7/9 提案
「────────こんなところにいて、何をする気なんだ」
長い沈黙の末、狼がやっと口に出した言葉はそれだった。
少年は狼を見上げたまましばし黙考し、薄い唇を開く。
「飛龍、という画師を知っていますか」
「心当たりはないな」
首を傾げる狼に、尤もだと言わんばかりに少年は頷いてみせた。
「そうですか。
僕は先程、あの方の『後』に封ぜられました」
ざわざわとさんざめく木々の葉音にかき消されてしまいそうな声は、だが妙に狼の耳に残った。
少年は続ける。
「人に害なすものを封じ、この地が平面になった原因を狩りに。
過去の者たちが戯れに創り出したものを無へと、封じなければなりません。
──ですが、その前に」
無表情に発せられた言葉を理解するのに、狼は少しばかりの時間を要した。
その間に、少年は傍らに落ちていた細い筆を拾い上げる。
そしてどこからともなく一尺四方の紙片を取り出すと、何かを確かめるように幾度か筆を握り直す。
何気なく少年の仕草に目をやった狼は目を見張った。
絵というものはある程度の下描きを必要とするものだ、と狼は思っていた。
遙かな昔、まだ人の営みを片羽と眺めていた頃には、近所の屏風絵師を冷やかしに行ったこともある。
何度も下描きを繰り返し、それでも構図が決まらないと絵師が嘆いていたのを憶えている。
絵を描くときには大雑把に形を取り、そこから細部を仕上げていくのだと解説された。
しかし、少年はそういった手順を踏む気はなさそうだった。
よくよく見ればどこか金属的な光沢のある紙の表面に、繊細な筆先が触れる。
途端、墨もつけていないはずの穂先にじわりと色が滲み、頼りなく手で支えられただけの紙面に墨痕を刻んでいく。
左利きらしく右上から左下へ流れていく筆先は、今にも獲物に襲いかからんとする虎の姿を描き出しつつあった。
粗い毛並みを逆立て牙をむき出した虎の絵には、今にもうなり声を上げて襲いかかってきそうな迫力があった。
その精度に狼は内心舌を巻き、そして胸のざわめきを理解する。
あぁ、成程。
こいつが本物の画師ってやつか。
──画師。
その名を名乗るものは星の数ほどいるが、妖が『本物』と呼ぶのはただ一つだ。
仙人からは仙界に渡るだけの力を持ちながら人の世界に残ったという意味で地仙と呼ばれ、下級神などでは太刀打ちできないほどの力を持つ人間たちの呼称。
人に害なす妖を、ただその姿を写し取るだけで封じる者たち。
妖はただそれだけを画師と認めそう呼ぶが、人間は多大なる敬意と畏怖を込めて、彼らを封妖画師と呼ぶのだった。
狼がそんなことを思い出している間に、少年は最後の一筆に達したようだ。
掲げられた手の先には荒ぶる虎の縮図が踊っている。
「──行け」
短い号令を発し、少年はそれを木立の切れ目へと投擲した。
風切り音を伴って、一条の光が木々の間を飛ぶ。
実に十間近く飛んでようやく速度を落とした紙片は、地面に落ちる直前にぞろりと形を変えた。
平らな紙面から、銀の地に黒い縞のある太い前脚が伸ばされ地面を捕らえる。
その前脚を追うように鼻面、頭、胴が現れ、形になった後ろ脚が地面を蹴る。
重い音と同時に振り回されるのは長い尾だ。
大きく跳躍した虎は、たちまちのうちに木立の間に消えた。
「──何だ、あれは」
駆け去る虎を見送る少年に、狼は警戒の色を滲ませながら問いかける。
だいぶ高い位置にある狼の視線に肩ごと上を向いて、少年は無表情に答えた。
「あれは使鬼と言います。
刺客を生かしておく理由などありませんので」
返された内容には、確かに思い当たる節があった。
ここへ来る最中に捉えていた人の気配は二つだった。
片方は、飛龍とか言う人間だったのだろう。
もう片方が少年、ということはあり得ない。
こうして相対していても、目を離せば見失ってしまいそうなほどに気配が薄いのだから。
もう一つの気配のことはすっかり忘れていたが、おそらくはそれが飛龍という人物を殺した相手なのだろう。
少し探ってみたが、もうだいぶ離れてしまったのか痕跡の消し方が上手いのか、気配を見いだすことはできなかった。
「──では」
狼が遠くに意識を向けている間に、少年は音もなく立ち上がった。
銀の髪をさらりと流し軽く頭を下げて、足音もなくきびすを返す。
考え込む狼の目に、少年の冷たい色をした髪と細い背中が映った。
その姿は、大人と呼ぶにはほど遠く、ましてや画師と呼ぶにはあまりにも頼りなく見える。
しかし、彼は狼相手に画師であると名乗り、この地が平面になった原因を狩りに行くと言ったのだ。
狼の理性と知識は、あれが警戒すべき存在ではないのかと問うている。
しかし、それに反して、直感は少年についていけば何かが変わるのではないかと告げていた。
記憶は定かではないが、乾坤が平面になったのは、自分が片羽とはぐれた時分と一致している。
今まで考えたこともなかったが、もしかすると何か関係があるのかもしれない。
こいつについていけば、彼女を見つけだす手がかりを見つけだすことができるかも──そう思う。
「──おい!」
「何でしょう」
制止の声を上げる狼に、少年は無表情に振り向いた。
人形のようなに静謐で、妙な威圧感のある視線が狼を射抜く。
背筋に湧く悪寒に似た感覚を押し殺し、何でもない様子を取り繕って狼は言葉を続けた。
「……お前さん、連れはいないんだろう?
こんな処で出会ったのも何かの縁だ。もし良ければ俺がついていってやるが──どうだ?」
少年は僅かに首を傾げ、狼を観察するように視線を上下させる。
いくら幼く見えても相手は画師だ。
姿を写し取り妖を封じるのが能力である相手に見つめられ、老狼は居心地の悪さを味わった。
しばしの沈黙の後、少年の首がこくりと縦に動く。
「そうですね──老狼、さえよければ」
「どうせ時間は山ほどあるからな。でないとそんなこと言わねえよ」
「では──お願いします」
彼は少し古風な礼をして、改めて狼に手を差し出した。
老狼はその細い手を、今度は少し恐る恐る握った。
──────もう、血の匂いはしなかった。