六十二 たとえ死すれども
治承4年12月に入ると、畿内では興福寺が反平家の姿勢を明確にする。
畿内の反平家勢力が軒並み潰されていたこともあり、これまで沈黙していた興福寺だったが、相次ぐ平家の敗北と飢饉に乗じて蠢動をはじめたのだ。
清盛は即座に四男平知盛を大将として軍を派遣。
その圧力で興福寺を抑えようとしたが、平家を侮った僧兵たちは使者の首級を挙げて投げ返す。
「……仕方あるまい。悪僧どもに報いを受けさせよ」
穏当に事を治めることをあきらめた大将、平知盛は、僧兵たちの集まる宿坊に対する焼き打ちを指示する。
だが、放たれた炎は、おりからの強風にあおられて燃え上がり、興福寺や東大寺にまで延焼する大火となる。
悪いことに、本殿には狼藉を恐れた周辺住民が避難しており、数千人が炎に撒かれて死んだ。その様は焦熱地獄に例えられ、都の貴族たちは言葉を失った。
「ともあれ、だ。南都の圧力は消失した。根こそぎ、ね」
情勢を見つめながら、清盛は言う。
「つまりは、しいて福原に居る理由も消失したってことだ」
清盛は、地方大乱の鎮圧に本腰を入れるため、首都機能の充実した京の都に戻ることを決断。院と帝を伴い、12月下旬に京入りする。
明けて治承5年1月30日。高倉院が病を得て崩御する。
平家と結び、治天の君として君臨していた高倉院の死は、平家の専制に動揺を与えた。
政務を途切れさせないため、清盛はやむを得ず後白河院政を復活させる。
院庁を平家恩顧で固めたものの、清盛、後白河院両者の溝は決定的であり、先行きの不安はぬぐえなかった。
◆
清盛に休む暇はない。
四国、鎮西の反乱鎮圧は順調だが、北で生まれたあらたな脅威への対策を打たねばならない。
「源義経……それに、奥州藤原氏はなんとしても止める」
平家にとって、飢饉を逃れた北陸は生命線だ。
その北陸を、義経軍は急速に侵しつつある。冬までのわずかな間に、越後、そして越中東端にまで至っている。驚異的な侵攻速度である。
だが、それ自体が異常事態だと、清盛は見る。
この狂奔のような侵攻には、あの奥州王――藤原秀衡の意志が見てとれない。
――ボクの知る彼ならば、ここで軟の一手を混ぜる。侵攻の裏で、交渉の手を差し伸べて来るはずだ。
だというのに、奥州からの便りがない。
これは、源義経の制御に自身が持てないためだろうと、清盛は考える。
いざというときは切り離せるように、義経の持つ院宣に従っただけだと言い抜けられるように、義経との連携をあえて断っている。そう読んだ。
――ならば、逃げ道を塞いであげようじゃないか。
清盛は後白河院と会って願う。
「治天の君。源義経の始末はあなたの手で。奥州に、叛徒との関係を断つよう、院宣を」
「う、うむ」
清盛の鬼気迫る表情に、後白河院は気圧される。
どのみち、周りを固められて身動きは取れない。
後白河院は、清盛の要請を聞き入れるしかなかった。
◆
2月末。
清盛は高熱を発し、床に伏せた。
それでも清盛は止まらない。
たっての願いで、八条院を病床に招いた。
「――清盛さん。大丈夫?」
平家家人の刺すような視線を一身に浴びながら、八条院は平然と清盛を見舞った。
「これは、八条院。こんな格好で申し訳ない」
熱に浮かされながらも、清盛の言葉は明朗だ。
「――それから、家人の無礼も、謝らせていただきたい」
「ええよええよ。気にせんとって」
針のむしろだというのに、八条院は意に介さない。
たいした事ない、とでも言うように、彼女は鷹揚にうなずいて、それから首を傾けた。
「でも、清盛さん。わざわざうちを呼んだのは、なんでなん?」
「あなたとは、最後に一度、話をしておかなくては、と思いましてね」
「最後って」
「八条院」
清盛はあらためて、八条院に柔らかい笑みを浮かべて、言った。
「そろそろ悪さは止めていただけませんか?」
八条院は、調停に反旗をひるがえした以仁王と北条政子を猶子に持ち、また全国に数百に及ぶ荘園を持つ大資産家である。
八条院が、全国の反乱を指示しているのではないか。そう疑う者も居る。
それゆえの清盛の言葉に、八条院はまた首を傾ける。
