五十六 彼方より愛を込めて
治承4年(1180)10月22日、夕刻。
富士川の合戦に勝利した政子は、逃げる追討軍をひたすらに追った。
追いに追い続けて、ようやくその足を止めたのが、二日後の24日。すでに政子たちは遠江国にたどり着いていた。
国境を流れる大井川に追い落とされ、溺れた平家の武者、多数。
「よし! 追撃はここまでぞ! あとは街道から逃げ散った残党を狩る! 各々散れいっ!」
戦の後始末を命じると、政子は手勢を引き連れ、富士川の陣に戻った。
「尼御台しゃま、おめでとうごじゃりまする!」
真っ先に迎え出たのは、90近い高齢を押して従軍していた三浦義明だ。
源義朝の舅で、頼朝の義兄、悪源太義平の祖父にあたる。
流人時代の頼朝に好意を示した数少ない人物であり、政子に対しても、自らの居城を提供するなど、協力を惜しまない好々爺だ。
「おう、三浦のジイ。勝ったぞ。大勝利である!」
上機嫌で返すと、政子は兜を脱いで従者に放り渡す。
それから、本陣に残っていた老年の武将たちが、口々に勝利を祝して。
「――奥方様、勝ちましたな」
最後に、藤九郎が笑いながら声をかけてきた。
「おう、藤九郎。ぬしもよくやってくれた! 影の第一功はお主よ!」
大絶賛である。周りの者がみな驚いて藤九郎に視線を送る。
「尼御台しゃま、藤九郎殿が第一功とは……?」
三浦義明が代表して説明を乞うた。
「ああ、ジジイどもには教えてもよかろう! 敵の大軍ひしめく富士川の対岸に先んじて渡り、身をひそめ、敵を総崩れにさせたあの轟音を鳴らした者こそ、ここに居る藤九郎である!」
「にゃんと」
「それに関しては、弟様――義時殿を褒めてやってぇください。あれほど巧妙に敵の死角を渡る方を、わしは見た事がない」
本人は別に隠れているつもりはないのだが、ともかく。
「しかしまあ、よくもあんな大崩れになったもんですな」
「人に戦意があろうと、馬が狂乱すれば、ああもなろうよ」
「いや、半分くらいは武者も怯えてた気がしやすがね。こちらは奥方様に対して、ですが」
「こ、こりゃ、藤九郎殿! 無礼にもほどがありましゅぞ!」
「はっはっは! かまわん! この北条政子、恐れられることには慣れておるわ!」
咎めだてる三浦義明を、政子は上機嫌でとどめる。
「ともあれだ、藤九郎。よくやった。褒美をやる」
「褒美? そりゃあ、貰えるもんなら貰いますがね、一番乗りをやったわけでも、大将首を取ったわけでもなし、大層なもんは勘弁ですぜ」
「苗字をやる! 羽柴だ! 喜べ!」
「み、苗字!?」
「羽柴藤九郎盛長――いずれその名のりにふさわしい身代をくれてやる! だから今はそれで我慢しておけ!」
政子は口の端をつり上げ、笑う。
藤九郎は知らない。
はるか後年、羽柴を名乗った下賎の出の男が、破格の出世劇を演じることを。
おなじく身分の低い藤九郎に政子が与える、それは最大限の賞賛であることを。
だが、想いは通じた。
「ありがたい。羽柴藤九郎盛長、以後も奥方様の忠実な家人として、お仕えすることを誓いやすぜ」
「うむ! これよりぬしは羽柴藤九郎ぞ! 三浦のジイが証人よ! ジイも、しかと覚えておくのだぞ!」
政子に言われて、三浦義明は驚きながらも、うむ、うむとうなずいた。
「これは……藤九郎殿、人もうらやむ大きな褒美でごじゃいますぞ。心して、奉公なしゃれませい」
「義明様、金言ありがたく……」
◆
富士川の合戦は、空前絶後の勝利と言っていい。
平家の名だたる武者、侍大将が首を上げられ、また溺死の憂き目にあい、平家は大規模遠征能力を喪失した。
この時点で、関東は中央からの独立を勝ち取ったと言っていい。
だが、もちろん政子はそれで満足していない。あくまで目的は天下統一である。
そのためには上洛して平家を倒し、なんらかの手段で政権を奪取する必要がある。
――だが、畿内西国の飢饉は数年続く。補給を考えると、都に大規模な兵は送れぬ。
未来を知るがゆえの、それは葛藤だった。
とはいえ、まずは目先の事である。
富士川の陣で手付の行賞を行い、国府に引き上げた政子は、家臣団に本格的な論功の精査を命じた。
なにしろ戦の規模が規模だ。精査にも時間がかかる。
そんなとき、政子の妹、保子が、珍しく国府を訪れてきた。
「おひさしぶりですわ、お姉さま」
「おお、保子か! ひさしいのう! 北条郷の様子はどうじゃ?」
「みんな元気ですわ。お姉さまが若者たちを連れて行っちゃったので、すこし忙しそうですけれど」
「デアルカ!」
国司館の奥に引き入れて、政子は妹を歓迎する。
「しかしうれしいぞ、保子。わざわざ会いに来てくれるとはな」
「あの、お姉さま、その事なんですけれど……ちょっと大事な話があるんですの」
「ほう? 言ってみよ」
興味深げに、政子が問う。
だが、保子は答えられなかった。
答えるかなり前に、北条義時が部屋に駆けこんでいたのだ。政子も保子もしばらく気づいていなかったが。
「姉上! 姉上! 聞いてください!」
「……おお、なんじゃ義時。あとにしてくれ。いま保子と話を――」
「火急の件ゆえこちらを先に!」
義時は、政子の返事を待たず、叫ぶように報告する。
「さきほど、信濃国の足利義兼殿より伝令が参りました! 越後国が陥ちました!」
「なに?」
政子は眉をひそめた。
政子が関東を掌握し、北陸諸国は平家が抑えている。
この状況で越後を攻める勢力があるとすれば、ただひとつ。
「――奥州藤原が動いたか?」
「その通りです! 奥州藤原氏が大軍を率いて越後に攻め入り、平家方を討ち破りました! 大将の名は……源義経!」
「にゃにぃっ!?」
その名を聞いて、政子は悲鳴のような声を上げた。
◆
はるか北の地、越後の国を、陸奥の兵たちは猛進する。
その先陣を切るのは、金で彩られた鮮やかな大鎧を纏った、小兵の若武者。
「かっかっか! 義経ぇ! 越後はぶち抜いた! これからどうする!?」
若武者に馬を並べる、巨体を誇る壮年の武者――源為朝が、笑いながら問う。
「知れた事。平家と坂東の争いに、横合いから殴りこむ……つまり」
「つまり?」
「このまま北陸道を上って都を攻め落とす! 北条政子に先んじて、天下はおれが取る!」
「かっかっか! そうこなくちゃあな! この鎮西八郎為朝、甥っ子のために一肌脱いでやるぜ! ……その方が楽しそうだしな!」




