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1/6 宿屋にて

「いや、しかし大したもんだな」


 腰掛けた寝台の強度を確かめるようにぐいぐいと押しながら、狼は少年を手放しで褒めた。


「寝台程度で褒められても困ります」


 首を傾げながら、少年は上機嫌の狼を眺めている。


 その手には精緻な寝台の絵が一枚。妙に古びた様子なのは、先程までそこに備え付けてあった物を封じたからだ。

 身の丈七尺を超える狼の寝床に宿の寝台は狭かろうと、広々と寝られるものを用意したのだ。


「俺にはできんことだから、褒めても問題なかろう。

 お、しかも敷布がふわふわじゃないか」


 嬉しそうに振り回される尻尾で、布団がばふばふと音を立てる。

 少年は迷惑そうに、手にした絵で埃を追った。


老狼(らおろう)。そんなに尻尾を振り回したら埃が立ちます」 

「おっと、すまんすまん」


 よいしょとばかりに尻尾を抱え込んで、狼は寝台の端で足を組む。


「で、これからどうするんだ? こんな小さい町に何日もいる訳ではなかろう」


 身を乗り出す狼に、少年は少しばかり首を傾げて問いかけてくる。


「老狼。その前に一つだけ確認させてください。

 老狼はまだ、僕に同道してくださるおつもりですか。こちらは先日のように荒事もありますし、第一、老狼にだって用事がおありでしょうに」


 予想できたといえば予想できた質問に、狼は耳の先をぴくりと震わせた。


 もしかすると少年は(じぶん)のことを、山を下りるまでの同行者だと思っていたのだろうか。

 だが、それならこうやって寝床まで用意はしまい──いや、椅子代わりに用意しただけの可能性は捨てきれないが。

 それとも、狼が同行を続けると思っているのは自分だけかもしれないと、無表情の下で考えていたのだろうか?


 どちらにしても、狼の答えが変わることはない。


「あぁ、俺にはさしあたっての用なぞないからな。お前さんに不都合がないなら、そうしようかと思っている」


 頷くと、少年は目を一つしばたいた。

 反応はたったそれだけで、表情は相も変わらずの様子だったが、それでもどこか驚いたふうなのが感じられる。


「本当ですか。

 ……それでは、よろしくお願いします」


 言葉を探すように黙った後で、少年は拳を抱いて深々と頭を下げた。


「あぁ、よろしくな。

 そういうことで怜乱(れいらん)よ。その妙に改まった言葉を何とかしてくれんか。尻の座りが悪くてたまらん」


 居心地悪そうに尻尾をびくつかせる狼を目にして、少年はほんの少し首を傾げた。


「……そう、ですか? ……老狼(らおろう)がそう仰言(おっしゃ)るなら努力します。

 ところで。同行していただけるからには、ある程度これからのことをお話ししておこうと思うのですが、よろしいですか」

「あぁ、頼む。助力は惜しまんつもりだ」


 任せろ、と胸を叩いてみせると、少年は再び軽く頭を下げる。


「助かります。

 ときに、老狼はこのあたりの気候には詳しいですか」


 努力しますと言った割には全然変わってないじゃないかと思いながらも、狼はそれ以上は何も言わずに首を(ひね)った。


「いや、全体的な傾向なら解るが、俺も定住しているわけではないからな。知るはずがなかろう」

「そうですか。では僕が聞いた話を」


 言って少年は、道中で村人に聞いて回った話を要約して話す。


 今は枯れ野のこの地域は、十年ほど前までははかなりの豪雪地帯だったという。

 拍斗(はくと)(十月)にもなれば雪に振り込められ、外部との連絡が途絶える。

 そんな場所だから、冬の間に焼いた炭やら捕まえた動物の毛皮やらを売ることが、この村の主な収入源だった。

 しかし、ここ十年ばかりは全く雪が降らず、雪の降る頻度で雨ばかりが降る。

 冬の間も里に下りられて自分たちは便利なのだが、水利に影響が出てきたらしく里の人間たちは困っているという。


 そんな話を聞きながら、狼は少年が村を回っていたときのことを思い出していた。



             *  *  *


 

