一、肌を這う蟲
気味の悪い小さな虫が、体の上をぞろりと歩く。
そんな感触が脳裏を巡る。
──あぁ、また、
それは幼い子がむずかるように、その感触を追い払おうとした。
しかし、硬く拘束された手足は決して動かない。
どれだけ力を込めても、遥か末端にある無数の指先が僅かに震えるだけだ。
これでは、煩いものを追い払うこともできない。
硬い昏い大地の底で、それは苛立ちを募らせる。
どうして目を覚ましてしまうのだろう。
地に落ちたあのとき、もうこれでおしまいだと思ったのに。
もうこれ以上、どこにも行きたくないし何も見たくないししたくもない。
なのに、どうして。
虫のように蠢く気配は、遥かな砂の上を歩く生物のものだ。
頻度もそう高くはない。
百年に一度、あるかないかだ。
しかし、生物の気配に聡い躯はそのたびに、それの眠りを妨げる。
ただ眠りたいと願うそれを揺り起こして、重い声で命じるのだ。
殺せ殺せ。
全て殺せ。
大小あまねく等しく殺せ。
地を這うものに駆けるもの、荷を引くものを連れたもの。
全て殺して無に返せ。
僅かに震える指先が運良くそれらを潰しても、昏い呪言は止むことがない。
まだ居る筈だ。
探せ探せ。
全て殺せ。
どれだけ声が言い募ろうと、探しに飛び立つことなどできはしない。
泰山よりも重い鎖がこの身を縛っていることを、それはよく知っていた。
そしてその鎖が、ただ一つの救いであることも。
──それはひどく遠い昔。
それが人として生まれ、大陸全土を焼いた戦乱の中、ただ生を求めた結果だった。
殺せ殺せ。
生きるもの全て、
動くものも全て。
排除/殲滅/蒸発させろ。
──それがお前の理由なのだから。
昏い声に神経を焼かれながら、それは地の底でただ嘆く。
──あぁ、どうして。
あのとき、手を伸ばしてしまったのだろう──
* * *
砂の海を横切ってきた巨大な龍は、抱えてきた少年と狼を地面に降ろして丁寧に短い両手を組んだ。
「……では、私はここで。冬至の報告のため迎えには来られませんこと、どうかお許しください」
「おう、世話になったな。帰りは俺が駆ければいい話だからな、大事ないぞ」
「遠くまでの御足労、感謝いたします。……もし老狼だけが戻ることがありましたら、この場には再度の封印を」
「承知しました。怜乱殿、大神公、ご武運をお祈りしております」
巨大な龍はもう一度深く頭を下げて身を翻す。
たちまちの内に小さくなる龍の尻尾を見えなくなるまで見送って、怜乱と呼ばれた少年は背後の盆地を見渡した。
「まさか、こんなに何の目印もない場所だとは思わなかったよ」
どこか呆れたように呟き、隣に立つ狼の顔を見上げて肩を竦める。
そんな少年に、狼はにやりと笑みを返した。
「探しに行かなくて良かっただろう?」
どうしても行くと言って聞かなかった相棒をからかったつもりの狼に、少年はひどく真面目な顔で頷いた。
「この炎天下であれだけの結界を突破するのは、さすがに無茶が過ぎるね」
「音を上げて帰るにしてもちと遠いからな」
「熱が溜まって機能停止が先かも」
「それは大事だ」
軽口を交わす少年と狼の眼下には、広大な砂の平地が広がっていた。
二人の足元から緩やかに下った斜面は、再び盛り上がることなくどこまでも水平に伸びる。
左右はと目をやれば、砂丘の頂上は僅かに曲線を描いて地平まで連なっていた。
「……広いね」
「人避けにはそれが一番だからな」
「道理だ」
狼が口にしたとおり、この場所は人の歩ける路から遠く離れた場所だ。
ここから一番近い交易路ですら、歩けばゆうに十日はかかる。
その距離を歩いて渡ることに少しばかり思いを馳せて、少年は僅かに肩を竦めた。
「しかも、ここから中央部までも三十里と少しあるんだよね」
「と、いう話だったな。多少寄り道しても四半刻もかからん距離だが、どうする?」
「日付が変わるまでは間があるからね。とりあえず使鬼を飛ばすよ」
駆けるかと問う狼に首を振り、少年は二十枚ほどの紙を無造作にばらまく。
彼の髪と同じ白銀の色をした紙は、形を変えながら放射状に散っていく。
低くなった陽射しを背に受ける小鳥たちを見送ってしまえば、あとはあれらが戻るまでできることもない。
それを知っているおしゃべり好きの狼は、耳をそよがせながら眼下の平地を見渡した。
「しかし、あの中には何がいるんだろうな?」
「隷巴公もそこはでは知らないってさ。老狼こそ心当たりとかないの」
「これっぽっちもないな。ここにこんなものがあるなんてのも初めて知ったくらいだ」
「そうなの? 老狼なら──」
口を開きかけた少年が、不意に言葉を切る。
警戒を露わにした相棒の白い頭を見下ろして、狼は首を傾げた。
「どうした」
「使鬼の反応が消えた」
それ以上の言葉は返ってこなかった。
ただ無言でばら撒かれた紙から、先程に倍する数の鳥が飛び立っていく。
飛び去る使鬼を目で追いながら、狼は少し考える。
少年が飛ばす使鬼は、機能としては至極単純なものだ。
おおよそ決められた軌道で飛び、視界に映るもの全てを納めてくる斥候。
旋回待機し術者の指示で設定された攻撃を仕掛ける、文字通りの飛び道具。
それ以外には、現在地を知らせ障害物を避ける程度の機能がある程度だ。
さらなる機能を求めるならば、相応の手間と精気が必要になる。
少年が腹立たしげに髪飾りの筆を引き抜いたのは、飛ばした使鬼の数が百を超えた頃だった。
懐から引き抜いた紙を見つめ、そして一気に筆を滑らせる。
珍しく紙面を二度往復した筆先が描き出したのは、一度目は複雑な紋様だ。
筆先の毛一本で描いたような繊細な線が、全体としては別の模様を形作っている。
文字にも見える模様を覆うように描かれるのは、羽を広げた隼だ。
一息一枚の速度で五枚描き上げて、少年はそれを空に投げ上げる。
ふわりと舞った白銀の紙は、放物線の頂点でくるりと半回転して姿を変えた。
紙の端からいくつもの切れ込みが入り、瞬く間に厚みを増しながら頭と尾、そして翼を形作る。
色のない翼を蜂鳥のように振るわせ急加速する使鬼を見送りながら、狼は相棒の白い頭に声を掛けた。
「怜乱よ、あれは何だ? いつもと違ってえらく手が込んでいるように見えたが」
「普通の使鬼をいくら飛ばしても戻ってこないから、銘を入れて強度を上げたんだ。遠見の術式も一緒に入れているから、ちょっと見てくる」
説明の言葉を口にして、少年が目を閉じる。
直後、陽が落ちかけて暗くなってきた空に、細い光の筋が走った。
それが続けて二度、三度。
少し遅れて、狼の耳に微かな金属音が届く。
隕石が龍の鱗の上を滑るようなその音に、狼は訝しげな声を上げる。
「──何だ、あれは」
「何これ、とんだでたらめじゃない」
ほぼ同時に、ぱっと目を開いた少年が忌々しげに舌打ちをする。
「何があった?」
問い掛けた狼には答えず、少年は無言で前に手を伸ばした。
細い手が、ようやくといった体で戻ってきた使鬼を掴む。
両翼の先を摘んで広げられた使鬼には、無数の穴が穿たれていた。




