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四十六時限目 

11/21から連続更新中。

本日3話分更新して完結です。


更新:2/3


 場は瞬く間に戦場へと変化した。

 公園への侵入者に気づいたブリュネールは三人が姿を現すと同時に周りの男達に指示して迎撃に当たらせた。

 ここに居る男らは皆、昔からのブリュネールの配下だ。ユースティール王城戦では力及ばず敗北し、戦死や捕虜となった末に処刑されるなどして大幅に数を減らしたが、来るべき再建を期して当時は若かった魔法師団員を逃がしており、こうしてブリュネールの手足となって動いている。

 王国魔法師団は二種類に分類される。一つは遠距離からの攻撃や補助を得意とする魔法使いの一団、そしてもう一方は魔法を自らの補助として用い、白兵戦を得意とする魔法剣士グループである。

 アズミルズに渡るにあたり、ブリュネールが連れてきたのは後者だ。魔力の豊富な魔法使いらはアズミルズへの孔を開けるにあたって膨大な魔力を使い果たして動けなかったという事情に加え、アズミルズとの相性の問題もある。相性が悪ければ本来の実力を発揮できないが、魔法剣士であれば平素から体を鍛えていることもあり動けなくなるということは無い。多少の荒事でもアズミルズの人間であれば十分対処が可能だと踏んで、ブリュネールは魔法剣士を中心に連れてきた。

 幸いにして彼らは皆、アズミルズとの相性は然程悪くなく、エルミルズ程では無いにしろそこそこに実力を発揮できる程度には動くことが出来た。故にブリュネールは陽芽が暴れても難なく確保でき、ここまで大きな問題が発生すること無く目標達成まであと一歩のところまでやって来れた。

 終盤に来てこの襲撃者達と刃を交わすこととなったが、問題なく撃退できる。そう確信していた。自身が率いていた魔法師団にその程度には自信を持っていた。


「なんと……」


 だから目の前の光景が信じられなかった。


「シッ!」


 メイド服という戦場には明らかに場違いな格好で疾走する女。魔法師団員から次々に繰り出されていく剣戟に些かも怯むこと無く突っ込んでいき、しかしそれら全てを見切ってかわしていく。

 ブリュネール自身は後方型の魔法使いである。だから武には疎く、しかしそれでも長年前線で戦ってきており、剣士たちの剣戟が決して未熟では無いことくらいは分かる。だというのに、戦とは縁遠いはずのアズミルズの極東でしかも女性である凛が十人に及ぼうかという屈強の男達を手球に取っていることが信じられない。


「遅い」


 ローファーが男の喉元を抉り、昏倒して倒れる。倒れた男を踏み台にして跳躍し、ある一人の剣士の頭を飛び越え、着地際に首を掴んで窒息させる。ギリギリ生きてはいるだろうが、死しても構わない未必の殺意が見て取れる。その手際はとても戦いと縁遠いとは思えない。


「もしや……」


 ここに来てブリュネールはようやく凛の正体に思い至った。オースフィアと顔を合わせる事が多かったブリュネールは、彼女の傍に常に付き従っていた侍女の存在を知っていた。当時はまだ少女と言える年齢でその割に無口で無表情な女だったが、時折オースフィアの事を話す時だけ歳相応の幼さを見せていた事が印象的だった。そして彼女がただの侍女だけでなく、有事の際にオースフィアを守り抜けるだけの武力も持ちあわせており、秘密裏に侵入者を処断しているという話も噂程度に聞いていた。

 王城陥落の際に側仕えも皆、職務に殉じたという話ではあったが――


「まさか彼女と共に居たとは……」


 焦燥を見せるブリュネール。また一人、目の前で彼女の細脚に因って意識を刈り取られた。

 そしてもう一人。こちらこそが本当の想定外であった。


「アストレイ・スカーレット……!」


 忌々し気にブリュネールは名を呼んだ。

 彼もまた、ユースティール王国再興を掲げるブリュネールの組織に属していた。当初は同じ一団の人間ではあったが、手段を選ばず王国を設立しようとする強硬派と民の暮らしを考えながらじっくりと再興を進めようとする慎重派に別れ、それはオースフィア王女の扱いについても考えが割れていた。

 強硬派は傀儡であってもオースフィアをトップに据えて人を集め力を蓄えようとし、慎重派はあくまで王女は協力者・同士として自分らを率いて貰おうと考えており、その意思を尊重するつもりであった。

 自然と二つは組織も別れ、アストレイも慎重派へと合流し、その報告を聞いた時は重要な戦力を失ったとブリュネールも落胆したものだった。


「アズミルズにおいても我らを邪魔するか……」


 ブリュネールは歯噛みし、苛立たしげに吐き捨てる。

 オースフィアを連れ去る時にも邪魔をし、痛めつけてやったにも関わらずまたも立ち塞がってくる。あの時はあまりにも弱く、たまたま顔の似たアズミルズに住む別人だと判断したが今はその時とは動きがまるで別人で、紛れも無く彼の知るアストレイであった。


「この程度の輩にやられたとは……力を失っていたとは言え恥ずかしいな!」


 迫り来る刃の中、アストレイは心底悔しそうに吐き捨てる。だがその顔色には余裕と自信が満ち満ちていた。

 自らの魔力で作り出した木剣を腕の延長の様に巧みに扱い、繊細な剣さばきで四方から襲い来る敵意の刃をいなし続ける。無防備に見えた腹目掛けて刃を突き出せば、手ひどく手元を打ち据えられ、返す刀で顎を打ち上げられる。背後から襲いかかれば、まるで背に眼が付いているかの如く最小限の動きでかわし、胴を薙ぎ払われていく。


