8/12 地震
一人外へ出た怜乱は、街の外縁部へと向かっていた。
街は女たちを送り届けた今朝方とさほど変わらないようすだったが、それは却って異常なことだった。
どういった規模の里であれ、人は陽のあるうちに起きて働き、星明かりの下に眠るのが習いである。
だというのに、二万からの人が住むはずの街はしんと静まり返り、怜乱が砂を踏む以外に人の立てる音は何一つ聞こえてこない。
建物の奥から感じ取れる人の気配は、どれも深い眠りの中にいる者のそれだ。
庭先では犬が腹を出して寝こけている。
家畜小屋の豚も鶏も、思い思いの場所でじっと動かない。
木々の枝には小鳥が固まって目を閉じている。
ただ池の中の魚だけが、青い水の中をゆらゆらと泳ぎ回っていた。
少ない日陰を選んで歩きながら、怜乱は懐からいくつもの使鬼を放つ。
或いは空高く舞い上がり、或いは人家の窓へ飛び込んでいく白銀の鳥たちは、その軌跡上の景色と気配を拾ってくるのが役目だ。
彼はその記録を自分と使鬼の相対的な位置の記憶と統合して、探った気配の補助としている。
情報の統合は、普段なら使鬼が髪や着物に触れて形を崩すのと同時に完了する。
だというのに、今は七度呼吸するほどの時間を要しても終わらない。
ひどく間延びしたその感覚に、怜乱は眉を寄せた。
中天から僅かに落ちかかった日差しに炙られ、すでに空気の温度は日陰でも人の体温に近い。
酒精の巡るこの躯がそう熱に強くないことは、他の誰よりもよく知っている。
調子が落ちるのは仕方ないが、この不調が熱のせいだとは考えにくい。
いくら今が一番暑い時間帯であるとはいえ、ここは水場があり、街路樹の植えられた街中である。
この場所の気温が沙漠を上回ることなど、あろうはずがないのだ。
沙漠では着物の排熱機構と遮熱結界が熱を遮断しきれず、体温が際限なく上がっていた。
無茶を承知で酒精から水分と熱を切り出し、水蒸気と涙として排出していたあの時でさえ、ふた呼吸程度の間があれば処理は終わっていたのだ。
だというのに。
呼吸五つ分に近いこの差は、どういう齟齬から来ているのだろう。
それに。
(……それに?)
(日が暮れるまであとどれくらい?)
(それに、いや……なんだったっけ)
(ところで、あの花は何?)
考えごとをしようとすると、妙な思考が割り込んできて、何もかもがまとまらない。
(……あの文字は。文字は……)
ふと目に入った対聯の文字が揺らいで見えて、怜乱は思わず額を押さえた。
強く目を閉じると、意識がふっと途切れそうになって、慌ててばっと顔を上げる。
──くらりと。景色が再び揺らいで暈けた。
瞼の裏に細かい砂がまとわりつくような違和感に目を擦りかけて、その仕草でふと気がついた。
この感覚は、不調というよりも強烈な眠気では?
自覚してしまうと引き込まれるように眠くなった。
日向にいては危ないと転がり込んだ木陰の、ちょうど目の前に低い茂みがあった。
垂れ下がった白い花の下、転がる小さな塊に妙な引っかかりをおぼえて、怜乱はそれに手を伸ばす。
かさりと乾いた音を立てて手の中に転がったのは、からからに干からびた蝙蝠だった。
皮膜を広げても怜乱の両手に足りない大きさのそれは、大陸西部に幅広く生息し、人のささやかな悪夢を糧として生きるものだ。
妖というよりも妖精や魔に近い存在であるこれが、二万からの人々が眠る街でどうして死んでいるのか。
考えようとしたが、押し寄せる睡魔には抗えなかった。
引き込まれるように眠りに落ちる直前、高高度から戻ってきた使鬼が髪に飛び込んでくる。
澄んだ音を立てて脳裏に叩き込まれた地形が、もう理解できない。
目の前が白黒に光って、意識が落ちた。
さーっと低い羽音のような物が断続的に聞こえていたような気もするが、本当のところはよく判らない。
* * *
「……暇だな」
傾いてきた陽射しの落ちる中院に目をやって、狼は誰ともなしに呟いた。
返事はない。
狛斗は食事の片付けを終えた後、黙々と刺繍に励んでいる。
美々は何が気に入ったのか、尻尾の編み込みにご執心だ。
少し前までは美々と他愛のない話をしていたのだが、彼女はどうやら手を動かしていると喋ることにまで気が回らなくなる性質らしい。
