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1/12 不調

 蜥蜴一匹いなかった。

 見渡す限りは一面砂色の海。

 僅かに緑がかった空には雲ひとつない。

 天蓋の頂点に張り付いたぎらつく光は、涸れた大地をそこに動く影ごと灼いている。


 地を這う影は大小二つ。場違いに積もった新雪の色と、炭に点る(おき)の色だ。

 小さな白い影は時折倒れそうになりながらも先を歩き、付き添うように大きな炎色の影が追う。


 果ての見えない沙漠を進む影は、近づけばかなりの速度で進んでいると知れるだろう。

 先を行く影がかなり小柄なのにもかかわらず、後を追う影は時折小走りに歩み寄っていた。



 ──じりじりと照りつける日射しの底は、まるで地獄の釜のようだ。

 頬を伝う熱いしずくを煩わしげに振り払って、先を行く少年は煩わしげに息を吐き出した。


「……老狼(らおろう)


 一声呼んで足を止め、後ろを追いかけてくる大きな影を見上げる。


「どうした。やっぱり乗せて行ってやろうか」


 老狼と呼ばれたのは、炎色の上着を着込んだ狼頭人身の妖だ。少年の一歩後ろを歩いていた彼は、心配そうに少年の顔を覗き込む。

 寄せられた黒い鼻先を迷惑そうに押しのけながら、少年は首を振った。


「大丈夫だよ、どうってことない。そんな心配顔で後を徒いてこられるなんて、気が滅入るったらないよ。できれば先を歩いてくれないかな」

「何を言っているんだ。怜乱(れいらん)よ、お前さん、自分がどれだけ胡乱(うろん)げな足取りで歩いているか判ってるのか? 今にも倒れそうなやつの前を歩けるわけがないだろう」


 怜乱と呼ばれた少年はじろりと狼を睨みつけ、不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「うるさいな。さっきから問題ないって言ってるじゃないか。陽が落ちて涼しくなれば復調するんだから、放っといてよ」