「さすがは将来の王国騎士団長と謳われた男、か……」


 元々アストレイは入団当初より王城内で有名であった。由緒ある王国貴族であるスカーレット家が長男にして、並み居る騎士団でも幹部クラスの実力。女顔であるために子女にもファンは多い。残念ながら戦地での実力を示す前に亡国と成ってしまったが、エルミルズ中に名が轟くのも時間の問題ともっぱらの評判で、ブリュネールの耳にもそれは届いていた。

 上背こそあるが、この場において圧倒的に細身。かといって素早さだけが取り柄ではなく、技術、スタミナ、そして攻撃力の全てにおいて配下とは桁外れだ。その実力と機能的に美しい動きにブリュネールも思わず目を奪われてしまいそうだった。

 圧倒的。まさに圧倒的。

 ブリュネールの額から汗が流れ落ちる。

 本格的に起動する前だが、多少なりとも結界へ魔力は収集されている。その一部を借り受けてブリュネールも治癒魔法などで援護はしてはいるものの、焼け石に水。突破されるのは時間の問題に思えた。

 大丈夫だ。すでに孔は完成し、陽芽の魔力で安定している。ブリュネールは努めて平静を保ち、陽芽の手を引いた。


「さあ、オースフィア様。配下が食い止めて居る間に参りましょう」


 強引に陽芽を孔へと誘導し、陽芽はたたらを踏んだ。しかし彼女の脚は凍りついた様にその場から動かない。


「オースフィア様」

「……」


 濡れた眼差しがブリュネールを捉える。溢れんばかりに涙を湛え、拒絶が視線となってブリュネールの胸を掴む。それはかつて幼きオースフィアが向けてきたものと同じであり、陽芽と彼の記憶のオースフィアの姿が重なる。彼女の懇願に頷いてしまいそうになる。

 だがそれは出来ない。何としても、失ってしまった祖国を取り戻さなければならない。例え今はオースフィアの意に沿わないとしても、故郷の姿を見て、彼女の帰還に湧く同士達の姿を目の当たりにすればきっと翻意して下さる。ここはこの様な方が生きる世界ではなく、あの荒屋も王女の、未来の女王の住処には明らかにふさわしく無い。未だ人間として、王族として成熟しているとは言い難い彼女の為の環境を整え、本来あるべき道へと踏み外した脚を戻して差し上げねばならない。

 つまるところ、それはブリュネールにとっての贖罪であった。贖罪のため、果たせなかった王家への忠誠を示すため、彼は老いて尚、仕えるべき相手を欲していたのだ。そこに陽芽の意思は必要ない。ただただ陽芽という、その王家の血を引く存在だけを老い先の短い彼はひどく欲していた。


「先輩っ!!」

「直、直っ!!」


 直が陽芽を呼ぶ。彼が求めるオースフィアでは無く、アズミルズでの彼女の呼び名を口にした。そして陽芽もまたブリュネールの手を振り払い、直の元へ駆け寄ろうとした。助けの声に手を伸ばしたのだ。それが彼にとっては何事にも代えがたい屈辱であり、オースフィアへの忠愛が『憎』へと変質した。

 だから、ブリュネールは迷わず結界を発動させた。

 地面に描かれた血文字が真紅へ輝き、町を覆う結界全体が濃く紅く染まった。降りしきる雨はまるで血の様で、地獄を思わせる光景だ。

 流れてくる大魔力。枯渇した魔力が老体に満ちてくるのを感じ取るとブリュネールはすかさず手を前方へと突き出した。

 次の瞬間、直の体は大きく後方へ弾き飛ばされた。走ってきた勢いがそのまま衝撃となって直の体を叩きのめし、全身が激しく悲鳴を上げる。全くの無警戒だったために何が起きたか理解できず、急激に揺さぶられた影響で視界が回転し、その端で手を伸ばす陽芽を見上げた。


「せ、んぱいっ……」

「直、大丈夫か! 直!」


 頭を抑えながら直は立ち上がる。依然、視界は揺れていたがそれでも眼は陽芽の姿を捉えていた。口に入った泥を吐き出し、もう一度陽芽に向かって駆け寄って行く。


「ぐっ!」


 しかし陽芽の手に届きそうな所で見えない壁に再び阻まれ、弾き飛ばされる。今度は身構えていたために転ぶことは無かったが、衝撃は強く臓腑にダメージを与え、胃の中身を吐き出しそうなって直は顔を歪ませた。


「直っ! くっ! ブリュネール! この壁を消せ!」

「それはできませんな」


 近寄りたくても近寄れない。不可視の壁を幾度と無く陽芽は叩くが、音が聞こえるだけで些かも壊れる様子は見えなかった。

 何とか、何とかこの壁をどうにか出来れば。手の届く所に直が居るにも関わらず触れる事が出来ないその歯がゆさを壁にぶつけるが、不意に後ろからその手を掴まれた。


「くそっ、離せっ、ブリュネール!」

「お止めください、オースフィア様。これ以上は御手を痛めます」

「私の手の事などどうでもいい! 直、直っ!!」

「……仕方ありませんな」

「あうっ!」


 掴んだ陽芽の腕を強く引っ張り、壁から引き離す。そして空いたもう一方の手を前に差し出すと、深い皺の刻まれた瞼を開いて直の姿をきつく見据えた。


「『天からの裁きトール・ジャッジメント』」


 その声を聞いた瞬間、直はとてつもない恐ろしさを直感した。全身に怖気が走り、何も考えないままにその場から全力で身を投げ出した。それは本能だった。

 けたたましい雷鳴が響いた。眼が眩む雷光が公園中を包み込み、地面が揺れる。地響きに似た重低音が轟き、次いで襲い来るのは焼き溶かさんばかりの灼熱。雨で濡れた直の表皮が一瞬で乾いたおかげで火傷こそしなかったが、一瞬とは言え襲いかかってきた凄まじい熱量に直は戦慄し、そしてつい数瞬前まで立っていた場所の惨状に更に息を飲まざるを得なかった。

