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四十ニ時限目 何とか戻ってきました(その2)


 ――意識を失っていたのはどれくらいだっただろうか。


「う……」


 バシャバシャと冷たいものが顔を濡らしていって、耳元ではザアザアとうるさいくらいにノイズが走っていく。全身を蝕む気怠さと微かな痛みに俺は眼を覚ました。


「ここ、は……」


 顔をしかめながら体を起こして辺りを見回す。チカチカと明滅を繰り返す街灯とそれに照らされる見慣れた家々。塀の奥からは茂みが所々で顔を覗かせていた。それですぐに分かった。

 アズミルズに、戻ってきた。


「はは……」


 土砂降りの雨に打たれて全身ずぶ濡れだが、そんな事は関係ない。もう戻ってこれないかもという絶望感が完全に取り除かれてホッとしたせいか、勝手に笑いが溢れ出てくる。

「良かった……」


 本当に良かった。いやもう、二度と雅やら咲、先輩に会えないかと思うとどうしようもなく不安だったが帰ってこれた。なんだか熱いものがこみ上げてきて、目頭がどうしようもなくって、溢れ出てくるものを洗い流せとばかりに俺は空を仰いだ。

 時間は夜。そんな時間でも分かるくらいに分厚い雲が空を覆っていて、だけども今はそんな空さえ愛おしく思えた。


「……どうやら…戻れたみたいね」


 隣で俺と同じく倒れていた凛ちゃんも起き上がる。二人して服はびっしょりで、凛ちゃんもメイド服がぴっちりと体に貼り付いてラインが顕になっているが、そんな事はどうでもいい。とにかく今は帰還を喜ぼう。

 なのだが。


「ここは何処らへんだ?」


 並び立つ判で押したように似た作りの日本家屋はどう穿って見てもエルミルズでは無くてアズミルズなのだが、俺が最初に落ちた孔があった場所とは違う。

 あの時はマンションとマンションの間の路地で、今俺らが居る場所も路地なのだがもっと広くて明るい。明らかに場所が違う。


「少し場所がずれたみたいね。だけど家からはそう遠く無いわ」


 言われてよく見てみればウチの近所だ。先輩ん家に向かう途中で通り過ぎた記憶がある。たぶんウチまで歩いて五分も掛からないはずだ。


「でもエルミルズで作った孔の場所は同じじゃないんですか?」

「アズミルズとエルミルズの時空は必ずしも一致しないわ。同じ時間、同じ場所で孔を繋げても多少のズレは生じるの。さすがに市や国を跨ぐ程にズレないはずだけど、もし何かの手段で無理やりこじ開けたりした場合は孔の途中で時空がねじれて全然違う場所に出ることもあり得るし、最悪の場合は世界の狭間に閉じ込められる可能性もあるけれど」

「……サラッと恐ろしい事言わないでくださいよ」

「ユースティール王国の魔法で開けた場合は大丈夫よ。今みたいに多少ズレるかもしれないけど、少なくともどちらの世界にも脱出できなくなるような事態は起こらないわ」


 なら良かった。あんな黒だけの世界で一生を終えるなんて想像するだけでゾッとしねぇ。


「武内クンがこんな時間に何故外出していたのか、理由は詮索しないけど今日は帰りなさい」

「そっスね……」


 夏とは言ってもこんだけ濡れりゃ随分と体も冷える。異世界に飛ばされるは、囚人になるは、そしてまた戻ってくるわはで俺も疲れた。これまでの人生で培ってきた常識が遥か彼方に蹴飛ばされた後にストンピングされてジャーマンスープレックスかまされたようなもんだ。アズミルズやらエルミルズやら、凛ちゃんがまさかの人生を送っていたとか、何となく受け入れては来たものの完全に消化不良である。ただ状況に流されてきただけに過ぎない。


(たぶん落ち着いたら色々疑問が出てくるんだろうなぁ……)


 風呂入って体温めてあったか~い布団に包まれれば逆に興奮して眠れなくなること間違いなしである。それどころか俺の方が雅を抱きしめて離さんかもしれん。ウザがられないように注意しなければ。

 だがその前に。


「それじゃあ帰ります……ありがとうございました」


 きちっと礼は言わなきゃな。


「凛ちゃんが来てくれなかったら俺、もしかしなくても二度と皆に会えなかったかもしれません。

 本当ならもっとしっかりとお礼したいんですけど……」

「……いいのよ。私は貴方の担任だし」

「だけど……」

「それに……」眼鏡を外して目元の雫を拭って、いつものホワホワとした笑顔を浮かべながら言った。「私が私と同じ目に合わせたくなかっただけ。だから、気にしないで」


 ……ズリぃよ、凛ちゃん。そんな顔で言われたらもう何も言えねぇじゃん……

 だから俺は凛ちゃんに向かって深々と頭を下げた。それを見ると、担任としての顔をまた奥に隠して凛ちゃんは俺に背を向けた。先輩も風邪で寝てることだし、いつまでも俺のわがままで引き止めてる場合じゃねぇしな。

