5/12 人波
ひどく大勢の気配があるのに、声は一つもしなかった。
ざりざりと引きずるような音を立て、無数の足音が近づいてくる。
何となくぼうっとしているように見える怜乱を気にしながら、老狼は外の物音に聞き耳を立てた。
足音の具合からして八十斤以上の人間はいないようだ。
どれもこれも歩幅は短く、歩き方は妙に頼りない。まるで夢遊病者の群だ。
「怜乱、どうする」
短く問うて隣を見ると、怜乱は眉間に皺を寄せて壁を睨んでいた。
「怜乱」
ひどく集中しているようすの少年にもう一度声を掛けると、彼は視線を外にやったまま口を開く。
「──老狼。やっぱり僕、あまり調子が良くないみたい。ちょっと冗談じゃないものがいる気がするんだけど、気のせいかな」
「気のせいではないと思うぞ。あれだけ歩き回って誰一人いなかったというのに、ちょっと聞いただけでは判らんほどに人が押し寄せてきているんだからな。冗談じゃない」
「……人?」
狼の返答に、少年はさらに難しい顔になった。
眉間に皺を寄せたまま立ち上がり、どこか重たげな足取りで大門へ向かう。
そんな相棒の後を、狼は無言で追った。
月明かりに照らされた往来には、人の気配がみっしりと詰まっていた。
幅二間の胡同に、何十人──いや、百人単位の人がいる。
扉の裏で一旦聞き耳を立ててから、狼は扉を引き開けた。
ぎいと開く扉の向こう、見えたのは一斉にこちらを見上げる人の群れだ。
それを一瞥して、狼は鼻面に皺を寄せた。
「女子供ばかりじゃないか」
「……人間? 何かもっと、別のものだと思ったんだけど……」
狼の後ろで、怜乱が不思議そうに首を傾げる。
押し寄せてきていたのは、この町の住人らしい女たちだった。
緩く纏めただけの髪に夜着一枚程度といういでたちは、まるで寝床から抜け出してきたようだ。
彼女らは意志の感じられない視線を少年と狼に向けたあと、一拍の間を置いて押し寄せてきた。
「老狼、あれ、押さえられる?」
「お前さん得意の縄はどうした」
「あれはできてせいぜい二十人。それにこの密度だと、捕縛した人が踏みつぶされて死んじゃうよ」
「それもそうか」
怜乱に首を横に振られ、狼は泥のように迫ってくる女たちを見渡す。
彼女らの動き自体は、会話ができる余裕がある程度の遅々としたものだ。
何かを追うような動きで手を前に延べ、ふらふらと覚束ない足取りで距離を詰めようとしている。
しかし、どれだけ押し寄せようとしたところで門の前の空間はそう広くない。
半円形に押し寄せてきた人の群れは、一つの出口に殺到しすぎて固まった硝子球のように、ほとんど動けないでいるようだった。
一人一人の意志というよりも後ろからの圧力に耐えかねたようすで、彼女らはゆっくりと輪を縮めてくる。
女と子供ばかりなので高さはないが、人の手が無数に生えた壁が押し寄せてくるさまは不気味だった。
徐々に密度を高めてくる壁からは、時折ぱきっとかぴしっとかいう小さな音が響いてくる。
「老狼」
その音の原因に気付いたらしい少年が、急かすように声を上げる。
「……判っている」
せわしなく耳を巡らせながら、狼は喉の奥で唸り声を上げた。
夜の闇は狼にとっては何の妨げにもならない。
しかし、階段の上で七尺の上背から見下ろした胡同には、視界の限り人がいた。
古い街にありがちな曲がりくねった胡同は、ひどく見通しが悪い。
おまけに石造りの高い壁は妙な具合に足音を反響させて、どこまで人がいるのかの判別を難しくしていた。
後ろからくる群衆に潰されかねないことを考えれば、中途半端に女たちの足を止めることは躊躇われる。
狼が逡巡している間にも、方々から響く微かな音は止むことがない。
それは押し込んでくる人の圧力に耐えきれず、体内の骨が軋んで砕ける音だ。
躰から立つ音も知らぬげに、女たちは顔色一つ変えずに前へ前へと手を伸ばしてくる。
傷みも何も感じていないのだろう。
