0/4 洞穴
ぴたん、ぴたん、と単調な音が響いている。
一筋の光も差さぬ洞穴は、ひどく温度が低かった。
どこからともなく水の流れる音がする。
もし明かりがあれば、天井から垂れ下がり地面から腕を伸ばし壁からせり出し積み重なる、奇怪な形状となった岩の群れを目にすることができただろう。
巨大な動物の体内を思わせる形の、ゆっくりと成長する洞穴。
そこは鍾乳洞だった。
「助けて……苦しい……」
広く深い闇の奥からは、水の音に掻き消されそうな声が響いてくる。
「助けて……私は何もしていない……」
浅い呼吸音は風の音に紛れて、兔ですら聞き取れないほどに細い。
今にも途切れそうなその声の主は、落下したまま固定した鍾乳石にその身を縫い止められていた。
大の字に地面に磔にされているのは、まだ若い姿をした女だ。
うつろに目を見開いて、つやと濡れた唇から譫言のような言葉をこぼし続けている。
手のひらと足と腹、合計五本の尖った石を突き立てられて、それでも女は生きていた。
古い傷口は石と融けて同化している。
服や肌に浸潤した石は、彼女がここに繋ぎ止められてから長い年月が過ぎたことを物語っていた。
しかし、酷く窶れているかと云えばそんなことはない。
少し痩せてはいるが、しなやかそうな躰つきをしたごく普通の女である。
途切れ途切れに助けてと繰り返す女は、既に正気を失っているようにも見えた。
光一つ差さぬ闇の奥、風の囁きに紛れて消えてしまうような声を聞きつけて助けに来るような者が、どこに居るというのだ。
──いや、彼女もそんなことは分かっている。
分かっていても、止められないのだ。
声を上げなければこのまま石とそう変わらないものになってしまいそうだ。
そんな根源的な恐怖から、彼女は呟き続けていた。
日も差さず単調な音以外には何もない場所は、時間の経過すら曖昧にしてしまう。
時間も日にちも年月すらも、今の彼女には認識できていない。
霞の掛かった脳裏に映るのは、過ぎ去りし日々だった。
* * *
──そう、彼女はこの洞穴を抱く山脈に生を受けた鹿だった。
広い山々を駆けめぐり、木々の萌える音に歓びの歌を歌い、茂る木の葉に身を隠し、豊穣な秋の実りに来たる冬を思い、峻烈な山肌を削らんばかりの嵐に春を待ちわび、歳月を重ねた。
彼女の駆けた切り立った嶺ともろい崖は人が足を踏み入れることをかたくなに拒み、長い間人跡未踏の地であり続けた。
豊かであり続ける美しい土地を、彼女は愛した。
歳月を重ねた彼女は運良く知恵を持ち、星に届くほどの嶮嶺を駆ける姿から星嶺の名を与えられて、その嶺の主となった。
主というのは地脈の管理者のことだ。
大地の奥にある気の流れである地脈を整え天災を鎮め、理を乱す者があれば制裁を加える。
その役目は決して楽なものではなかったが、彼女はよく治めた。
それからまた長い年月を重ねて、妖として人の姿を取れるようになったとき、彼女は一人の人間と出会い、恋に落ちた。
彼女は人里に降り、その相手を良人として暮らすようになった。
小さな村での静かな暮らしは、何の変哲もないが穏やかで幸せなものだった。
良人は優しい人だったし、子供ができてからはその成長が何よりの喜びだった。
まだ幼い子を良人があやそうとして逆に泣かせてみたり、庭で泥だらけになって遊ぶ子らを二人で見守ったりするのは楽しかった。
それが非難されるようなことだったとは思えない。
役目を怠ったのであれば、弾劾されて然るべきだ。
しかし、彼女が人とともに暮らす間も、彼女の山はますます豊かであり続けた。
そうあるようにと彼女は主としての管理に務めたし、良人に都合の良いようにと摂理を曲げることもなかった。
それでも、彼女は人によって狩られたのだ。
封妖画師を名乗る一人の貪欲な人間によって、彼女の生活は踏みにじられた。
そいつは金だけを目当てに存在しない彼女の罪を暴き立て、共謀したと云って良人を見せしめのように殺した。
引き離された子供たちがどうなったかは知ることができなかった。
彼女の脳裏には、お前のせいじゃないと諦めたように笑った良人の姿と、恐怖を顔中に張り付かせて引き立てられる子供の姿が焼き付いている。
