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3/12 狛斗

 女は狛斗(はくと)と名乗った。

 ひたすら平伏する彼女を立たせたまではよかったが、そこからまた面倒だった。


 怜乱(れいらん)たちが自己紹介するやいなや、彼女は目をまん丸に見開いて愕然とした表情を浮かべた。

 そして、再び地面に這い(つくば)って、老狼(らおろう)に向かって最大限の礼を取ったのだ。


大神公(たーしぇんくー)


 畏敬の念を滲ませながら、彼女は狼をそう呼んだ。


「そうとは知らずご挨拶も奏上せず、ご無礼をいたしました」

「……いや、あれがご挨拶でなかったら一体なんだと言うんだ」

「老狼、知り合い?」

「めめめ滅相もない!」


 怜乱の言葉を聞いて、狛斗は飛び上がった。

 ちぎれそうなほど首を振り回し、顔を上げてしまったことに気がついて再び頭を垂れる。あまりの勢いにごつんと鈍い音が響いた。

 そんな狛斗を見下ろして、老狼は困ったように長い尻尾を振り回す。


「……俺はそんなにご大層なものではないから、そういうのはやめてくれんか。老狼と呼んでくれ」

「畏れ多くも大神公の御名を口ににするなどという不敬、致しかねます」


 震え上がった狛斗がさらに強く額を地面にこすりつけるのを見て、せっかくの説得を不意にされた怜乱はうんざり顔になった。

 ちょいちょいと手招きして狼を屈ませると、声を潜めて問いかける。


「老狼。もしかして、この辺りで昔何かしたんじゃないの」

「いや、ここいらには前の戦争の少し後に来たきりだぞ。何かできるわけがないだろう」


 思い当たることなどないといった顔の狼を、怜乱は疑いの目で見上げた。

 狼の言う『前の戦争』とは、七万年以上前に終わった神代と現代を分ける大禍のことだ。

 それをつい先日のことのように言う狼の基準が、人間と見合うはずもない。

 どうせ今回もその辺りが原因だろうと見当をつけ、幾分強い口調で問い質す。


「老狼にとっては大したことじゃなくても、僕から見れば結構なやらかしだってこと、今までたくさんあったよね。些細なことでもいいから、よく思い出してみなよ」

「些細と言われてもなぁ……まぁ、ちょっと居眠りをしていたら鼻の穴を洞窟と間違えて入ってきたやつがいて、くしゃみをしたらこの辺り一帯が吹き飛んだなんてことはあったが」


 老狼の返答に、怜乱は眉を跳ね上げた。


「何それ。とんだ荒神じゃない」

「いや、さすがにすまないと思ったからな、ちゃんと埋め合わせはしたんだ。吹き飛ばした地面は整地したし、水も引いて人が住みやすいようにしてやったしな」

「あぁ……その手のやつね……」


 だから問題ないだろうとばかりに鼻を鳴らしている狼を見上げ、怜乱は軽くため息をつく。

 力のある妖だとは思っていたが、まさか起源譚の主までしているとは思わなかった。

 各地にそういった話はあるが、ここはその中でもかなりの規模だ。


「もしかして老狼、その時にうっかり名前を教えたりしなかった?」

「うっかりも何も、名を聞かれたら答えるのが道理だろう」


 わかっていない顔の狼に向かって、怜乱はわざとらしく額に手を当て、首を横に振ってみせた。


「……言い逃れのしようがないね。老狼、よくわかってないみたいだけど、君が初対面の相手なら、僕でも大公呼びで礼を尽くさないとって思うくらいの所業だよ。そんな相手が名乗ったら、もうそれは廟を立てて祀れって言ってるようなものだよ」


 怜乱の言葉に、狼がうっと怯んだ顔をする。口の端を引きつらせて耳を倒し、いまだ平伏している狛斗を見やって情けない顔をした。


「そういうものなのか……ということは」

「諦めるしかないね。当面、狛斗との話は僕がするから、それで我慢しなよ」

「……今度からは名乗らないように気をつけんといかんな」

「そういう問題でもないんだけどね」


 ようやく理解したらしい狼を解放して、怜乱はいまだ伏したままの狛斗の前に膝をつく。

 そして狼のことは好きに呼ぶようにと伝えると、彼女はようやく安堵の息を吐いたのだった。



 畏れながらと前置きをして立ち上がった狛斗は、意外にも落ち着いた雰囲気の麗人だった。

 先ほどまで眠っていたという言葉の通り、化粧っ気のない肌には疲れの色が濃く浮いている。眼光もいまだ深い眠りの中にいるような澱んだものだ。


 しかし、精彩を欠いてはいるものの、端正な物腰と重心の動かない歩法にはほとんど乱れがない。そのうえ、長年一端の武道家をしていてもなかなか身につけられない気配の消し方を、彼女は自然にこなしていた。