前進に躊躇のない彼女らを止めてやらなければ、いずれ圧死者が出るのは確実だった。
「怜乱。俺はこいつらがどこまでいるのか見てくる。お前さんは門の奥にでもいてくれんか」
「……判った。でも、僕も彼女らの様子は見ておきたいんだ。悪いけど、屋根の上にでも連れて行ってくれないかな」
「解った」
乞われて、狼は少年の腰を片手で掬う。
ひょいと跳躍して大門の屋根に上がる狼の姿を、女たちの目が一斉に追った。
塀の上を駆けていく狼の背中を視界の端に捕らえながら、怜乱は眼下にひしめく女たちを観察する。
彼女らは例外なく、塀の上を走る狼の姿を目で追っていた。
狼が塀を渡ればそちらを見つめ、一斉に手を伸ばして移動しようとする。
届くはずもないのに一斉に手を伸ばす姿は、まるで波のようだった。
「怜乱、降りるぞ」
一度は折り返して頭の上を飛び越えた狼が、再び戻ってきて怜乱を小脇に抱える。
後追いで崩れた包囲の間に降り立つと、狼は一つ足踏みをした。
地面の奥で、どんと低い音がする。
直後、砂でできた地面が粥状に溶けた。
音もなく液状化した地面に、みるみる人の壁が飲み込まれていく。
人の壁が足から腰、胸辺りまで沈んだところで、狼はもう一度足踏みした。
ぎしりと音を立てて、地面が元の硬さに戻る。
「……何だったんだ、一体」
耳を巡らせ人の足音が聞こえなくなったのを確認して、狼は心底不愉快そうな声を上げた。
「判らない。けど、どうやら老狼を狙ってたみたいだね」
「俺を?」
「うん。皆、塀を走る老狼を追いかけていたから」
「……何が目的なんだ?」
首を傾げながら、狼は胸まで地面に埋まった女たちに目を向ける。
うつろな目をした女たちは、誰もが狼を凝視していた。
一様に同じ表情で見つめてくるその視線は、いつか見た人魚の群れにひどく似ている。
まるで一つの意思を共有しているような似通った仕草で、女たちは狼へと手を伸ばしていた。
それをしばらく見下ろして、怜乱が首を傾げる。
「これ、掴まったらどうなるんだろう」
「判らん。一人引き抜いて試してみるか」
「そうだね。今の僕でも対処できそうなのは……」
怜乱が示したのは、集まった女たちの中でもかなり小柄な少女だった。
狼が近寄ろうとすると女たちが手を伸ばすので、代わりに怜乱が彼女の元へと近付く。
狼の指示にあわせて少女を地面から引き抜くと、彼女はまた歩き出そうと手足を彷徨わせた。
抱えて戻ることもないかと地面に立たせれば、少女は覚束ない足取りで狼に向かって歩き出す。
「本当に、お前さんには見向きもしないんだな」
「おかげで僕は楽だけどね」
戻ってきた怜乱と言葉を交わしながら、狼は手を伸ばし近寄ってくる少女を見下ろしていた。
狼の腰の辺りまでしかない少女は、自分の胴体ほどもある狼の脚にしがみついて動かなくなる。
「これ、やっぱり老狼の動きを止めようとしているのかな」
「だろうな。重心を落として押さえようとしているようだ」
「彼女一人じゃどうにもならないんだけど、その先を試してみるのも……今はちょっと遠慮したいかな」
怜乱は狼の脚にしがみついている少女を引き離そうと、その肩に手を掛けた。
しかし、いくら肩を引いても腕をはがそうとしても、彼女は全力で狼の脚にしがみついて離れようとしない。
「……あんまり力を入れると骨が折れそうで怖いな。老狼、なるべく気を押さえておいてくれるかな」
何度か試して諦めたらしい怜乱は、ちょっと視てみると言い置いて少女の後頭部に手を当てた。
そのまま目を閉じて気配を探る。
「特に怪しい気配もないなぁ……老狼の気に紛れて分からないのかも知れないし、ちょっと端の方まで見てくるよ」
「そうか。こいつはどうする?」
「どうにかして引きはがしたいところだけど、無理そうならそのままじっとしてるしかないね」
狼から離れて気配を探りながら、怜乱は人の間を辿る。