 そこには巨大なクレーターができていた。水を吸って重くなった土が吹き飛び、半円状の表面からは白い蒸気が立ち上って改めてその熱量を視覚的に伝えてくる。


「落、雷か……?」

「戦略級上級魔法、トール・ジャッジメントですよ」


 直はその有様に呆けていたが、年老いた声にハッと我に返ってすぐに立ち上がる。


「せ、戦略級魔法だと……! そんなもの、個人で扱える訳が……」

「戦略級、と呼ぶにはおこがましい威力ではありますが、結界の力を利用すればこの程度の魔法くらい扱える技量は備えているつもりですよ、オースフィア様」

「はっ! 何処ぞのマンガやアニメみてーなネーミングセンスだな。エルミルズの連中はみんあ厨二病患者か? だが、ンなもん当たんなきゃ意味ねーんだよ。悠長に呪文なんざ唱えやがって」


 口元にこびりついた泥を拭いながら直は強がってみせる。不敵に笑みを浮かべて余裕を醸し、しかし本心は未だ恐慌状態であった。

 魔法の存在自体はこの数時間で嫌というほど教えられたが、直接的な攻撃魔法を向けられるのはこれが初めて。そして殺意を明確に見せられたのも。恐ろしさに体が自然と震えた。

 だが、弱みなど見せられるはずなど無い。助けにきたのに、その相手の前で怯えているところなど微塵も見せてたまるか。大切な、女の前で胸を張らずにいられるか。


「なるほど、それもごもっともな話ですな」


 直の虚勢を察してか、ブリュネールは同意を口にしながらも笑ってみせた。挑発が意味を成さなかったか、と直は歯噛みする。

 しかし――


「――っ!?」


 ゾワゾワとした奇妙な感覚を信じて直は横っ飛びに避ける。直後に再び雷鳴が轟き、眩い閃光が直の網膜を焼く。

 詠唱を聞き取る事無く。


「これならお気に召しましたか?」

「マジかよ……」


 威力は初撃に比べると弱い。だが、それでも直撃を受ければひとたまりもないのは抉り取られた地面を見れば一目瞭然だ。

 そして直を見るブリュネールの目元から笑みが消えた。


「クソッタレがっ!」


 直は悪態を吐きながらその場から駆け出した。陽芽とブリュネールの居る地点を中心とした円を描く形で疾走する。そしてその後ろを次々と落雷が襲い、逃げる直を追いかけていく。


「やめろ、ブリュネール! やめてくれっ……!」


 ブリュネールに縋る陽芽だが、ブリュネールは手を空に掲げたまま極めて短い詠唱を口ずさみ続ける。眼は絶えず直の姿を捉え続け、場違いな程に優しい眼差しを向けていた。


「く、そっ……」


 走りながらも直は必死で考える。いつまでもこの連続魔法が続くはずが無い。いつかは必ず隙が生じるはず。それまで逃げ続けるんだ。そうすれば――


「そうすりゃ……って、そっからどうしろっつんだよっ!?」


 近づいた所で見えない壁に阻まれて陽芽には届かない。壁をぶち抜こうとすれば思いっきり弾き飛ばされる。目の前に陽芽が居るのに、お姫様を救い出す手段はまるで検討がつかない。

 そんな風に思考に気を取られていたためだろうか。泥濘みに脚を取られ、直の体はバランスを崩してその脚を止めてしまった。


「しまっ……!!」


 声は雷撃に遮られた。

 雷槌が直の全身を貫いた。空気が破裂する音が鳴り渡り、膨大なエネルギーが直の体を傷つけていく。

 皮を切り裂き、赤い血が辺りに飛び散る。

 肉を焼き、焦げ臭い腐臭が付近を支配する。

 骨が軋み、傷つけられた神経が怒りを主へとぶつけてくる。

 喉は、悲鳴しか発しない。


「があああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」

「直ぉぉぉぉっっ!」


 全てが認識できない。何も思考が意味を成さない。ただ痛かった。痛みだけが今の直の全てであった。全身が痛い、頭が痛い、眼が痛い、鼻が痛い、耳が痛い、歯が痛い喉が痛い肩が痛い脇が痛い肘が痛い腰が痛い膝が痛い足首が痛い胃が痛い肺が痛い心臓が痛い脊髄が痛い脳髄が痛い何もかもが痛いただ痛い存在が痛い存在しているだけで痛いああ痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――

 痛覚の海にて直は溺れる。口から泡を吹いて昏倒し、体内に残留した電気が信号と誤認されて手足を小さく震わせる。


「直っ! しっかりしろ、直!」陽芽が泣き叫び、呼びかける。しかし直からの返答は何一つ無く、煙が焼けたシャツから立ち上るばかり。「死ぬな! 頼む、起きろ! 死なないで、死なないでくれ、直……」

「彼の事が大切ですかな?」


 壁に張り付いて直へ呼びかけ続ける陽芽への問い。陽芽は涙が零れそうな眼をキッと向け、射殺さんばかりに睨みつけた。

 その視線を受けてブリュネールは軽く嘆息し、祖父が孫を諭すように優しく語り掛ける。


「この事態はオースフィア様、貴女が招いた事なのですよ。それをご理解しておいでか?」

「……私のせいだと、ブリュネール、貴様はそう言うのかっ!?」

「左様です。オースフィア様が素直に私に従って頂いていれば少年は傷つかずに済みました。姫様が逃げ出そうとしたために少年も助けられると勘違いをし、私もつい年甲斐もなく熱くなってしまいまして些か過剰に痛めつけてしまいました。おまけに――」


