな意識の中で、僕はその言葉を何度も繰り返す。妻は出産中に突然意識を失い、子供を産んだ後にそのまま亡くなった。最期の言葉は「じゃあ行ってくるね」。今生の別れの言葉でさえ僕は彼女に贈れなかった。
目の前で泣きはらしたこの女の先生を責める気は無かった。ただ危険だと分かっていながらユカに無理をさせた自分を、殺してやりたいという気持ちになっていた。
妻の葬式で、僕は彼女の父親にボコボコに殴られた。そして怒られた。お前がユカを殺したんだ、このヒトゴロシ……と。妻と一緒に実家に帰った際には「よく来たな、酒でも飲むか」、と優しく笑っていた人が僕に対して本気で怒っていた。でも義父の言ったことは事実だったから僕は目の前が自分の血で真っ赤になって見えなくなるまで殴られ続けた。今自分がぼろ雑巾のようになっていて、このまま死んでもいいかな、そう思っていた時にようやく義父の拳が僕を殴るのを止めた。薄く開いた目に映ったのは土下座して義父に謝る僕の父と母、そして義父の拳を必死に押さえて泣いていた義母だった。その義母の胸には僕たちの悲しみも知らず、生後数週間の娘はすやすやと眠っていた。悲しみや苦しみも知らない安らかな顔は、僕の最愛の人にそっくりだった。
ぴぴぴ、ぴぴぴ……
朝5時にセットしてあった目覚まし時計が控えめな音で僕の起床を促す。しばらくベッドが出るのを渋っていると目覚まし時計の音は段々やかましくなっていった。いつまでもベッドの中にいる訳にもいかないから10数えて飛び起きよう、と僕は決意した。
いち、にー、さん……
……はち、きゅー、じゅっ!
よしと気合を入れて起き上が…、れなかった。僕の体は何者かの拘束によって動きを封じられていた。
「な、なんだ?」
掛け布団を慌てて引っぺがすと、白い下着で大事なところだけを隠した少女が、僕を抱きしめてすーすーと眠っていた。道理で体が重たいわけだ。冬は確かに布団を何枚も重ねて動きづらくなるが、最近暖かくなって布団の数を減らしていたのだ。この重さは春用の掛け布団ではなかった。僕を抱きしめた少女は布団を引きはがされたのに気づいたのか眠たそうに目をこすって僕の方を見上げた。
「ん~、シュンくん?おはよ…」
「おわっ、ユイカ!?どうして俺のベッドに?」
「妻が夫と一緒に寝るのは普通でしょ?それなのに昨日もシュンくんが先に寝ちゃうから…」
不思議そうな顔をした後、残念そうな顔をする娘のユイカに、僕は頭を押さえながら否定する。
「いやいや、ユイカと俺は親子だからな。お前のは普通じゃないから。自分の部屋があるんだからいい加減一人で寝なさい」
「…」
「…?」
「…もしかして浮気?」
「は?」
「浮気なんでしょう!?自分は誰かと床を共にして。だから私に一人で寝ろ、なんて言うの。きっとそうなんだ!」
「いや、床を共にって」
ユイカは1人で浮気だ浮気だと叫び続ける。甲高い彼女の声はたちまち僕の眠気を吹き飛ばしてくれた。その代わり頭の痛さは刻一刻と強まってくる。
「わーわー、分かったから落ち着け。俺は浮気なんてしてないし。というかお母さんいなくなってからも一度だって誰かと付き合ったりもしてないって知ってるだろ!」
「…そっか。そうだよね、シュンくんが浮気なんてするわけないもんね」
「いや、まあなんだろう。納得してもらったのならよかったよ。というかユイカ、お父さんのこといい加減シュンくんは無しにしないか?」
「まあ、ずっとくん付けだったけど、夫婦のマンネリ化対策?もうシュンったら、ふふ」
「いや、呼び捨てってことじゃないから…」
一人娘のユイカは自分のことを母の生まれ変わりだと信じている。僕の妻であるかのように振る舞い、挙句誘惑さえしようとしてくるのだ。子供のころは「お父さんと結婚するー」という言葉が無性に嬉しくて、将来娘が誰かのものになることを密かに怖がってもいた。少し過剰すぎると感じるスキンシップも可愛いものだった。しかし高校生になっても変わらずこうして一緒のベッドで寝ようとして、風呂にまで侵入してこようとする娘が最近少し、怖い。
手足は伸び、胸が膨らんで、女性的な体つきになった、少女と女性の中間にいるユイカが何を考えているのかが分からなくなってきたし、そんなユイカを自分が女性として見てしまいそうで怖い。本気になりそうで怖い。今もたわわな胸が当たって少しドキッとした。しかしそんな邪な気持ちを娘に悟られてはいけない。僕は彼女の肩をそっと押して起き上がる。半身を起こした僕のことを上目遣いで見つめてくる半裸のユイカを、艶めかしいと感じそうになったのを気のせいだと思い込んで娘を急かした。
「ユイカ、いつまでもベッドで俺に甘えてないで、早く支度してきなさい。俺もそろそろご飯作るから」
「うん。分かったよシュンくん」
「それと、シュンくんじゃなくてお父さんだから」
もう、シュンくんは照れ屋だからと、ソプラノの声で朗らかに笑って彼女は僕の部屋を出ていった。さてと僕も朝ごはんを作ろう。部屋のカーテンを開けると、ちょうど太陽が顔をのぞかせるところだった。窓を開けて朝の涼しい空気を胸いっぱいに吸い込んで、僕はキッチンへと向かった。
「私はシュンくんのことを愛してる(男性として)」
「俺もユイカのこと愛してるけども(娘として)」
僕の娘は、最愛の妻の生まれ変わりらしい…。