6/7 悪熊襲来
翌朝。
東西に走る谷間に薄明かりが差し込み始めた時分のこと。
小鳥がようやく鳴き始めた空に、唐突にどぉんという爆発音が響きわたった。
直後に響き渡るのは、野太い熊の咆吼だ。
あちこちに谺して聞き取りづらいが、よくよく聞くけばこの宿は俺の物だから明け渡せと叫んでいるのがわかる。
「おー、来なすったな」
「案の定だ」
思い思いにぼやいて寝床から這い出すと、怜乱と老狼は打ち合わせ通りに門庁へと向かった。
長い回廊では、下働きの小妖たちがあたふたと右往左往押している。
「あっ、お客様、出て行っちゃだめです!」
「性悪大熊猫にめちゃくちゃ言われますよ!」
「あの白黒熊、見た目は愉快なくせにとっても口が悪くて、おまけに仙術まで使うんです!」
彼らは彼らなりに客を守ろうとしているのだろう。口々に囀りながら、回廊を辿る二人を引き留めようと必死に声をかけてくる。
それに大丈夫だからと答えながら門庁までたどり着くと、二人は打ち合わせ通りに物陰からようすを伺った。
大門の下で印を組む柚林の前には、巨大な白黒の妖熊が立ちはだかっていた。
上袍だけを羽織り、後足で立つ姿は一丈近い。柚林の胴よりも太い腕でがんがんと結界を殴りつけ、合間にあちこちから火の玉を飛ばしている。
軒の向こうに張られた結界はびくともしていなかったが、目の前で振るわれる暴力に柚林は青い顔をしていた。
「ここは我々の宿です。貴方たちは出入り禁止だと言ったでしょう、即刻立ち去ってください」
「飲み込みの悪いチビだな、ここは狐狸飛禽なんぞには過ぎた場所だと言ったのを忘れたか? こういう場所はな、力のある俺様にこそ相応しいんだ。大人しく明け渡せば、下働きとして棲むことくらいは許してやるぞ」
「勝手なことを言わないでください。ここは大神公から賜った大切な場なんです。あなたたちのような狼藉者に奪われるわけにはいきません」
結界に鋭い爪が叩きつけられるたび、柚林の目の前で鋭い火花が飛ぶ。
それでも、彼女はその場から退こうとしなかった。
結界は術者が近くにいなければ、強化や張り直しができない。奥に引っ込んで震えていては、結界に綻びができたときに対処できないのだ。
青い顔をしながらも必死で結界を維持する柚林を大熊猫は鼻先でせせら笑う。
「は、大神公? どこのどいつか知らんが、大げさな名前じゃねぇか。神様だって言うならここに連れてこいよ。それで俺様を肉片にでもしてもらればいいじゃねぇか」
「大神公はそんな乱暴なことはなさいません!」
「は、それもそうか。こうやって引きこもる術しか教えないような神様だもんな、どうせお前みたいな腰抜けなんだろうよ」
「…………!」
口惜しげにに唇を噛む柚林の手は、それでも忙しく印を組み、結界を編んでいる。
昨日聞いた話によれば、彼女は結界術以外はほぼ身体強化の類しか使えないのだという。
小動物にとっては、逃げ足が尽きれば自分自身が最後の砦だ。狐狸の精としては当然の能力であったが、それは彼女が熊への攻撃手段を持っていないということを示している。
如何に口惜しかろうと腹立たしかろうと、結界から出ればその時点で彼女の敗北は決定してしまうのだ。
「ほらほら、悔しかったら出てきて抵抗してみろよ、腰抜け小柚」
「出てきたら命乞いするまもなく一ひねりだけどな~」
熊の後ろでは、こちらも上袍だけを羽織った狐と兔の妖が、何やら忙しげに動き回りながらはやし立てている。
彼らは跳んだり跳ねたりしながら、地面に何やら複雑な模様を描き込んでいた。
その動きを目にして、怜乱は狼にそっと耳打ちをする。