 ブリュネールが空を見上げ、つられて陽芽も顔を上げた。空では結界がより濃い赤に染まり、まるで血の海の中で自分が漂っているような錯覚さえ覚える。


「魔法を行使するのに少々魔力を吸い上げてしまいました。元々はオースフィア様に納得頂くための材料でしかなく、吸い上げた魔力を使うつもりはありませんでしたが……もしかすると今の魔法で体の弱い者は命を落としたかもしれませんな」

「貴様……」

「これ以上私としてもオースフィア様のお怒りを買うのも本意ではありませんので……さあ、それでは孔へどうぞお入りください」


 ブリュネールの物言いに、陽芽は怒りに震えた。今すぐに目の前の男を八つ裂きにしてやりたかった。老人だろうとかつて国を支えた人物であろうと、出来ることならばこの男が今、直に対してしたことをそっくりそのままやり返してやりたかった。赤く全身から立ち上る魔力が如実にそれを表していた。

 だが今の自分は無力であった。孔に関する魔法こそ習得しているものの、本格的に魔法の学習を始める前にアズミルズへやってきた陽芽にその他の魔法は使えない。せいぜいが少々体の能力を強化する程度だ。今は孔を維持するために体の強化に回す魔力さえない。

 そして、悔しい事に自分が抵抗したからこそ直がやってくる時間を稼ぎ、抵抗したからこそ直が今、こうしてすぐ目の前で倒れ伏している事それ自体も事実であった。


「……」


 憤怒を内面に湛えて陽芽は立ち上がる。自分が居なければ、直は傷つかずに済んだ。こんなにも重傷を負わずに済んだのだ。ブリュネールの魔法が直接的な要因とはいえ、生徒を守るべき会長が生徒を守りきれなかった。かつても王族として国を守りきれなかった。

 自分は上に立つべき人間では無いのだ。自分の様な人間が傍に、上に居たが為にブリュネールも直も傷つくのだ。町の人が傷つくのだ。苦しむのだ。であれば自分など、ここにもエルミルズにも居なければいいのでは無いか。そんな思いが湧き上がっていき、怒りが鎮火して代わりに泣きそうになってくる。


「そうです、それで宜しいのです。貴女様は本来、こちらに居るべき御方では無いのですから」


 無言で孔へと歩き始めた陽芽に、ブリュネールは満足そうに微笑んだ。

 その最中で思う。なら、今自分に出来ることはなんだろうか。誰も彼も傷つけてしまう現在、少しでも被害が少なく済む方法。それは――


「自分が大人しくエルミルズに戻るしか……ない……」


 そうすればブリュネールはこれ以上被害を撒き散らす事は無いだろう。目的を果たしさえすれば余計な事はしない。かつての配下として、それくらいは信じたかった。


――そう、これが私が辿るべき運命なのだ。


 連れ去られた時も運命だと思ったが、直が来てくれたせいでまだ何とかなると思ってしまった。直が転校してきて以来、陽芽の主観として学校生活が変わり、失いかけていた活力を取り戻すことが出来た。たくさん助けてくれて、また頑張れる様になった。直が居るからこそ色々とまたやってみようと思えるようになった。

 だから、勘違いしてしまった。直に頼ってしまった。結果、彼は傷ついた。自分が彼を傷つけた。ならばもう受け入れるしか無い。それに、ユースティールから逃げるのにも疲れた。逃げても逃げても過去は夢の中でさえ追いかけてくる。抗うのも、もう面倒くさい。エルミルズに行けば逃げ場は無い。であれば逃げる必要もなくなる。すでに囚われているのだから。


「……待てよ」


 諦めた陽芽を呼び止める、声。陽芽は反射的に振り向きそうになり、しかしその衝動を必死に堪えた。振り向けば、弱い自分はまた微かな希望に縋り付きたくなる。彼が傷つく様を見てしまう。そんな姿、見たくない。


「こっち向けよ、先輩」


 全身を苛む激痛に、歯を食いしばって堪えながら直は立ち上がって陽芽に呼びかける。シャツは焼け焦げ、皮膚にはいくつもの火傷ができている。避けた皮膚から血が滴り、意識は気を抜くと飛んでしまいそう。だが直はしっかりと立っていた。


「もう立ち上がれましたか……中々頑丈な体の様ですが、その状態で……」

「うっせぇな。爺ぃは黙って茶でもすすってろ。俺は今、先輩と話してんだ」


 直の悪態にブリュネールは鼻白むも、直は気にせず陽芽に話しかけ続けた。


「何となくだけどさ、先輩が何考えてんのか大体分かるぜ。アンタ、自分のせいで俺がこんな目に遭ってるとか思ってるだろ」

「……」

「やっぱりか。まぁ、言っちゃあ何だけど、確かに先輩はエルミルズのお姫様だからな。先輩が居なけりゃまず俺もこんな痛ぇ思いはしなくて済んだだろうな。まったく、とんだ厄介なお姫さんだよ」

「……ひどい言い草だな。だが直の言う通りだ。私のせいでそんな怪我もさせてしまった。だから……」

「まあ聞けよ、先輩。いっつもアンタはそうだよな。好き勝手やりたい放題やって、いつだって一生懸命で、俺の迷惑なんて考えないで突っ走ってく。そのくせ、いざ自分の事を省みると落ち込んで他の奴に気を遣って謝って。気にするくらいなら最初っからすんなって思ってたよ」

「そうだ。私が居ると直にも、他の皆にも迷惑を掛ける……」

「だけど、だからこそ学校は面白ぇんだよな。何も起きなくてただ授業受けて帰って寝て。んでまた次の一日が始まる。平穏無事かもしれねぇけど、山も谷も起きやしねぇ。なら先輩くらいに迷惑掛けられてるくらいがスパイスが効いて楽しいんだよ」