 里に下りるやいなや目についた村人に声を掛ける少年を、狼は一歩引いたところから見ていた。

 勝手も知らぬ自分が首を突っ込んでも何ができるわけでもない。

 それに画師(えし)というものが人からどう見られているのか、知っておきたいという思いもあったからだ。

 ──まさか、山中で助けたあの男女が標準ではあるまい、と。


「あの、すいません」


 怜乱が声を掛けると、村人たちはまず不審そうな顔をする。

 見知らぬ相手を値踏みするように眺め回しうさんくさげに眉を寄せるのは、狭い村で生活する人間の常だ。


 しかし、古風な仕草で頭を下げた怜乱の髪飾りに添えられた筆へと視線が行き着けば、彼らは一様に態度と顔色を一変させた。


 それは相手の年齢が上がるほど顕著だった。

 自分の子供や孫と言っても良いような外見の少年に、恭しく頭を下げるのだ。



 (ひざまづ)きはしないものの丁寧な態度で一歩間を置き、敬意を表し、あるいは親しげに。

 傍目から見ていても、彼らが頭を下げているのが怜乱の持っている筆に対してであることは瞭然(りょうぜん)としていた。


 彼らが礼を尽くす細い絵筆は、龍筆(りゅうひつ)と呼ばれる画師(えし)の証だ。

 一説には龍の骨と力ある獣の毛でできていると言われているが、真偽の程を確かめたものはいない。

 狼は彼らを脅威とまで思ったことはなかったが、性質の悪い妖はかなり警戒しているのだという話を小耳に挟んだことがある。


 持っているだけで妖から疎まれ狙われるということを、人々は封妖譚(おとぎばなし)だと思いながらも信じている。

 それでも矢面に立つ画師の姿に、人は多少の恐れと敬意を抱いて頭を下げるのだ。


 ――そう。

 彼らの態度の変化こそ、人間側から見た画師に対する評価であった。



             *  *  *



「長いこと聞き回った割には成果は出ていないんじゃないのか」


 率直な感想を述べると、少年はそうでもないと首を振った。


「いえ、今回はこれで十分です。本来なら確かに別の話を聞くべきなのですが、今回は確証を得たかっただけですので」

「そうか。だが、それでいったい何が判ると言うんだ?」


 この辺りの天候の話など、聞いても何かあるとは思えない。

 そう言いたげな狼に、少年はゆるゆると首を振って答えた。


「はい、実は、前もってこのあたりにいるはずの妖は判っていました。

 ……大変お恥ずかしい話なのですが。画師(なかま)封妖(しごと)が不完全だったせいで、封印が破られまして。本来降るはずであった雪を雨に変えている妖がいるのです。

 それを知ってそこへ向かう途中でしたが、すでに遅かったようですね。

 彼ら(・・)の感知能力の範囲内に侵入者があれば勝手に襲いにくるという話なので、しばらくは山の中を歩き回ることになると思います。

 明日は遅くとも昼過ぎには発とうと思っていますから、何か買物などあればそれまでにお願いします」


 ゆっくりと尻尾を左右に振りながら話を聞いた老狼は、そうかと一つ頷いた。


「判った。しかし、俺は特に何も必要ではないぞ。むしろお前さんの方がいろいろと入り用なのではないか」

「いえ、僕は特に。旅に必要なものは持っていますし。

 見たところ老狼は何も持っていないようですけれど、何か荷物があったら僕が保管しますから、言ってください」


 そういえば、と狼は思った。

 怜乱は頭に画師の証明である筆を挿している以外、これと言った荷物を持っている様子はない。

 懐から取り出していた紙も、しまい込めるような余裕はないように見えるが、何処に隠しているのだろう。

 狼の記憶が確かなら、画師は仙術を使えなかったはずなのだが。


 そんなことを気にしていると、少年は不意に立ち上がり、回れ右をしてぱっと窓を開けた。


 ごおっと音がして、身を切るような風が吹き込んでくる。

 風に散る前髪にわずかに目を細めて、少年は暗い空を見上げた。



 暗雲流れる夜空には、山の立てるざわついた音が響いていた。


 少年の視線の先。

 遠い遠い峰のさらに向こうでは、小さな光が二つくるくると踊っていた。


 針の先でつついたような大きさの、ともすれば木々の陰に紛れてしまうようなそれは星ではない。

 暗色と池のような緑の色が複雑に絡み合い波のような模様を作る、奇妙な光だ。


 常人の目では捉えることができないだろう光をじっと見つめる少年の背中に、狼は何気なく目を向ける。


 ──首筋を撫でる、刃のような冷気に狼は(たてがみ)を逆立てた。


 儚げで無機質な外見からは想像もつかない、強い意志がそこにはあった。

 地の果てまででも追っていき使命を全うするという意志。

 人形的な少年に唯一生気を与えている瞳に感じられた迫力が、静かな背中に燃えている。



 しばらく外を眺めいい加減部屋の中も冷え切った頃、怜乱(れいらん)はようやく窓を閉めた。

 そして、得体の知れない迫力に身を強張らせていた狼を目にして、わずかに首を傾げた。


「あれ、老狼(らおろう)。もしかして寒かったでしょうか」

「……いいや、何でもない」


 すっかり元の人形然としたようすに戻った怜乱に拍子抜けして、狼は曖昧(あいまい)に返事をした。


 

             *  *  *



 白みかけた夜空に暗色の光が踊る。

 ひらひらと舞う蝶のような軌跡を描きながら、宵闇を自在に駆けていく。


 光からはきゃらきゃらとさんざめくような音が響いていた。

 人の声ではなかったが、意志を持ったものたちが会話する声だ。


雷玉(らいぎょく)、どうしよう。せっかく一緒にいられると思ったのに、また追っ手が現れたよ」

「心配することはない、襲玉(しゅうぎょく)よ。横やりを入れるやつはみんなぶち殺せばすむことじゃないか」

「でもでも、そんなことを言ってるとまた前みたいになるよ」

「大丈夫、奴らの手はわかってるから、二度とあんなへまはしない。襲玉、今度はあんたも手伝うんだよ」

「……わかった」


 無邪気な響きを残したままで不穏当な会話を交わすその声は、すぐにけらけらという軽い笑い声に変わる。


 子供のものらしい二つの声は、風にかき消されてどこかに消えた。


 

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