そして少しばかり迷惑そうな表情を作ると、すたすたと大門のほうへと歩み出た。
「ご亭主。ずいぶんと騒がしいみたいだけれど、一体何事かな」
「あぁ、お客様! ここは危険です、出てきてはいけません」
声を掛けられて、柚林は実にぎこちなく振り向いて声を上げる。実にわざとらしい芝居ではあったが、その場にそれを指摘できる冷静な人物はいなかった。
突然の闖入者に結界を殴りつけていた手を止め、大熊猫は鼻面に皺を寄せて怜乱の顔を覗き込んだ。
「なんだぁ? このちび助が。食っちまうぞ」
柚林の前に出てきた相手に怒声を浴びせ、脅しつけるように結界を殴りつける。
鼻息がかかりそうなほど近くで怒鳴る妖熊を見上げて、怜乱は面倒そうな表情を作り首の後ろに手をやった。
「何って、この宿の客だけど。せっかく良い気分で眠っていたところを起こされたから、大声の主はどこの馬鹿だろうと思って見に来たんだ」
「あぁ?! 馬鹿だと? 誰に向かってもの言ってやがる!」
「もちろん君のことだけど、何か異論でもあるのかな」
「うるせぇ! ここの主は俺様だ。俺様はお前なんか招いてねぇ、だからお前は客じゃねぇ!」
めちゃくちゃな理論で吼える妖熊を、怜乱は鼻で笑った。
「なるほど……これは真性だ。結界の外で喚くしかない小妖が、どの面下げて亭主だなんて言うのかな?」
「はあああああ?! てめぇ、そのちっこい身体で何ふざけたことを……出てきやがれ、ひねり潰してやる!!」
激高してはいるものの、さすがに結界のあちらとこちらでは手も足も出ないと理解する脳はあるらしい。
妖熊は地鳴りのような怒声を上げると、結界から少し下がって怜乱に手招きをした。
結界をまたごうとする怜乱に、柚林が後ろから制止の声を掛ける。
「お客様、いけません! 悪漢の対処は私がいたしますので、どうかお客様はお部屋にお戻りください」
「いいから、ご亭主は下がって。あ、このはたき借りるね。徒手空拳だとどうも収まりが悪くてさ」
「えぇ? それは構いませんけれども……」
戸惑う柚林の背中からはたきを引き抜いて、怜乱は結界の外に歩み出た。
手にしたはたきで肩を叩きながら、小首を傾げて大熊猫を眺め回す。
「さて。図体だけの白黒小熊が何を粋がっているのかな。まぁ、僕もせっかく寝ているところを起こされて苛々していたところだし。ちょっと相手になってもらっても良いかもね」
「なんだと! 挽肉にしてやる!」
自分の四分の一もない相手だ。軽くひねり潰せると思って、大熊猫は先手必勝とばかりに黒い腕を振り下ろした。
爪の間に光る火花を目にして、結界の向こうから見守っていた柚林が悲鳴を上げる。
「お客様! 相手は仙術を使うんですよ!」
「みたいだね。でも、心配には及ばないから、ご亭主はそこでゆっくり見物してるといいよ」
のんびりと柚林に応えながら腕を上げ、怜乱は黒い手を軽く受け止める。
着物と爪の間で小さく火花が飛ぶが、白い着物はそれ以上の何かが起こるのを許さない。
組んだ仙術が無効化されたのを知って、妖熊は驚いた表情を浮かべた。
「な、なんだお前! お前、道士でもないのに仙術を使うのか!」
「僕が君に自己紹介をしたことなんてあったっけ?」
「は?! ふざけてんのか……!」
小馬鹿にするような怜乱の口調に腹を立てて、妖熊は再び爪を振り上げる。
反撃されるとはつゆほども想像していないその胴体に、怜乱は一歩近づき掌底を打ち込んだ。
胸骨をみしりと軋ませ、妖熊の巨大な身体が毬のように吹っ飛ぶ。
「ちょっと油断しすぎじゃないの?」
