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4/9 嵐夜

 ──狼は嵐の中をひた走っていた。


 吹き荒れる風をものともせず、力強い脚がぬかるんだ大地を捉え、蹴り、跳躍し、再び捉え、蹴る。

 放たれた矢のように一散に、黒い毛皮を(まと)った獣は雨を切り割き駆けていく。


 狼の太い首には、鮮やかな光を放つ布が(くく)られている。

 布は疾走に合わせてはたはたと(ひるがえ)り、炎のような軌跡だけを夜に残していた。



 見開かれた琥珀(こはく)の眼に映るのは、ごく近くに迫った木々や岩、あるかなしかの獣道だ。

 僅かに輪郭を浮かび上がらせるのみの景色は、認識した瞬間には後ろへと流れていく。


 しかし、ぴんと立てられた耳は全ての音を捉えている。

 黒々と濡れた鼻は目よりも広く、周囲の詳細を掴んでいる。


 たとえば足下に重吹(しぶ)く土、過ぎる濡れた木々、息を潜めた獣たちの吐息。

 匂いが描く闇の奥には、人の匂いは存在しない──ましてや、彼の求める相手など。

 ここは人跡未踏の深山の、さらに奥深いところだ。



   ここにも、ここにも──どこにもいない。



 どれだけ探しても見つからない相手を思うたび、狼の胸は痛みを訴える。

 その痛みを(こら)えるように、食いしばられた銀の牙がぎりりと低い(きし)みを上げる。


 華奢な体躯(からだ)を包む真珠の毛並み。

 細められた赤いまなざしの、柔らかな輝き。

 自分の名を呼ぶ涼やかな声と、甘い香り。


 一つ一つは触れられそうな気さえする記憶は、しかし決して像を結ばない。


 直視すれば脚が止まってしまいそうな気がするのだ。

 思い出に目を向ければ、きっと記憶の海に沈んでしまう。


 ──七万年も昔に分かたれた片羽(つれあい)の記憶は、それほど重い。



   どこにいる。

   どこにいるんだ。

   お前さえいれば、俺は何も要らないのに。



 片羽の記憶から目をそらしたまま、もう数え切れないほど駆けた世界をまた探す。


 目と耳と鼻に己の全てを集中し、狼は大地を駆けていた。





 ………………、



      …………。






 ──その狼が、急に鼻先を上げて立ち止まる。


 雲の境界線まで辿り着いたのか、すでに嵐は止んでいた。

 濡れそぼった木々が風にざわめく山中で、狼の鼻は人の匂いを捉えていた。


 それも、複数。


 雨に流されて、他の匂いは消えている。

 狼の鼻でも嗅ぎ分けるのがやっとの、薄い匂いだ。


 だからこそ、余計に気になったのだ。

 一つは人の匂いと言うよりも、ほとんど血の臭いだったから。


 ただ、と狼は考える。

 流れてきた風の根元は、山をいくつか越えた向こう側だ。

 今からそこへ行って何になる。

 熊や山犬に食い荒らされた死体を見るだけではないのか。


 そう思い直し、狼は再び走り出そうとした。


 ──瞬間。



 音もなく大地が割けた──ように見えた。



 それは真夜中に見る火山の爆発にも似ていた。

 熱のない光が下から上へ、強烈な火花のように無数に割けて散っていく。



 一拍遅れて、どん、という音のない震動。


 光はほんの瞬きほどの間に散り散りになり消えてしまったが、狼はそれ(・・)が風に混ざった血の臭いと同じ場所から散ったものだと理解していた。


 一体、何が起こったのだろう。


 興味を引かれた狼は、その場所へ向かって駆けだした。


 

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