 それは直の本心であった。面倒事を嫌い、日々の平穏を望むような事を口にすることが多いが、ただ生きるだけの生活を望んだわけではない。

 歳相応に笑い、泣き、怒り、喜ぶ。その為には少々の山谷があっても構わないし、あってしかるべき。それでこそ人生――彼の両親が半ばで失ってしまったものだ。

 だから学校に蔓延する無力感と怠惰の香りに苛々もするし、それがかつて両親を亡くした直後からずっと自分の身を支配していたからこそ直は嫌悪を感じていた。

 それを強引とはいえ吹き飛ばしたのが陽芽だった。陽芽が居たからこそ毎日「面倒だ」と口癖を口にしながらも休むこと無く登校を続けている。


「……ありがとう。しかし今回のはそんな話では収まらない事だ。私がここに居る限り、今回の様な事態がまた起きるだろう」

「んなこたぁ無えよ」

「あるんだよ。だから私はここには居ないほうが――」

「ざけたこと言ってんじゃねぇよ!」


 直は吠えた。悔しさに体を震わせ、突き刺さるような痛みを無視して陽芽に向かって叫んだ。


「どうしてアンタ一人が犠牲になろうとすんだよっ! 違ぇだろ! 今回だってアンタのせいじゃ無ぇ! そこの爺ィが勝手にアンタに期待して、好き勝手やりてぇ放題やってるだけだろうが! 元女王様だか王女様だか知らねぇけど、今のアンタは河合・陽芽だろうが! 俺らの会長様だろうが! オースフィアなんちゃらじゃネェだろうが! 立場が変わってまで何で老い先短ぇ爺の尻拭いをアンタがしなきゃなんねぇんだよ!!」

「あ、当たり前だろう? ブリュネールは私達にずっと尽くしてくれたんだ。やり方はどうあれ、忠誠には相応のもので返さなければならない」

「それが割りに合ってねぇっつってんだ! 国を亡くして、親も亡くして、それでもアンタは立ち直って新しい人生を掴んだんだ! 辛かったんだろ? 悲しかったんだろ? それでも頑張って頑張って、新しい一歩を踏み出したんだ! なのにそんな簡単に過去に未来を引っ張られてんじゃねぇよ!」

「簡単では無いっ!」


 堪らず陽芽は振り返って怒鳴り返した。


「どれだけ私が悩んだか直には分からないだろうっ!? せっかく手に入れた仲間を裏切らなければならない気持ちが分かるかっ!? ユースティールの国民に背を向けるということがどういう事か分かるかっ!? 国を背負った事の無い直には絶対に分かるはずがない!」

「わっかんねぇよっ! 分かるかよっ、クソッタレ!

分かるわけねぇ! けどさ……」直は歯を食いしばり、泣きそうな顔で叫んだ。「なら、アンタ、何でそんな顔してんだよっ!!」

「……っ」


 陽芽の息が詰まった。喉が震え、目元が熱くなる。苦しくて、息を上手く吸えない。


「そっちに行きたくねぇんだろ! こっちで生きていてぇんだろ! だったら諦めんな! 爺ィとかもう無くなった国を言い訳にしてんじゃねぇ! こっち手ぇ伸ばして叫べ! 俺がひっ捕まえてやるからよっ!」

「だ、だけどこれ以上皆に迷惑は……」

「迷惑? 上等じゃねぇか! アンタに付き合うって決めた時点でンなこたぁ覚悟してんだよ! だから、だから……コッチに戻って来やがれ!」


 もう我慢出来ない。陽芽は両目からポロポロと涙を零し、手を伸ばした。

――私はもうオースフィアでは無い。河合・陽芽なんだ。この世界に居たいんだ。

――だから、ゴメン。私は――ユースティールには戻れない。

 幾度も幾度も心の中でかつて自分を支えてくれた者たちに謝罪を繰り返し、ブリュネールの手を振り払って直の元へ走ろうとした。

 だが。


「ぐあっ……!」

「困りますな、せっかくお戻り頂く覚悟をして頂いたのに、変な未練を抱かせるような真似をされては」

「爺っ……!」


 ブリュネールの腕は何処にも触れていない。しかし陽芽に伸ばされており、その先にある陽芽の喉が何かに掴まれた様な跡が浮かんでいる。呼吸が苦しげに変わり、その何かを外そうと陽芽は両手で喉元を引っ掻くが、ただ空を切るばかりだ。

