1/9 妖蛇
「シシシ、滑稽だな、滑稽だ。その程度の刃物でどうにかなると、本気で思っているのかい?」
金属の板を引っ掻くような声の方向を睨みながら、男は劈刀を片手に後退った。
「……お前だけでも逃げろ」
背に庇った女に、押し殺した声をかける。
しかし、首を横に振った。
「厭だよ、逃げたって別々に食われるだけさ。それなら一緒に食われた方がマシじゃないか」
気丈に答える女の手は、血の気を失って震えている。
目の前の淵からは、青黒い鱗の巨大な妖蛇がその身を引き上げつつあった。
「おやおや、美しい夫婦愛だねぇ。でも、後ろは崖だよ。どうやって逃げるつもりだい?」
身を寄せ合って震える男女を見下ろし、蛇は笑うように巨大な口を開ける。
赤い舌を見せつけるように、男女にぐいと鼻先を寄せ息を吹きかけた。
生臭い吐息に肌を舐められ、恐怖と嫌悪に慄きながらも、男女は必死に逃げ場を探していた。
しかし、二人が立つのは狭い河原の片隅だ。
背には切り立った崖、川上は急斜面。
歩いてきた川下の逃げ道は、女の背ほども太さのある蛇の胴体がのたくり埋めようとしている。
「ほぉら、そろそろ逃げ場がないよ。ほんの七歩で背が触れる」
動きと言葉で人間を嬲りながら、蛇は百年と少しぶりの狩りを楽しんでいた。
長らく封じられていたせいで、蛇はひどく腹を空かせている。
最初は猪か鹿あたりで腹を満たすつもりだった。
人間に比べれば味気ない肉ではあるが、待っていればそのうち水場に現れる手軽さがある。
そうして待ち構えていたところに転がり込んできたのが、この不幸な男女であった。
幸先のいいご馳走だった。
恐怖に震える人間の感情は、蛇にとって最高の甘露であり霊薬なのだ。
おまけに普段なら邪魔をしてくる画師や道士どもも、この人里離れた山中までは駆けつけられない。
ひさしぶりのご馳走を小突き回す時間までたっぷりあるとくれば、上機嫌になるのはものの道理というものだろう。
胡椒のように舌先を刺激する緊張、丁字に似た恐怖の苦みと絶望の酸味を舐め取りながら、蛇は男女を追い詰めていった。
そしてついに、女の背が張り出した崖に触れる。
びくりと身を震わせた女のようすに、男はもう逃げ場がないことを知る。
「よ、寄るな!」
にじり寄ってくる鼻先を遠ざけようと、男は劈刀を振り上げた。
鉤型に曲がった切っ先が、鈍い音を立てて鱗を叩く。
しかし、それなりに質量のある金属は、硬い鱗に傷一筋つけられなかった。
半ばから折れ飛んだ短い金属の塊が、細い音を立てて地に落ちる。
「ふふ、そんな小枝みたいな刃物じゃ、私の鱗は毛ほども傷まないよぉ」
愕然とした男の手から器用に得物を取り上げて、蛇は見せつけるように遠くに放り投げた。
唯一の武器を失った男は、背中から伸ばされた女の手を引き胸に抱き込む。
互いを呼び合う獲物の絶望を楽しんで、蛇は再び笑い声をあげた。
「さぁて、どっちが先に腹の中に納まってくれるかね? 男は血が濃くて美味いけど、女は柔らかいし、何より悲鳴がいいからねぇ」
先の割れた舌が、男女の頬を交互に舐める。
間近に迫る巨大な口に、男女は声もなく震え上がった。
赤い口から覗く牙の形状で、蛇が毒蛇でないことが知れる。しかし、そんなものはなんの気休めにもならない。
絞め殺されるか生きたまま丸呑みされるか、そんな選択肢しか残されていないということなのだから。
舐め上げた女の冷や汗に混じる味に気づいて、蛇はにんまりと口を開く。
「へぇ、お前。腹に子がいるじゃないか。いやぁ、めでたいね、まるで快気祝いじゃないか」
子供、と繰り返した男女の声を、蛇は聞き逃さない。
舌先をかすめる一瞬の驚きの甘味と、一気に湧き出してくる深い絶望の苦い味。
えもいわれぬ妙味に、瞼のない瞳孔が満足げに細められる。
「なんだ、知らなかったのかい? うかつだねぇ、実にうかつだ。お陰でこうやってご馳走にありつけるわけだから、感謝しないといけないけどねぇ……さて、どっちが先に喰われるか決めたかい?」
キキキと声だけで笑って、蛇は男女を引き離しにかかった。
象ですら飲み込めそうな口から躍り出た舌が男の胴を捉える。いつの間にか忍び寄ってきた黒い尾が、女の腰に巻きつく。
もうどうしようもない。
別々の方向に引かれて、男女はせめて引き離されまいと必死で互いを抱きしめた。
「おうおう、可愛い抵抗だねぇ」
愉快そうに蛇は笑う。
獲物を潰してしまわないよう細心の注意を払いながら、獲物が疲れるのを待つつもりだった。
しかし。
「……見つけた。老狼、先に行きます」
声変わり前の少年の声と、
「行くって怜乱、お前どうやって──」
どこか舌を噛んだような、低い声が崖の上から降ってくる。
同時に、舌に熾火を押し付けられたような熱を感じて、蛇はぎゃっと悲鳴を上げた。
男に巻きついていた舌が解け、女を引いていた尻尾が乱暴に振り回されて、男女は宙に投げ上げられる。
跳ねあげられる男女とすれ違うように、落ちてきたのは真白い色をした何かだった。
その正体を確認する暇もなく、男女の体は何か柔らかいものに跳ね飛ばされた。