ちょうど直線上にいた兔と狐を巻き込んで背後の木立に突っ込んだ妖熊は、怒りのあまり言葉にならない咆哮を上げた。図体に似合わぬ俊敏さでぱっと起き上がり、全身の毛を逆立てて突撃してくる。
低い位置を目がけて右から左へ振り抜かれる爪には、懲りずに炎が乗っていた。
横薙ぎに細い胴を殴られても、怜乱はふらりともしなかった。
巨大な岩を殴りつけたような感触に、熊のほうが悲鳴を上げて腕を押さえる。
「ぎゃっ……なんだお前、石の精か何かなのか?!」
「君に教える義理がどこにあるのかな。で、もう終わりなのかい?」
「くそっ、どうして俺様の爪が通じないんだ! おい、胡胡、灰灰、おまえらも手伝え!」
怜乱がせせら笑ってみせると、熊は折れた爪を噛みちぎりながら後ろの狐と兔を呼びつけた。
「承知しました上々大公!」
「俺様をそんな気の抜けた名前で呼ぶんじゃねぇ!」
「すいませんオヤビン!」
先に返事をしたのはいたそうに尻や頭をさすっていた狐のほうだ。
しかし、どうやら逆鱗に触れたらしく、熊はまたしても怒声を上げた。
「えー、せっかく描いてた陣潰して何言ってんですかぁ……」
「灰灰、余計なことをいうんじゃねぇ!」
「だーってぇ……」
のろのろと身を起こし、愚痴を垂れる兔は多少面倒くさそうな顔をしている。
しかしどうやら狐のほうが立場が強いらしい。兔をどやしつけ、立ち位置を指示して自分は逆側に回った。
そして、熊の右と左に立った二匹は後足でちょこちょこ禹歩を踏み始める。
大熊猫の周りで小動物が踊っている絵面に内心呆れながら、怜乱は彼らの動きを眺めた。
兔は足止めと妨害、狐は目くらましと意識反らし、そして大熊猫は大がかりな仙術を放つための陣を組もうとしているらしい。
しかし、敵を目の前にして悠長に陣を張ろうとしている時点で、彼らの実戦経験は大したことがないことは明白だった。
「はぁ、誰も君たちに舞踊を見せてなんて頼んでないよ」
これ見よがしな溜息を吐いて肩を竦めながら、怜乱は無造作に彼らに歩み寄る。
陣を張るのに集中している兔の首をつまみ上げてひょいと森の中に放り捨て、熊の背中を押してその向こうにいた狐もろとも吹き飛ばす。
術の残滓をはたきの一振りで一掃した怜乱を見て、真っ先に撤退の意志を示したのは狐だった。
「くっ……オヤビン、こいつ、思った以上に強敵です! 一旦引いて建て直しましょう」
「仕方ねぇな……お前がそう言うなら一旦引くか」
「ほら、お前も来るんだよ!」
「えぇ~、もう、勘弁してくださいよ~」
「てめぇ、覚えてろよ!」
狐の提案に、大熊猫も悔しそうな顔をしながら頷いた。
身を翻した狐はうんざりした声を上げる兔の首筋を引っ掴み、大熊猫は捨て台詞を残して、彼らは森の中に消えていく。
「お客様~! 大丈夫でしたか?! かなり殴られたり蹴られたりしていたみたいですけれども……」
尻尾を巻いて逃げていく彼らの後ろ姿を見送っていると、柚林が後ろから声を掛けてくる。
「あんなの、小石がぶつかったのと大差ないよ。さて、出直してくるって言ってたけど、どうするつもりなんだろうねぇ」
振り向きながら人の悪い笑みを浮かべる怜乱に、後ろから出てきた老狼が声を掛ける。
「怜乱、なんだか悪い顔をしているぞ」
「そんなことないよ。ただ、いつ戻ってくるのかなぁって思ってただけさ」
ひらひらと手を振って、怜乱は柚林にはたきを返す。
「柚林、せっかくの前庭を滅茶苦茶にしてしまってごめんね。でも、あの熊はまだやってくるらしいから、それまでしばらくこのままにしておいてもらえない?」
「承知しました。では、それまでお酒でも飲んでごゆるりとお過ごしください」
怜乱からはたきを受け取って、柚林は丁寧に頭を下げた。