 腕を手元に引っ張る。それと共に陽芽の体が浮き上がってブリュネールの方へと引き寄せられ、その腕の中へと収まってしまった。


「どう足掻いても先輩を離さねぇつもりかよっ……」

「ええ。先ほどは随分と熱弁されてましたが、残念ながらすでにオースフィア様のご意思は問題ではありません。姫様にはお戻り頂く以外の選択肢を私は用意しておりません」

「ハッ! そうかよ。なら……」直は震える膝を叱咤し、重心を落とした。「こっちも力づくで奪い返してやるってなっ!!」


 直は駆け出した。ギリ、と奥歯を食い縛り、痛みを無視して飛びかかる。一歩踏み出す度に鋭い痛みが苛むがひたすらに耐える。

 拳を振り上げ、ブリュネールの展開した障壁目掛けて全力で振り下ろした。

 拳が壁にぶつかる。その瞬間、破裂音が響いて直の体が弾き飛ばされる。殴る力に比例するように後ずさり、だが直は怯むこと無く再び壁に向かって拳を叩きつける。


「何度やっても無駄ですよ。君の力では到底こいつを破ることはできません」

「やってみねぇと分かんねぇだろうがっ!」


 ブリュネールの忠告を一蹴し、弾き飛ばされ、泥濘の中に転がろうとも直は何度となく障壁を叩き続ける。

 何度も何度も何度も。殴る度に拳が破け、血が溢れる。叩きつける度に衝撃が全身を駆け抜け、しかしそれでも尚、躊躇うこと無く直は怒りを拳に乗せて壁を叩く。

 殴り、弾き飛ばされる。直の全身には傷が増えていき、堪らず陽芽は叫んだ。


「もういいっ……! もうやめるんだ、直っ!」

「うっせぇっ! 俺は諦めねぇ! 絶対に諦めねぇからな!」


 叩けど叩けど、障壁はビクともしない。傷つくのは直の拳ばかりで、何一つ変わらない。


「愚かな。まあ、いいでしょう。好きにしなさい。

 さて、それではオースフィア様。参りましょう」

「待ちやがれっ! くそっ! 何で……何で壊れねぇんだよ、この壁はぁっ!!」


 ブリュネールに引っ張られていく陽芽の姿が少しずつ遠ざかっていく。暗闇の中へ、手の届かぬ場所へと陽芽が吸い込まれていく。尚も拳を叩きつけ、肉が抉れていくが二人の距離は離れていくばかり。


(また、また俺は何も出来ねぇのかよ……!)


 今、陽芽の手を掴まなければ二度と会えない。その予感はきっと正しい。

 事故で両親を亡くした時にも薄れゆく意識の中で腕を伸ばした。父と母を救うため、崖下へ落ちていく車を見ながら手を伸ばし、だがどうすることも出来なかった。どうしようも無かった。眺めているしか出来ず、無力であった。


(いやだ……!)


 陽芽が振り返り、零れ落ちた涙が散って孔へと消えた。陽芽からも手を伸ばして助けを求めている。なのに直の手は届かない。たった一人の女の子を助けることさえ出来ない。


(置いてくなよ……!)


 出会った日からの陽芽との日々がめまぐるしく直の中を駆け巡る。たった数ヶ月。学年も性別も違う、本来なら交わることなかっただろう二人。しかしその出会いは直の人生を僅かながらに変えた。


(俺には……俺にはっ!)

 直は陽芽に惹かれていた。陽芽の有様に眼を奪われていた。いつだって限界を顧みずに全力でぶつかっていく陽芽の生き方に直は心奪われていた。

 それは恋心かもしれない。それは単なる尊敬かもしれない。だが両親の死のショックから生きる意味を、活力を見失いかけていた直を少しずつ変えていったのは、毎日を楽しみに思える様になったのは、直自身自覚はしていなくとも間違いなく陽芽の存在が大きかった。そんな陽芽を、失いたくない。

 だから直は叫んだ。


「俺にはアンタが必要なんだよぉぉぉぉっっ!!!!」


 直の中で何かが弾けた。

 それは祈りであり、願い。心の奥底から発せられた感情が、波紋を広げて奇跡を引き起こす。

 壁よ砕けろ、と幾度めかわからぬ右拳を振り上げる。そして振り下ろす直前、右足首のアンクレットが突如として光を発した。ズボンの下からでも辺りの暗闇を覆い尽くして白く染めてしまう程に強烈な光。背後からの異常な光景に、ブリュネールは思わず振り返った。

 光から発せられる強烈なエネルギーが直の全身を駆け巡る。全身が暑く、熱くなり、血が沸騰した様に体の内側から熱が溢れていく。脚から腕へ。

 その熱が目指すのはただ一点。壁目掛けて振り下ろされていく直の右手目掛けて収束していく。右拳に熱が集まるのも気にせず直はただ二人を隔てる壁を取り払わんと魂心の力を込めて振りぬく。


「なん、と……!」


 そして振りぬく拳の中に現れたのは一振りの剣だった。両刃の、無骨だが力強さを感じさせる光の剣だ。

 目の前の如何なる障害も取り払う、魔法の剣。それを迷わず直は振り下ろした。


――斬


 乾いた音が響く。

 直の振りぬいた剣が一層眩いの光を放つ。切先はブリュネールの障壁を抵抗なく斬り裂き、放出された魔力の刃は地面に描かれた魔法陣を破壊。そして、陽芽の隣のブリュネールをも容易く吹き飛ばしていく。


「ぬおオオォォォぉっ!?」


 ブリュネールの体が宙を舞う。向かう先は漆黒の孔の中。一切の抵抗を許されないままブリュネールは、本来彼が居るべき闇の中へと消えていく。

 だが――


「きゃああああぁぁぁっ!!」


 落ちていく直前に彼の指先から放たれた魔力の糸が陽芽の腕に絡みつき、ブリュネールに引っ張られて陽芽の体もまた孔の中へと落ちていく。

 視界に広がるは闇の中。遠ざかる光。しかし暗闇へ落下し始めた陽芽の腕を直は既のところで掴んだ。

 手は、今度こそ届いた。


「先輩っ!!」

「直っ!」伝わってくる力強さに喜びを覚え、しかし陽芽は心配した。「腕は大丈夫なのかっ!?」

「これくらい大丈夫ですよ! っていうか今はアンタの心配をしてろよ!」


 相変わらず先輩は自分の事は二の次だな。陽芽の温もりを感じ、直は思わず微笑んだ。

 だが、依然状況は逼迫。拳から溢れる血が掌を濡らして少しずつ陽芽の体が滑り落ちていく。せっかくここまでやったというのに――


「諦めてたまるかよぉぉぉっ!!」


 直は障害の残る左腕も孔の中に差し込んで陽芽の腕を掴んだ。


「ぐぅぅぅ……!」


 漏れる苦悶の声。絶え間なく突き刺されているかの如く鋭い痛みが直を襲い、それでも歯を食い縛って耐える。

 もう、いい。悲痛にも思える声を聞き、陽芽の口からそんな言葉が喉元までせり上がってくる。しかしながら音にはならず、陽芽はそのまま飲み込んだ。

 諦めない。直が途中何度も叫んだ言葉だ。今も激痛に耐えながら自分の為に全力を尽くしてくれている。そんな彼に安易な言葉など掛けてしまえば自分はきっと後悔する。そして、陽芽もまたアズミルズに残ることを諦めたくはなかった。