時折意味のない感嘆詞を口にしながら、あれやこれやと試行錯誤している。
帰ってこない相棒と返事に溜息をついて、狼は尻尾をなるべく動かさないように足を組み替えた。
怜乱にはなるべくこの場を動かないでほしいと言われている。
多少動いた程度で何かが変わるとは思えなかったが、狼が動き回ることで場の気配が読みづらくなるとまで言われれば、ここでじっとしている他はない。
気配感知については怜乱のほうが上なのだ。大人しく聞きいれるのが吉だろう。
ふあ、と大口を開けて欠伸をすると、狼はもう一度暇だな、と呟いた。
うとうとしていれば時間などあっという間に過ぎるだろうが、狼はこの状況でそんなことをするほど無神経ではなかった。
狛斗に声を掛けようかとも考えたが、口を開けば妙に恐縮する相手とは雑談もしづらい。
結果的に何をするでもなく目を覚ましていなければならなくなって、狼は大いに暇をもてあましているのだった。
傾いていく陽を眺めながら、狼は女たちの作業が終わるのが先か、怜乱が戻ってくるのが先かと待っていた。
「できた!」
だいぶ日も陰ってきたころ、ようやく美々が嬉しそうな声を上げた。
どうやら無事に作業は終わったらしい。
「お、どうなった?」
「ほどけちゃうかもしれないから、そーっと見てね。そーっとだよ」
尻尾の先を掴んだまま立ち上がる美々に合わせ、尻尾を動かし首を回す。
首尾良く目に入った尻尾の背面は、細かい編み込みで覆われていた。
「これは凄いな。器用なもんだ」
「えへへ。狼さんの尻尾の毛がきれいだったから、いっぱい頑張ったの」
狼が感心して声を上げると、美々は得意げに胸を張った。
「でもこれ、手を離したらきっとほどけちゃう。どうしよう」
「狛斗に紐の切れ端でもねだればどうだ?」
「名案! 狛斗さーん」
呼ぶ声に顔を上げた狛斗だったが、狼の尻尾を掴んでいる美々を見て険しい表情を浮かべる。
そして手元の刺繍を床に伏せる、姿勢を正して座り直した。
「美玉。大神公の玉体に触れるなどという畏れ多いことをしてはなりません。貴女も、この地の始祖が大神公だと知っているでしょう。我々にとっては天にもひとしい御方なのですよ」
大人が子供を名前で呼ぶときは、真面目な話をするか叱るかのどちらかだと相場が決まっている。
名を呼ばれて、美々は一瞬びくりと肩を竦めた。
しかし、承服できかねる説教の内容に、彼女はたちまち反論する。
「いけないことじゃないもん。狼さんにはちゃんといいって言ってもらったもん」
「いくら大神公が良いと仰言っても、いけないものはいけないのです。他の神君にお目通りが叶ったときに同じような態度を取ってしまったら、取り返しがつかないことになりかねないのですよ」
「美々、そんなに分別のつかない子じゃないよ。狼さんは狼さんだし、他の神様は他の神様だってわかってるもん」
「いけません。大神公は確かに寛大な御方ですが、本来なら御姿を拝謁することすら畏れ多い方なのです」
「えー、そんなこと言って避けるほうがおかしいよ。さっきだって、狼さんはお話ししたそうにしてたのに、狛斗さんったらぜんぜん反応しないんだもん。ぜったい狛斗さんのほうが失礼なことしてるよ」
「それは」
少女の抗議に、狛斗は言葉を詰まらせる。
言葉を選びかねている彼女のようすに何かあったのだろうと察して、狼は口を挟むことにした。
「狛斗。他のやつがどうかはこの際置いておくとして、俺の場合は気安く話してくれる方が好ましいんだ。美々にはそれくらいにしてやってくれないか」
狼の言葉に、狛斗は困ったように眉を寄せた。
視線を逸らすように俯いて、呟くように言う。
「……美々のような子供が、大神公をはじめとする神々に馴れ馴れしくすることを覚えては困ります。他の神々にお目見えが叶った時に、非礼を働くことになりかねません」
「いや、子供のすることに腹を立てるような管理者は、皆無とは言わんがそうそういないぞ。……狛斗。もしかして、昔何か失敗したことがあるのか」
狼の問いかけに、狛斗はびくりと身を強張らせた。
何度か浅い呼吸を繰り返してから諦めたように首を振ると、床に目を落としたまま話しだした。
「……私がまだ美々の半分ほどの歳だった頃のことです。
街の西にある湖の向こうに、とある御方が居を構えておられました。
