6/9 邂逅
そこにたどり着いた狼が最初に感じたのは、雨に流された血の残り香だった。
そして何やらただならぬ、断絶された場の気配。
頭の片隅が鳴らす警鐘を無視して足を進めれば、木立の間から幽鬼のような人の背が見えた。
狼の目に、吹き荒れる風に流され踊る髪が映る。
髪は見た目よりも重いのだろう。
微風を孕んだ布にも似た白銀の波が、細い月明かりの下で緩やかにはためいている。
人でも妖でも滅多に見ない、奥底から光を放つような銀の色に狼の胸がちくりと痛む。
──こんな処にいる場合ではないのに。
……しかし、何処へ行けばいい?
もうこの世界は数えることすら忘れるほどに探し尽くした。
この期に及んで、後は何処を探せばいいというのだ。
何処を……──…───
狼が探すそれは白い真珠の色であったが、どんな些細な近似点でも胸を抉るには充分だった。
いなくなった相手を探しているくせに、狼はそのことを考えるのは極力避けていた。
見つけ出す方法を探せば彼女の姿が目に浮かぶ。
直視すれば心はそれだけで一杯になり、まるで動けなくなってしまう。
──だからといって、目を逸らせば手がかりすら見出せない。
そうして狼は実に七万年と五千年もの間、この大地を闇雲に駆け回りながら矛盾に喘いでいたのだった。
理解しているのに抜け出すこともできず、解決の糸口すら見つからない。
幾度となく陥り続けた思考の牢獄に再び足を踏み入れようとしていた狼の視界で、人型がふと動きを見せた。
音もなく銀白の紙が舞い踊る。
ゆっくりと腕を掲げ、胸の高さで何かを戴く人型と、溶ける光。
それはぞっとするほど荘厳で、敬虔な祈りに似ていた。
人影が何に向かって祈りを捧げているのかは判らない。
だが、それを見て唐突に思いついた。
あいつに声を掛けてみようか。
きっとあの光の束のことも、この場所に立ち込める得体の知れない気配のことも知っているに違いない。
それに、第一。
こんなところで雨に濡れ風に晒されているなんて、普通の人間なら死んでしまう軽挙だ。
そんなことになったら後味が悪い──などと半ば弁解じみたことを考えて、狼は人影に気取られないよう注意を払いながら跳躍した。
途端、辺りに炎気が張りつめる。
空気の分子が振動してほんの微かな熱を発生させ、湿った空気を一掃していく。
首に括られた布の模様が実体化し、黒銀色の体躯は布と同じ色の炎に包まれる。
──一瞬。
一瞬の間にそれは掻き消え、狼だった動物は奇妙な生物に変化していた。
狼頭人身──人の姿を毛皮で包み、頭を狼のものにすげ替えたようなその姿は、この乾坤において、妖と呼ばれるものが時折見せる姿だった。
異形と言えば異形ではあるものの、人と動物が奇妙な具合に折り合いをつけて、一種の完成形を作っている。
狼は炎の模様の入った上袍の襟元を整え毛皮を撫でつけると、そろりと脚を踏み出した。
近付くにつれ、人影の異常さが明らかになっていく。
まず、全く匂いがしない。
辺りに立ち籠めた血の香は、雨で大半が洗い落とされている。
だとすればあとはあの人影の匂いくらいしかしないはずなのに、狼がいくら注意深く鼻をひくつかせても、それらしい匂いは捉えられなかった。
第二に、生きているものの気配がない。
普通、人というのはそこにいるだけで気配をまき散らしているものだ。
気配を沈めていても三里先からだって判別できる。
……はずだというのに、それは目を離せば消えてしまう幽鬼のように存在感がなかった。
はっきりと姿が見える距離にいるのに、目を閉じれば所在がわからなくなってしまいそうになる。
それは奇妙な感触だった。
──もしかして本当に幽鬼なのではないだろうか。
こんな処にいるなら、その方がむしろ相応しい。
一抹の不安を抱きながらも、狼はゆらりと人影の前に立った。
「そんなところで何をしている」
白い頭が驚いた様子で声の主を仰ぐ。
瞬間、狼ははっと息を呑んだ。
視界に飛び込んできたのは、人形もかくやと言うほどに整った完全左右対称形の貌だった。
仕草とは裏腹に何の表情も浮かべられていないせいで、印象は人と言うよりも限りなく人形に近い。
造作の中でただ一つ、濃い生気を宿した鳶色の視線が狼を射抜いている。
一目で妖とわかる姿を見て揺らぎもしないその視線は、感情の欠片すら浮かべずただ狼に向けられていた。
「君は」
決して大きくはないが良く通る声が人型から発せられる。
それでようやく、曖昧だった男女の別が明らかになった。
高く澄んではいるがどこか硬質な響きを含むそれは、紛れもなく声変わり前の少年のものだった。
随分と幼い声に再び狼は驚いた。
同時に、どうしてこんな処にいるのかという疑問が深くなる。
「──太古くからこの地に住まうもの、名は老狼だ。お前は幽鬼か? それとも傀儡師の人形か?」
「いいえ。『妖鬼』、とでも申しましょうか。人に創られた、人でも『鬼』でもないものです。名は怜乱、姓はありません」
怜乱と名乗った少年は、妙にぎこちない動作でか細い手を差し出してくる。
男にしては骨組みの細い手を、狼はさして疑問も持たずにひょいと握った。
──鮮烈な血の匂い。
『今先ほどまで生きていた』それではなく、『今この瞬間も生き続けている』それに思える奇妙な感覚に、狼の背がそそけ立つ。
──これは、決して人ではあり得ない。
そもそも、この己というものが全くない視線は一体何なんだ。
どことなく怖い──否、厭な感じがする。
人形の瞳で少年は狼をじっと見つめている。
生物にあるはずのない完全左右対称形の貌と揺らがぬ視線は、狼の胸をざわつかせる。
躰の奥底が粟立つような、どことなく不吉で本能的な忌避を感じて、狼は続ける言葉を失った。