「オォスフィアさまぁ……私と、私と一緒にユースティールの再建を……」


 先ほどの剣戟で内臓を傷つけたか、ブリュネールは陽芽の腕を支えにぶら下がりながら口から血を零し、朦朧とした意識の中で呻くように願望を口にする。

 それは怨嗟だ。かつての無念を腹の底に溜めた末に溢れでた妄執だ。拒絶され弾き飛ばされて漸く老紳士の皮を突き破って出た醜くも切ない願いだ。足元の彼の姿を眼にして陽芽は苦しく、表現できない悲しいものがこみ上げてくるのを禁じ得ず、だから彼女は最後に一度その様を目に焼き付けて頭上の直を見上げた。

 何としてもこの世界に留まる。留まって過去では無く未来を歩き続ける。その為に、今自分が出来ることは無いか。陽芽はこれまでの人生の中でもっともめまぐるしく思考を巡らせた。


「くっそぉ……!」


 ヒラメキの兆しは頭の中でうずき始める。しかし妙案が陽芽の中で芽生える前に直の腕は限界を迎えようとしていた。再び滑り落ち始める陽芽の体。陽芽と直の表情に絶望が浮かび始める。

 だが陽芽の腕が別の手で掴まれる。


「凛ちゃんっ!」

「ごめんなさい、待たせたわ」

「すまないね。倒しても倒しても起き上がってくるもんだから、少々手こずってしまったよ」

「レイっ!」


 直の横に並んで凛が陽芽の腕をしっかりと掴み、更にその後ろでアストレイが二人の脚を支える。心強い、信頼出来る二人が共にいる。直と陽芽は、体に力が戻ってくるのを強く感じ、互いに頷きあった。

 しかしその直後、辺りの空気の流れが変化した。


「な、何だ?」


 孔の縁が生物の様に蠢き、不規則に波打ち始めた。そうかと思えば孔が徐々に縮小していく。同時に、それまで吹き荒れていた風の勢いが増して、寝そべる形の直と凛の体も孔の中へと激しく吸い込み始める。


「おいっ! 落ち始めてんぞ!」

「くっ……これは、ちょっときつ、いかもね……!」


 細身であるアストレイも、直たちの脚を持ったまま必死で耐えるが口から弱音が漏れ始める。両足を前に投げ出し、綱引きの体勢で支え続けるも、踵の跡が刻まれて少しずつ引きづられていく。


「何だってんだよ、チクショウっ!」

「孔が、くっ、不安定になってるのよ! 魔力が足りないんだわ!」


 世界を繋ぐ孔は開くだけでなくその維持にも膨大な魔力が必要となる。個人としては破格の魔力を持つ陽芽だが、すでに維持に必要なだけの魔力は残っていない。


「だめっ……! こ、のままじゃ孔に挟まれて、しまう、わ……!」

「何とかなんねぇのかよ!? 凛ちゃんも先輩も! 何か案は!?」

「このままじゃ何ともならん! 魔力……魔力さえ回復できれば……!」


 だが孔を安定させるにも、今ある三人の魔力量では到底足りない。ブリュネールが行った様に周囲の人間から魔力を借りるにしてもすでに直によって魔法陣は破壊されてしまった。

 万策尽きたか。そんな考えが直、凛、そしてアストレイの頭に過ぎり始めたその時、思考を巡らし続けていた陽芽の脳裏に閃きが走った。


「首飾りだ! 首飾りの宝石を私に!」

「っ! そうか! レイっ!!」

「承知したっ!!」


 直が叫ぶよりも早くアストレイは陽芽が立っていた辺りを見渡した。暴風で様々なゴミが飛んで来る中、泥に塗れながらも輝く宝石を見つけると直に向かって叫ぶ。


「小野塚女史、直っ! 一瞬手を離すから踏ん張ってくれっ!」


 言うが早いか、アストレイは素早くそれを拾い上げて宝石を引き千切った。


「直、頼む!」


 アストレイから宝石を手渡され、直は陽芽の口へと宝石を放り込んだ。

 先ほどと同じく陽芽の全身が一瞬発光し、魔力が漲っていく。自身の魔力が完全に回復したのを確かめると陽芽は呪文を口にした。それに伴って孔の縮小は止まり、吹き込む風も勢いを弱める。

 陽芽は最初の役目を果たした事で胸を撫で下ろし、しかしそれも一瞬。決意を胸に彼女は足元を見下ろした。


「オースフィア様……どうか、どうか私と共にユースティールへ……」

「ブリュネール」


 うわ言を呟き続けていた、足元でぶら下がる配下を陽芽は呼ぶ。ブリュネールは、見るものに怖気を誘う程に狂気に染まった眼を陽芽にぶつけ、陽芽はそれを真っ向から受け入れる。そして慈愛と謝罪を眼差しに乗せ、口を開く。


「私の声が聴こえるか、ブリュネール」

「はい、はい……聞こえております。ついに私と共に王国へお戻りになられる決意をして下さったのですね……?」

「その問いに応える前に私からも質問をさせて欲しい。良いか?」

「何でしょうか? オースフィア様からのご下問であれば何でもお応え致しましょう」


 喜色を満面に浮かべるブリュネール。陽芽は刹那だけ泣きそうな顔を浮かべると、強い決意を抱いて聞きたかった事を尋ねた。


「民は……ユースティールの民は今、どうなっている?」

「彼らでしたらご安心下さい。帝国の支配下にこそなっておりますが、戦後も大きく数を減らすこと無く、彼らは皆無事で健やかにオースフィア様のお帰りをお待ちしております」