そして、子供たちと引き離され、主の役目すら奪われて、この洞穴の奥深くに磔にされたのだ。
(馬鹿は瞞しやすくて良い)
鍾乳石で彼女を縛り付けた画師が、せせら笑うように口にした言葉を、彼女は決して忘れないだろう。
思い出を手繰るたびに、彼女の胸は怒りと憎しみの炎に苦く焼かれた。
もうきっと子供たちだって生きてはいまい。それくらいの時間が、外では過ぎているはずだ。
──それでも。
外に出たい。外に出たい。外に出たい。外に出たい。外に出たい。外に出たい。外に出たい。外に出たい。外に出たい。外に出たい。外に出たい。外に出たい。外に出たい。外に出たい。外に出たい。外に出たい。外に出たい。外に出たい。外に外に外に外に外に外に外に外に外に外に外に外に外に外に──
────、 そして、復讐を。
暗闇以外に何も映すことがなくなり久しい彼女の目は、記憶の最後にたどり着くたび復讐の色に燃えた。
画師に煽動された人間達のことはまだ許そう。
これでも私は主だった。
水だって土だって、ただあるだけなら善いものなのだ。
それが害になるのは、なんらかのきっかけがあるからに過ぎないことを、私はよく知っている。人だって同じはずだ。
そう思える程度には、彼女は人間のことをまだ愛していた。
しかし、全てを奪った画師を、どうして許すことができようか。
自分のことを、人を惑わせ食い物にする妖だと決めつけ、善良な人々を煽り立てたあいつのことを。
暗い暗い怒りに瞳を燃やしながら、彼女はとろとろと苦い眠りに落ちる。
これが夢なら、どれだけ嬉しいことだろう。
目が覚めたとき、あの人と子供達が隣にいてくれたら。
叶わぬ願いを胸に抱いて目を閉じる彼女の耳は、単調な川の音と不規則に滴が落ちる音、そして自分の心臓の鼓動と呼吸音しか拾わない。
ほとんど眠りに落ちかけたとき、彼女の耳は微かな足音を捕らえた。
……足音?
星嶺は動かない首を巡らせる。
不規則な形をした岩壁に反響する音はひどく捕らえにくい。
それでも、彼女の鋭敏な耳は、長い間聞き続けた単調な音に混じる異質な音を聞き分けていた。
こんなところまで、誰かが来てくれたのだろうか?
──いや、そんな筈はない。
私がここに封じられてから、かなりの時間が経っている。
私のことを覚えている人間が生きている可能性などない。
それに、こんなところまで人間が踏み込んでくるのは不可能だ。
それならば妖だろうか?
落ちぶれたとはいえ自分は主まで務めた妖だ。
この身を食らえば、それなりの妖力は手に入れることが出来るだろう。
それならばそれでありがたい。
ここで失意のまま悠久を過ごすなら、いっそのこと殺されてしまえば楽になれる。
だが──だが。
胸の奥から涌いてくる希望をありったけの言葉で否定してみたものの、何百年ぶりかに聞いた人間のものらしい足音は、彼女の心を強く揺すぶった。
必死に音の方向を探して聞き耳を立てると、遅いながらも確実にこちらへ近づいてくるのが判る。
おまけに、ぱちぱちという松明のはぜる音まで聞こえてきて、彼女の胸は苦しいほどに高鳴った。
この暗闇に光を持ち込んで歩くのは、人以外にはあり得ない。
微かな足音が確実なものに変わるのに、そう時間はかからなかった。
ゆっくりした間隔を刻む足音が、ちょうど頭上の位置で止まる。
久方ぶりに目にする明かりは、星嶺には眩しすぎた。
思わず目を閉じた彼女の横に膝をついて、訪問者は懐かしげな声を上げる。
「星嶺だね。……あいたかった」
取り立てて何か特徴があるわけでもない、平凡な男の声。
しかし、その響きを誰が忘れよう。
そろそろと目を開いて、声のした方向を見つめる。
長い時を暗闇の中で過ごした彼女の視覚は、もう明暗の差程度しか識別できない。
ぼんやりと明るいその方向に向かって、逸る心を抑えながら誰何する。
「……誰」
男が笑う気配がした。
「俺だよ、星嶺。迎えに来るのが遅くなって、すまなかった」
「櫨渦……?」
嘘だ。
そう判っていながらも、彼女はその名を呼んでしまった。
彼が生きていないだろうことは判っているのに、そう呼ばずにはいられなかったのだ。
かつての──彼女の良人であった人間の名を。




