2/9 救援
「おう、よく守ったな」
大きな手に背中を叩かれて、男はようやく足が地面についていることを認識した。
隣には目を丸くした女がへたり込み、ぽかんと隣を見上げている。
何が起こったのかわからず、男は女の視線を辿って顔を上げた。
最初に見えたのは、火炎の模様がちらちらと色を変える、素材のよく分からない着物だった。
ちょうど目の前にあった襟の合わせ目から、艶のある黒い毛皮が覗いている。
視線を上げれば分厚い胸に太い首、黒々と濡れた鼻先と犬に似た口許、頭の上にぴんと立った耳が順に見えた。
琥珀色の目は、己をぽかんと見上げる自分たちを穏やかに映している。
「……あなたが、助けてくださったんですか」
獣の頭に人に似た身体──一目であの蛇と同じ妖と知れる姿だ。
そんな相手がなぜ自分たちを助けてくれたのだろう? いや、もしかしてただ単に、獲物として横取りされただけなのか?
一抹の不安を抱きながら発した問いに、狼頭人身の彼は首を左右に振った。
「いいや。俺はあいつに言われただけだ」
音を立てて飛んできた石を軽く払いながら、黒い指先が後ろを示す。
狼の指さした先には、白い小柄な人影があった。
それが、巨大な蛇の鼻先を片手で受け止めている。
「な、なんだいお前は!」
「何、と言われましても。見ればわかるでしょうに」
くぐもった声を上げる蛇は、いくら押してもびくともしない相手に目を白黒させていた。
突然割り入ってきた相手を一飲みにしてくれようと、足元めがけて飛びかかったのだ。
そうやって空中に跳ね上げた人を頭から飲むのが、これまでの蛇のやり方だった。
「知らん。お前のようなものは見たこともないわ!」
巨大な岩にぶつかったかのような衝撃を思い出しながら、蛇は苛立ちに声を荒げる。
「そうですか。では、思い出させてあげましょう」
目の前で開く巨大な口に動じもせず、少年は空いた手で蛇の下顎を打ち上げた。
かつんと硬い音がして、蛇の胴体が半ばまで宙に浮く。
分厚い胴体を捩った蛇を遠巻きに眺めて、女はおそるおそる狼を振り返った。
「あ、あの。あの方はいったい……何者なんでしょうか」
「さぁ、俺も一昨日出会ったばかりでな。よくは知らんが、本人は流れの画師だと言っていたぞ。封妖画師なんだと」
「画師様……?」
狼の返答に、男女は目を丸くした。
画師というのは、古来より人に害なす妖と対峙してきた異能者の一種である。
天地の精である妖は、下手に殺せば別の場所で同じようなものが発生してしまう。
退治しても退治してもきりがない相手への対抗手段を、根本的に変えたのが彼らだった。
退治すれば復活してしまうなら、殺さないよう死なないように封じてしまえばいい。
そんな発想を基に、彼らは絵姿に妖を封じるようになり、人に害なす妖は徐々に数を減らしていったという。
封妖譚の中にしかいないと思っていた画師様が、まさかあんな年少い姿とは。
信じられないような心持ちで、男女は蛇と対峙する少年を見つめる。
「くぅ、なんだいその馬鹿力は!」
強烈な打撃にめまいを覚えながらも、蛇は鎌首を立て直した。
せっかく見つけたご馳走なのだ。
ここで逃げ出すだなんて馬鹿げている。
だいたい、目の前に立っている相手は自分の胴体ほどの背すらない、ほんの子供なのだ。
どこからあの力を出しているのかは判らないが、所詮は人間。跳ね飛ばせないなら炙り殺してしまえばいい。
そう考えて、蛇は大きく息を吸い込んだ。
可燃性の毒液を含んだ息に前歯を噛んで火を灯し、少年に吹き付ける。
轟と音を立てて炎が逆巻く。
炎の渦となった毒の吐息に巻かれても、少年は顔色一つ変えなかった。
銀色の髪はそよともせず、白い肌や着物には煤あと一つつかない。
「何だ?! お前、仙人でもないのにどうして炎を──」
炎の中に平然と立つ少年の姿に、蛇は思わず声を上げた。
「敵に種明かしをするお人好しがいるとでも?」
すうと目を細めた少年の視線に、蛇は全身の鱗が浮き立つような不気味さを感じてたじろいだ。
「──しかし。あれだけ長い間封じられていたというのに、反省の色が見られませんね」
蛇に視線を据えたまま、少年はゆっくりと懐に手を入れる。
引き出された手に握られているのは、一尺四方の白銀の紙束だ。
緩慢にも見える動作でぞろりとあたりに撒かれたそれは、音もなく四方へ滑る。
滑りながら鳥の形に変じたそれらは、地面から急角度に弧を描いて舞い上がった。
空高く昇り、あるいはくるくると少年の周りを旋回する色のない鳥の姿に、蛇は対峙する相手の正体に思い至る。
「成程、お前、画師なのか。若いのに随分と小器用なことをするじゃないか。でも、そんな小手先の技術で何とかなると思ってるのかい? あんまり舐めないでほしいね」
「いえ、決して侮ってはおりませんので。描きなおすのは面倒なので傷はつけませんが、人を襲うとどうなるかは覚え直していただきましょう」
蛇の問いに感情の読めない声で返し、少年は何かを指揮するように細い手を持ち上げた。
反応するように、ちらちらと陽光が煌めく。
一拍の間を置いて、細い指が蛇を指す。
──直後、白銀の雨が降った。