「……城下の町は賑わっていたか?」

「ええ、帝国人連中が大手を振っておりますが、以前と変わらず活況を何とか維持しておりますよ。皆、オースフィア様をお待ちです。ですからオースフィア様が戻られたと知れば、多くの方々が……」

「そうか」


 ブリュネールが回答を終えるのを待つこと無く陽芽は遮った。

 返答をするや否や、残った魔力を指先に収束させ、手首だけを使って高密度の魔力刃を飛ばした。

 それは唯一、ブリュネールから教わった魔法だった。万一囚われの身になった時に脱出できるようにと教えてもらったもので、魔法と呼ぶには余りに拙い。魔力の変換効率などを考えず、未熟な陽芽でも扱えるよう多くの魔力を消費してただ魔力の刃を飛ばす。それだって柔らかい布や紐程度しか切れず、しかしながら魔力の糸であれば元が同じ魔素故に容易く切断できるという代物。今は、それだけで十分だった。

 陽芽とブリュネールを繋いでいた魔力の糸が切り落とされる。その事実がブリュネールは理解できず、呆けた眼を陽芽に向けたまま暗い孔の底へと落ちていった。徐々に小さくなっていく、かつて王国に多大な貢献をした者の姿を陽芽は見えなくなるまで見届けた。


「……アズミルズへ来て分かったんだ、ブリュネール。民を統治する王族は必ずしも必要ないって。ユースティールでも帝国でも、日々を生きる人々には関係が無いのよ。毎日が平和で、衣食が足りさえすれば国の名前が変わろうとも、誰が国を統治しようと構わない。ただ、彼らが毎日を明るく生きてさえいてくれれば……ユースティールの名前に拘る必要はないのよ」


 だから、と陽芽は独白を区切った。孔の中には大粒の涙が落ちていった。


「ごめんなさい、ブリュネール、そして皆……それから、ありがとう……」




◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




「せーのっ!!」


 掛け声に合わせて三人は腕に力を込めた。

 引っ張るにつれて白く細い腕が孔の中から生え、地面との縁を掴む。もう一度声に合わせて引っ張り、ようやく陽芽は孔から脱出することが出来た。


「あー……疲れた」


 直は精魂尽き果てた、とばかりに地面に大の字で寝そべった。全身が雨と泥と汗でぐちゃぐちゃのドロドロなのでこれ以上汚れを気にする必要も無い。おまけにブリュネールの雷撃を食らったおかげでシャツもズボンもボロボロである。

 お気に入りのシャツだったんだが、と直は取れかけの袖を見ながら落胆した。だがこうしてシャツの一枚に一憂できるのも全てが無事に片付いたからだろう、と言い聞かせる。

 頭上を覆っていた結界はすでに無く、雲もいつの間にか何処かへ行ってしまって今は満点の星空が広がっていた。都会の狭い空だが、こうして外で寝てみるととても綺麗で吸い込まれていきそうだ。いつか、皆で山に星空でも見に行きたいな。たいして星に興味も無い直だが、今はそう思えた。

 つらつらとそんな思考を巡らせていた直だったが、不意に全身から痛みが湧き上がってくる。拳や左肩だけでは無く、両足の筋肉や骨、肋骨に腹筋と背筋に首関節。頭痛もそうであるし挙句には胃や肺まで全身くまなく悲鳴を上げてこれまでの酷使に抗議してきた。自分という存在は肉体全般を統括するが、自分が内臓や筋肉だとしても盛大にストライキを実施するだろうな、と全身の抗議活動に理解を示した直は寝そべったまま動くことを放棄した。

 したのだが――


「直っ!」

「ぐほぉぅっ!?」


 疲労と痛みで意識すら放棄しそうになっていた直に対して、死体蹴りとも言うべきタックルをかましてきた誰か。衝撃をダイレクトに食らった胃はしばらく活動してくれまい。

 頑張った自分に対してこんな仕打ちをしてくるのは一体誰だ、と傷害事件の犯人の顔を確かめようとした直だが、すぐに気づく。

 首に回された白い細腕。泥や砂ですっかり汚れてしまっているが、手入れがされているのがよく分かる長い黒髪。そして自分の胸に押し付けられている豊かで魅力的な弾力がある膨らみ。


「先ぱ――っ」


 抱きついてきた人物の呼び名を口にしようとして、しかし直は名を呼ぶことが出来なかった。何故なら――


「直、直っ……!」


 直の口は陽芽の唇で塞がれてしまったのだから。


「やれやれ。まあ仕方無いか」

「……今回だけは特別に許してあげます」


 突然始まった濃厚なキスシーンにアストレイは呆れながらも楽しそうに肩を竦めてみせ、隣の凛は口では許すと言いながらも絶対零度とも表現すべき極寒の視線を直に情け容赦無くぶつけている。

 だが当の直本人はそんなもの関係無かった。


「ありがとう、ありがとう、直……! 君が居なかったら私は……直?」


 感謝を口にする陽芽だったが、目の前の相手の反応がおかしい事に気がつく。

 直は呆然として陽芽を見ているが、目の前で掌をヒラヒラと振ってみても視線が動くことはない。


「どうした、直?」


 直の顔を覗き込む陽芽。と、直の首から順に目に見えて赤く染まっていき、頭の先まで茹でダコも真っ青な程に真っ赤になって。


「あ、倒れた」

「強面の見かけによらず、ウブなのね」

「直ぉぉっ!?」


 陽芽が抱き起こして全力で揺さぶるが、白目を剥いた直の首が前後に激しくぷらぷらと揺れるだけである。

 取り乱した陽芽の全力の揺さぶりは、さすがに直の首がそろそろヤバイと思った凛とアストレイの二人から必死で止められるまで続いた。解放された直の顔色はひどい状態になっていたのだが――


「まったく……」


 その表情はひどく満足そうに微笑んでいた。



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