 あ、そういやぁ……


「凛ちゃん!」


 せめて最後にこれくらいは確認しとかなきゃな。


「先輩は……先輩の様子はどうですか? 快復しそうですか?」

「……そうね。良くはなってるけど、もう少し時間が掛かると思うわ」

「風邪、なんですよね? その、入院が必要だったり命に関わったりするようなのじゃないんですよね?」

「心配しすぎよ」優しく凛ちゃんは俺に向かって笑いかけた。「ちょっとひどいけどね。間違ってもあの子の命がどうこうなる程の重病じゃ無いから。安心して」


 そっか。ならいいんだ。

 あからさまにホッとした表情を浮かべてたんだろう。凛ちゃんは嬉しそうに微笑んでくれた。うん、凛ちゃんもやっぱりそうやって笑ってる方が良いよな。エルミルズだと頭が上がんねぇ程世話になったけど、あんな冷たい顔よりもこっちの方が似合ってる。クラスのマスコットだしな。


「あっと、それとちょっと待って下さい。ウチが近いんで傘とタオル持ってきます。そのまんまじゃ凛ちゃんも風邪引いちゃいますよ」

「大丈夫よ。私はそんな柔な鍛え方してないから」

「まあまあ。それは何となく分かりますけど、ずぶ濡れですし先輩も心配しますから。病人を心配させるのは凛ちゃんも嫌でしょ?」


 せめてこれくらいはさせてくれよ。そう思いながらお願いすると少し困った顔をしながら凛ちゃんは頷いた。


「じゃあちょっち付いてきてください。走れば一分も掛かりませんから」


 そう言って走りだそうとしたその時、ポケットの中でスマホが震えた。

 はて、こんな時間に誰だろうか。雅か? 凛ちゃんの話だとアズミルズとエルミルズで時間が一致してないってことだからアズミルズでどんだけ時間が経過してんのか分からんが、それなりに遅くなってるだろうから心配してんのかもしれん。

 家に向かって歩きながらスマホを取り出すと、そこに表示されてたのは雅では無く深音だった。

 珍しいな。なんだ? もしかして何か分かったのか?


「もしもし、深音か? どうした」

『ああ! やっと通じた! どうしたじゃないわよっ! どんだけアタシが電話かけたと思ってんのよ! 居るんなら一発で出なさいよっ、このバカたれっ!!』


 受話器ボタンを押して耳に押し当てた途端、出迎えてくれたのはこの罵声である。すまない、俺にはごっちんみたく罵られて喜ぶ趣味は無いんだ。


「ワリィ、ちょっと手が離せなくてな。それよりどうした? 何か分かったのか?」


 まさかここで「違う世界に小旅行してました」とか言っても信じまい。あの兵士みたく頭のおかしい人扱いされてオシマイである。

 緊張から解放されたせいか、深く事情をツッコまれたら適当にお茶を濁してしまおうなどとのんびり考えていた俺だったが、そんな俺に返ってきたのは呆れた様な、それでいてひどく切迫した様に落ち着きのない深音の声だった。


『確かに凄いことが分かったんだけど、ああもう、なんでそんなに落ち着いて……いや、ぴょん吉は知らないんだから当たり前か。落ち着け、落ち着きなさいアタシ』

「……おい、何かヤベェ事でも分かったのか?」

「……ええ、そうよ。いや、まだホントか分かんないかも。嘘かもしんないし……」


 声が上ずっていて話す内容にもとりとめがない。電話の向こうで髪をかきむしってるのが容易に想像できるくらい明らかに取り乱してる感があるんだが、珍しい。つまり、そんだけヤベェ事があったって事か。


「いいからとりあえず話してみろ、深音。内容が嘘かホントか分かんなくてもいいから教えろ」

「……そう、そうよね。あのさ、落ち着いて聞きなさいよ?」

「分かったから早くしろよ。こっちだって暇じゃねぇんだよ」

「えっと、単なる悪戯かもしれないんだけど……」


 電話越しに深音が息を飲んだ音が聞こえた。


「河合先輩が……誘拐されたかもしんない……」





☆★☆★☆★☆★☆★




 雨はよりいっそうひどくなっていく。遠くからは耳をつんざく雷鳴がひっきりなしに響いて、ほら、今も何処かのビルの避雷針目掛けて落ちた。

 前が見えないくらいの豪雨の中、スマホを握りしめて俺と凛ちゃんは先輩の家へと全力で走っていく。雲の中を切り裂く様に白い光が駆け巡っていく。そして夜を昼間だと錯覚させんばかりの閃光。世界中をあっという間に光は突き抜けていくが、ああクソっ、俺もアレくらい速く走れたらなあっ! 牢屋の鉄格子は蹴破れたっていうのに何だってこんな時に人の枠を越えられねぇんだよ!