 路に積もった砂を踏む音すら聞こえない。

 ただでさえ生気が薄い上にこれでは、彼女の気配を察知できなかったことにも頷ける。

 揺れる紺碧の髪を眺めながら、怜乱はそんなことを考えていた。



             *  *  *



「大神公、画師様。こちらがわたくしのあばら屋でございます。汚いところですが、どうかお上がりください」


 案内された建物は、長い間人の出入りのない建物独特の、動かない空気の匂いがこもっていた。

 拭き清められていたはずの廊下には砂の混じった埃が積もり、そこに点々と狛斗のものらしい足跡が残っている。


 少し身支度をしてくると言った彼女が奥に消えるのを確認して、怜乱と老狼はやれやれとばかりに息を吐いた。

 薄暗い門庁(げんかん)に立ちつくしたまま、うんざりしたように肩を竦め、あるいは首を振る。


「老狼が嫌がるのもわかる気がするよ。あれじゃ息が詰まっちゃう。あんな本式の叩頭礼、廟でしか見たことがないよ」

「だろう? 妖連中は仕方がないとしても、人間にまでああ呼ばれるのは納得がいかん」

「……それは自業自得だと思うけどね。まぁ、確かに、あんまり柄じゃないとは思うけどさ」


 半ば揶揄の意を込め、怜乱は老狼の顔をじっと見上げる。

 しかし、狼は我が意を得たりと耳を立てた。


「だろう? お前さんが画師様扱いなのは本当だから仕方ないが、俺はあんな仰々しい名乗りをあげた覚えはないぞ。困ったもんだ」

「困ってるのは向こうも同じだと思うよ」


 狼が他愛ない思い出のつもりで口にする話は、その手の話に慣れているはずの怜乱が呆れるようなものも多い。


 中でも、今回のそれは酷い。

 こうまで大規模なものとなると、人にとっては大妖を通り越して神の所業だ。

 あちこちで大神公と呼ばれ祀られているのは、老狼に大人しくしていてほしいという人々の願いのあらわれだろう。


「説得できない以上、我慢するしかないんじゃないの」

「……何で誰も俺のささやかな頼みごとを聞いてくれんのだろうなぁ」

「老狼みたいに悪意なくやらかす相手は画師(ぼくら)も管轄外だからね、みんな切実なんだよ。それはさておき、本当に長いこと人が動かなかったんだね。廊下にまで砂が積もってる」


 投げやりに話を結んで床を撫でた怜乱だったが、積もった砂の意外な厚さに眉を寄せた。

 締め切られた家の中にもかかわらず、砂は分厚く層をなしている。

 少しばかり奥へ踏み込んだ怜乱は、白銀の紙で慎重に砂を掻き取った。


「一年──いや、二年近いかもしれないな。これは急いで街を見て回ったほうがいい気がするよ」

「そんなにか?」

「具体的な期間は狛斗に聞けば判りそうだけど」


 砂の層を指折り数える彼の後ろで、狼が不思議そうな声を上げる。

 どうやら狼は知らないらしいが、人間は一年どころか一月すら眠ったままではいられない。

 長いこと床に着いていれば、肉は衰え足が萎え、関節は次第に動くことを忘れ強張っていくのだ。

 それに、飲食が必須ではない自分たちとは違い、人は生きるために最低限の食事や排泄を必要とする。


 ごく一部の人間だけが眠っているなら誰かが世話をしてやっているということで辻褄は合うが、街の人間全てが眠っているとなればそうはいかない。

 そもそも、食事をしようにもものがなければ成り立たないのだ。

 もしこの埃が示すとおりの期間を眠って過ごしたとするなら、狛斗は元気すぎる。


 考えを巡らせていると、水を汲んで戻ってきた狛斗と目が合った。


「狛斗」


 名を呼ぶと、彼女は従僕のような俊敏さで二人のもとに飛んできた。

 埃だらけの床に仰々しく膝を付くと、胸の前で手を組み、恭しく頭を下げる。


「ここに。何なりとご下命を」

「……。掃除はいいから、話を聞かせてもらえないかな。それと、家族の様子を見せてもらいたいんだけど」


 怜乱の言葉に、狛斗はしかし、と抗弁した。


「このままではおみ足もお召し物も汚れてしまいます」

「いや、僕らが歩き回った方が砂が落ちると思うし、そんなことを言うなら老狼がこのまま上がることのほうが問題だよ。毛の間に砂は挟まってるし、だいいち(くつ)を履くっていう習慣がないから足なんてどろどろだよ」


 怜乱が茶化すと、狼は心外だとでも言いたげに尻尾を振り回した。


「俺はそんなに汚れていないぞ。しかしそうか、流石にこのまま上がるのは気が引けるな。足回りが砂っぽいのは事実だしな」

「ついでにここの掃除をする気は?」

「ふむ、ではそうしよう」


 きょとんとしている狛斗の前で、狼は上袍(うわぎ)の袖を軽く撫でる。

 とたん、上袍の表で揺らいでいた炎の模様が、剥がれるように実体化した。

 音もなく燃え上がる炎は黒い毛皮を舐め、足元へと這いおりて建物の床や壁に広がっていく。


「! 大神公……?!」


 温度の感じられない炎に頬を撫でられ、狛斗が困惑した声を上げた。

 建物の表面を伝っていく炎を目で追い、挙げかけた手を宙に彷徨わせている。


「大丈夫、火事にはならないから安心して」


 そんな狛斗を押さえて、怜乱は埃の払われた棚や桟を示してみせた。


「ほら、ちょっと埃を焼いただけだから。綺麗になったでしょう」

「? どうした?」

「老狼の炎気で家が燃えるんじゃないかと心配してるんだと思うよ。説明もなく炎を上げるなら、せめて見えないようにしないと」


 怜乱が軽く非難すると、狼はしまったとばかりに耳を寝かせた。


「……すっかり忘れていた。驚かせてすまなかったな」


 老狼に軽く頭を下げられて、狛斗はさらに狼狽の体になる。


「滅相もない! 大神公のお力とはいざ知らず、醜態をお見せいたしました。何とお詫びを申し上げて良いか……」


 青ざめて再び長口上に突入しようとした狛斗を、怜乱たちは必死で止めた。

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