そこを訪れた理由はすっかり忘れてしまいましたが、幼いわたくしはその御方と親しく言葉を交わすようになり、やがては細々とした使い走りを頼まれるようになりました。
その御方はいつ訪れても、湖の畔でのんびりと対岸を──ちょうど街の方を──眺めながら陽に当たっておられました。
首や手足にびっしりと生えそろった鋼色の鱗が陽光に煌めく様はたいそう美しくて、わたくしは飽きずにそれを眺めていたものです。
今考えてみれば、わざとあのような姿をされていたのでありましょう。
しかし、幼いわたくしはかの御方が街に行こうとされないのは、その鱗のせいだと思っておりました。思い起こせば、ずいぶんと余計な心配をしたものです。
その御方と知り合ってからから、三年ほど経った頃のことです。
使い走りの礼に何かできることはないかとその御方に聞かれて、わたくしはその鱗がほしいとねだりました。
魚の鱗と同じように簡単に剥がれるものだと思っていたからこその願いだったのですが、どうやらそれは見当違いだったようでありました。
かのお方は困ったように、今鱗を剥がすのは差し支えがあるからと仰言って、わたくしに頭を下げられました。
……かの御方の姿を見たのはそれきりです。
きっと、わたくしが失礼な願いを口にしてしまったせいで、腹を立ててどこかへ行ってしまわれたのです」
長い昔話を終えて、狛斗は疲れたように肩を落とした。
上袍の裾を握る手が色を失っているのを見て取って、狼は軽く溜息をついた。
「お前さんの態度はそれが原因か。確かに、頼みを断られた後で姿を消されてはそう思うのも無理はないが、元は親しくしていたのだろう? 妖の時間感覚はいい加減だからな、そこまで気に病む必要はないと思うぞ。ここで山ができるまで眠っていた俺よりは、ずっと早く起き出してくるはずだ」
「大神公とその御方では格が違いすぎると思いますが……そういうもの、なのでしょうか」
「あぁ。鱗があったと言うことは蛇か何かの妖だろう。差し支えがあると言うことは、脱皮が近かったのかもしれん。原型に戻ると巨大な妖もいるからな、少し時間が掛かっているのではないかと思うぞ」
狼のとりなしに、狛斗はおずおずと顔を上げた。
遠慮がちに狼の顔を見つめて、口を開く。
「そういうことであれば、良いのですが……」
「きっとそうだから気にするな。なに、のんびり待っていればそのうち、脱いだ皮でも手土産にひょっこりやってくるんじゃないか」
そう言って、狼が笑った瞬間だった。
空気が万本の針にも似た緊張を胎んだかと思うと、低い音を立てて軋んだ。
重ねて地面の奥底から強烈な突き上げがきて、狼はとっさに女たちの頭を抱えた。
「……!」
「きゃあ!」
突然の揺れに驚いた二人が、悲鳴を上げてしがみついてくる。
一瞬地震かとも思ったが、《《狼が前もって知ることのできない地震など、世界中どこを探してもあり得ない》》。
その証拠に、吊された簾や飾りはゆらりともしていなかった。
揺れたのはどうやら空気と気配だけらしい。
地面の下に注意を向けると、巨大なものがずるりと這いずる気配があった。
暴れているのではなく、苦しんでいるようでもない。
しかし、巨大なものは動くだけで周りに被害をもたらしてしまう。
その正体までは見えなかったが、それがまだ動く気でいることは容易に知れる。
この街の建物は、構造の大半が石組みでできている。
いつ気配ではなく地面が揺れるか判らないと判断して、狼は女二人を外へ連れて出ようとした。
立ち上がるために、床に膝をつく。
──ぬるりと。床の上ではありえない感触がした。
川底に触れたときに似た感触にぎょっとして視線を落とすと、そこには無数の蛇がいた。
ほとんど透き通った数え切れないほどの蛇が、じゃらじゃらと絡み合いながらどこかから流れ込んで──いや、床の下、地面から際限なく沸きだしている。
狼の毛が緊張に逆立ったことに気付いた美々が、言葉にならない悲鳴を上げた。
「……大神公」
震えた声で呼びかけてくる狛斗に答える言葉を、狼は見つけることができなかった。
あからさまな水の感触を伴った蛇たちが途方もない密度で空間を満たしていくのを、狼たちは為す術もなく見守るしかなかった。