「はあっ、はあっ! それで、その相手は何て言ってたんだ!?」

「別にそれだけ――」

「ああっ!? もっとデカイ声で頼む! 雨がひどくて全然聞こえねぇんだよ!!」

 耳が痛くなるくらいにスマホを押し当て、走りながら深音に怒鳴った。自分の足音と叩きつけてくる雨音、それと激しく鼓動する心音。そのどれもがうるさくて深音の声が聞き取れない。


「だからっ! そんだけ、そんだけよっ! 誰かが突然チャットに割り込んできてただ『陽芽が誘拐されるわ』ってだけ書き残して居なくなったのよ!」

「単なる悪戯とか嫌がらせの可能性はっ!?」

「私だってそれは思ったわよ! だけど河合先輩に電話してみても繋がんないし、凛ちゃんも繋がんない! 嫌な予感するから家が近いアンタに確かめてもらおうと思ってもアンタはアンタで繋がんないし……」

「……ワリィ」


 相当不安だったんだろう。電話の向こう側で叫ぶ深音の声は少し涙ぐんでるように聞こえた。

 気休めでしかない謝罪を口にし、深音に伝えられたチャットが単なる悪戯である事を切に願いながら真偽を確かめるために走る。だが、きっとその情報は真実だ。

 何故なら、その情報を伝えた途端に凛ちゃんが血相を変えたからだ。

 俺の制止などに一切聞く耳を持たず、真っ青な顔で走り出す。先生としての凛ちゃんでは無く、俺を助けだした時みたいに冷静な凛ちゃんでも無く、泣きそうな顔で先輩のウチに向かっていく。

 これまで俺の中で培われてきた凛ちゃんであれば、まず確認を取るはずだ。慌てず急がず、もちろん走って家には戻るだろうが出来る限り落ち着いて事の真偽を確かめようとするだろう。

 だけど今の凛ちゃんの耳には何も入っていかない。俺が追いかけているのも気づいているかどうか。そんな凛ちゃんを見れば俺だって分かる。

 先輩が誘拐されたと信じるに足る背景があったのだ。


「だから先輩と凛ちゃんは休んでたのか……!」


 危険を何らかの経路で察知した先輩達は外出を避けた。もしくは危険を逃れるための方策を練っていたのか、そこまでは想像は及ばない。だが実際に危機はそこにあり、そしてそれは実行に移された。だとしたらそのきっかけは恐らく――


「俺が原因かよっ……!」


 凛ちゃんが先輩の傍を離れたからだ。俺を助けるために。俺をエルミルズから助けるために先輩が一人になったんだ。何てクソッタレなんだ、俺は!

 だとしたらあの猫野郎、いや猫女か? どっちでもいいがアイツもグルか。アイツが俺をエルミルズに連れて行き、凛ちゃんが俺を助けるように仕向けた。凛ちゃんの戦闘力はパネェからな。だからできれば凛ちゃんと先輩を引き剥がしたかったんだろう。

 で、先輩が一人になった瞬間を見計らってまんまと先輩を連れてったってわけか。全く腹立たしくて自分を殴りつけたくなっちまう。


「ともかく、凛ちゃんと今、先輩ん家に向かってる。だからそんな心配すんな」

「う、うん……って、え? なんでアンタと凛ちゃんが一緒に居んのよ?」

「偶然外で会っただけだ。それよりスゲェ事が分かったんだって? 一体何をごっちんは探り当てたんだ?」


 これ以上突っ込まれたくはないので話を逸らす。それに、もしかしたらこの誘拐、先輩と探してる女の子が関係してるんじゃないかと俺は直感した。

 誘拐した人物の目的は先輩じゃなくって実は女の子の方で、その女の子の行方を知るために事情を知っている先輩を連れ去ったんじゃないだろうか。そう考えた。話しっぷりから先輩は女の子とは親しいし、頑なに俺に説明しようとしなかった事からも事情も理解してそうだ。女の子を探してる連中はやばそうな奴らだっていうのが俺らの中の結論だったし、そいつらの魔の手が先輩に及んだに違いない。


『陽芽に気をつけなさい』


 フローラは知ってたんだ。そいつらが先輩に接触しようとしてたって事に。だから俺に警告した。俺に、先輩を守らせるために。どうしてもっと早くそれに俺は思い至らなかったんだよ! 自分に苛々する。

 だが、深音が伝えてきた内容はそんな俺の想像を凌駕した。


「似てるのよ……」

「はぁ? 何だって?」

「似てるのよ! ごっちんが女の子の成長した姿のモンタージュをアタシに送ってきたのよ!」

「女の子が誰に似てるって!?」

「先輩よ!! 何枚か送りつけてきたんだけど、その内の一枚が……河合先輩にそっくりなのよ!!」


 それを聞いた途端、俺の頭の中は真っ白に塗りつぶされていった。




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