しかし、胡同の角を曲がり人の群れの終端までやってきても、老狼以外の妖の気配は感知できなかった。
それにしても、と振り返った怜乱は胡同を眺めて思う。
通り抜けざまに数えた数が百五十。向こう側にも同じだけ人がいるとすれば、三百近い女たちがこの場に集まっていることになる。
年の頃は十代前半から二十台後半程度。人としては体力も筋力もある時期だが、狼を取り押さえるなら力の強い男の方が適役のはずだ。
だというのに、女ばかり集めてきたのはどういう理由だろう。
もしかすると、この騒動の主である誰かは、女しか操れないとかそういった理由があるのだろうか。
そんなことを考えながら立ち尽くしていると、いつの間にか女たちは動くのを止めていた。
俯いてじっとしている女の顔を覗き込めば、すうすうと妙に落ち着いた呼吸音が聞こえてくる。
ふと思いついて、怜乱は彼女らの脈を取り、呼吸音に聞き耳を立てる。
……呼吸音は完全に同調している。
さすがに拍動までは同じといかなかったが、妙に近しいものがある。
そしてどちらも眠っている人間に近い、ゆっくりとしたものだ。
そこまで確認して、怜乱は狼が待つ門の前に戻る。
門の前では、狼が困ったような顔で少女を抱きかかえていた。
「おう、怜乱。この娘、突然ぐったりしてしまったんだが、お前さん何かしたか?」
「いや、こっちもいつのまにか静かになっていたから、老狼が何かしたんじゃないかと思って戻ってきたんだ」
「俺は何もしていないぞ。ところで、何か判ったか」
「いいや、全く。だからさ、ちょっとこの子に気付けしてみようかと思ってるんだ」
狼の腕の中でくったりしている少女の顔を覗き込んで、怜乱は髪飾りにしている筆を抜いた。
墨も何もつけていない筆を丸い額に走らせると、軌跡がほんのりと光を放つ。
「新しい芸当でも身につけたのか?」
「夜だからよく見えるだけだよ。気力を筆に通して描いてるだけ」
複雑な模様を一息で書きつけ、怜乱は筆の尻で少女の額を軽く叩いた。
ぼんやりと光を放つ模様が、一瞬赤く変わって消える。
「……効いていないようだな」
「眠気覚ましじゃだめか。あと効きそうなのは気付けあたりかな」
呟きながら、怜乱は再び少女の額に筆を走らせる。
それを五度ほど繰り返して、怜乱は諦めたように筆を髪に挿した。
「だめだな。思いつくかぎり試してみたけど、どうも符術じゃだめみたい」
「そのようだな。しかし、どうする? このまま寝かせておくか?」
「うん、一つ、思いついたことがあるんだけれど」
狼を見上げた怜乱は、少しばかり言いにくそうに視線を彷徨わせた。
そんな少年を見下ろして、狼は不思議そうに首を傾げる。
「? 俺に何かさせる気か」
「ほら、最初に狛斗が言っていたでしょう。老狼が通ったら目が覚めたって」
「そうだったか?」
「うん。だから、ちょっとこの子に気を送ってみてほしくてさ」
怜乱の提案に、老狼は目を白黒させた。
ぶんと尻尾を振り回して、鼻面に皺を寄せる。
「一体何を言い出すんだ。俺だって妖だぜ、判って言ってるのか」
「いやまぁ、その辺は市井の人よりはよく知ってると思うけどさ……加減くらいできるでしょう?」
「できんことはないが、そういう問題でもないんだぞ。……まぁ、他に術がないなら仕方がないが」
気の乗らない様子でぶつぶつ言いながら、狼は少女を引き起こした。
そして尻尾ではたはたと彼女の背中をはたく。
「こんなことで目を覚ますとは思えんのだがなぁ」
「そんなこと言ったって、他に手を思いつかないんだから仕方ないじゃない」
「それはそうだが。……あぁ、骨に罅が入っているぞ。何とかならないか」
「どこ? ……あぁ、肋骨は副木の当てようがないしなぁ。起きたときに暴れられても困るし、痛み止めの符でも描いておこうか」
所在ない会話を交わしながらしばらくそうしていると、唐突に少女の目に光が戻った。