「悪さ? うちはなんにもやっとらんよ」
「うん、知ってます。一門の手前、言っておかなくてはいけなくてね。御無礼を」
「ええよ」
床に身を横たえながら、目を伏せて詫びた清盛に、八条院は微笑んで水に流した。
「では、あの娘に、矛を収めるように説得してもらえませんか?」
あの娘、とは、もちろん北条政子のことだ。
猶母である八条院の言葉なら、彼女も従うかもしれない。
清盛は、それが甘い観測だと知っている。
しかし、それでも、言っておかなくてはならない。
だが、やはり。清盛の言葉に、八条院は首を横に振った。
「そこまでする義理はないよ。うちも息子たち――以仁王ちゃんや頼朝ちゃんを殺された事、良うは思っとらんし」
きっぱりと拒絶されて、清盛はため息をついた。
この国難の折に、と、非難することはできない。
北条政子は以仁王の令旨を奉じており、その敵は君側の奸、平家だ。
名目上は後白河院も、八条院も、北条政子の敵ではない。彼女が勝ったとしても、神輿の担ぎ手が変わる、くらいの認識なのかもしれない。
平家と違って、皇室はそれで通るのだ。
考えて、清盛は一抹の不安を覚える。
本当に、それで通るのだろうか。
無言の時がしばらく続き、それから、清盛が口を開く。
「……皇統をお守りください。それはおそらく、あなたの義務だ」
清盛の言葉に、八条院はやさしい微笑を返した。
「言われんでもわかっとるよ。まかしとき」
◆
閏2月。
いよいよ清盛の病状が差し迫ったものになる。
一族が集まり、あらゆる祈祷が行われたが、効き目がない。
そんなある日、同じく病床にあった平重盛が、清盛を見舞いに訪ねてきた。
「やあ、重盛。地獄に片足を突っ込んでいるような顔だね」
「なんの、まだまだ。父上こそ」
崩れるようにしてあぐらをかいた平重盛は、浅い呼吸を繰り返す清盛をじっと見守る。
しばらくして、清盛が口を開いた。
「……重盛。ボクはいま、熱病でまともな状態じゃない。そう思って聞いてくれ」
「……はっ」
疲れたように、床に片手をつきながら、重盛がうなずく。
「北条政子。あの娘は、ボクの敵だ」
清盛は語る。
「――だけど、北条政子の敵は……ひょっとして、ボクたちじゃないかもしれない」
「なにをおっしゃいます」
重盛が眉をひそめた。
常識的にはあり得ない。
北条政子は平家打倒を謳っているし、実際平家方の豪族や武将、平家の追討軍を倒してきている。
「……そうだね。どうであれ、あの娘はボクの敵だ……だけど、重盛。覚えていてくれ。ひょっとしたらそれが、平家を救うことになるかもしれない」
「はっ……もっとも、俺もあとどれほど生きていられるか、わかりませんが」
重盛は力なく笑った。
声に力はないが、目は生きている。
――重盛は生きるだろう。
確信して、清盛は口の端を笑みの形に曲げた。
◆
その日の夜、いよいよ命旦夕に迫った事を悟った清盛は、家人に身を支えさせて、集まった者たちに語りかけた。
「みんな。どうやら明日の日は拝めそうにない。だから言っておく。ボクの葬儀は無用。いまは国難の時だ。惣領の宗盛を中心に、平家のために精一杯努めなさい」
微笑を浮かべながら、清盛は語る。
「平家に敵は多い。生者だけじゃない。死者にも、敵は多い……だけど、恐れることはない。死者はボクが引き受けよう」
祟り。
讃岐院(崇徳院)や院近臣、園城寺や南都。
死者の恨みが、皇室を、都を、平家を祟っている。
続く天災や疫病、人の死が、都人に祟りを信じさせている。
だから清盛は、平家にかけられたその呪縛を解くために、最後の力を振り絞る。
「平家に仇なす怨霊は、ボクがすべて滅ぼそう。平家に落ちる天罰は、ボクがすべて引き受けよう。たとえ冥府魔道に堕ちたとしても、魔縁となって、ボクはキミたちの敵を滅ぼし続けよう……案ずるな。臆するな……キミたちにはボクが……ついて、いる……」
言葉が途切れる。
空恐ろしいまでの沈黙が、あたりを支配する。
清盛は、もう口を開かない。
その日、ひとつの時代が終わった。
平家一門の、地を震わせるような哭声にも、天は応じず雨を降らさない。