「陽が落ちればってお前、まだ昼を過ぎたばかりだぞ。強がりを言わずに乗って行けばいいだろう」

「厭だ。老狼の背中になんて乗ったら、毛皮が吸い込んだ熱で酒精()が蒸発しちゃうじゃないか」


 つっけんどんに手助けを拒む少年を見下ろして、狼は鼻面に皺を寄せた。

 憎まれ口を叩く少年の顔色は芳しくない。

 真白い肌に誤魔化されてはいるものの、彼の平生を知る狼が見ればまるで血の気がないのは明らかだった。その上まっすぐに立つことすら難しそうなようすは、見るに忍びない。


「だいたい、目の前で海月みたいにふらふらされたら、こっちだって気が気じゃないんだ。心配する俺の身にもなってみろよ」

「余計なお世話だって言ってるだろう」


 少年は狼をきっと睨んで鼻を鳴らし、再びふらふらと歩きだした。


「……あ! 怜乱、お前なぁ……おい、ちょっと待てったら」


 いつもと変わらないのは口の悪さと歩みの速さだけだ。

 あっという間に離れていく背中を引き留めようと延べた爪の先、白い(くつ)が不自然に宙を舞う。


「……あ」

「言わんこっちゃない」


 何の予備動作もなく倒れ込んだ少年を足下に見やり、狼は尻尾を振り回した。


「せめて手を突くとかそういう動作をしろよ。町中でやらかしたら、何事かと思われるぜ」

「そうだけどさ」


 長々と地面に突っ伏しながら、少年はくぐもった声を上げた。

 前のめりに倒れたのだから当然だが、少年は砂に半分顔を埋めていた。生物なら窒息死しかねない姿勢で、長い間動かない。

 少年の隣にしゃがみ込んで、狼は辛抱強く次の言葉を待った。



 南に下りてきて知ったことだが、相棒の少年は暑さに弱い。

 気温がだいたい人肌を超えると、暑い暑いと文句を言い始める。

 先日も、あまりの暑さに音を上げて床に転がってみたり、昼日中に出る妖を夜に追おうとしたりと、奇行を繰り返していたのだ。


 そんな彼がわざわざこんな所にやってきたのは、それなりに理由がある。

 少し前に立ち寄った街で、沙漠にある街と連絡が取れなくなったと相談を受けたのだ。

 できることなら見てきてほしいと言われ、了承したのがふた月ほど前。

 狼は何なら自分だけでも先に行って見てこようかと提案したのだが、狼の感知能力に信頼が置けないから自分も行くと言い張ったのは怜乱のほうだ。

 道中の用事を片付けながら陽射しが緩むのを待ち、ついにここまでやってきた──という次第だ。


 人間なら三回ほど窒息死していてもおかしくない時間が過ぎ、傍で見守る狼がいい加減そわそわしだした頃。少年はいかにも気怠げに身を捩って天を仰いだ。

 天蓋にぎらつく陽を嫌というほど眺めて陽炎を吐き出し、諦めたように目を閉じる。


「あー、ごめん老狼。僕はここで野垂れ死ぬから、君一人だけで行ってくれないかな」


 寝転んだまま首をゆるゆると左右に振り、ひどく真剣な声色で呟く。

 彼が声色を作るときは冗談を言うときだけだと判っていながらも、狼は馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばすことができなかった。


 何せ先日も、快晴の昼日中に跳んだり跳ねたりしたあとで、冷却が必要だと言って半日ほど川に沈んでいたのだ。

 その前の受け答えもかなり曖昧なものだったから、熱のせいで機能停止する可能性がないとは言い切れない。


 狼が黙っていると、少年はさらに言葉を繋ごうとした。


「悪いけど僕が、あ」


 何か言いかけた少年の言葉が、唐突に途切れる。

 半分開かれた口も、気のない鳶色の瞳も、時が止まってしまったかのように動かない。


 撥条の切れたねじ巻き人形のように転がる少年の胸に、老狼はおそるおそる耳を当ててみた。


 ……脈はない。


 死んでしまったのかと一瞬どきりとするが、考えてみれば少年の躯は創りものだ。

 素材が何でできているかは知らないが、少なくとも彼の身には血潮ではなく濃い酒精が流れている。

 人の形をしているから呼吸や拍動があるものだと思い込んでいたが、作り物の身にそれが必要かどうかなど狼には知る由もない。

 少年の躯が木石の精に近いものであるなら、心臓とか肺とか、そういうもの自体がない場合だってあるのだ。


 ──であれば、こうしているのも無意味だ。


 そう考えた狼は、少年の軽い躯を抱え上げようとして危うく悲鳴を上げそうになった。

 熱を吸い込みにくいはずの真っ白な着物は熱された鉄板のようだ。

 白い首に手を当てれば、焼けた砂と大して変わらない体温が感じられる。


 血の通った人の躰がこんなに熱くなるはずがない。

 強烈な酒精で構成されている体液が沸騰しているせいではないだろうかと不調の理由を考えながら、狼は街を目指して歩き出した。



             *  *  *



 ──頭の奥で音がする。


 さりさりさりさりさりさりと。

 水が流れていくような、砂が軋んでいるような、気に障る音が鳴っている。


 無意味な音の断片に埋めつくされて、本来の思考がままならない。

 負荷から受ける感覚は、思考が猛烈に回転しているときのそれ。


 覚醒しようとしてもまとまらない。

 意識は何度も収束しようとしては拡散していく。


 身動きしようと考えても、それがどういう感覚だったか思い出せない。

 自分の躯が自由にならない、どこか眩暈に似た感覚。

 軽い焦燥が胸の奥を焼いている。


 さりさりさりさりさりさりと。

 音は高く低く、遠く近く、途切れることなく鳴り続ける。



 ──遠い昔に忘れてしまったけれど、眠るってこんなだったっけ。

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