五十五 富士川の合戦
遠征だった。
平家の招集を受け、はるばる京の都へ。
そして、ろくに食料の調達も出来ないまま、東海道を東へ。
道行く先の民の食を奪い、行き交う人の荷を奪い、ときには仲間の食糧を奪って、ようやくたどり着いた坂東の地。
富士川を渡る、その途中。
先陣に居た彼らは、見た。
対岸に陣を構える、坂東武者たちの先陣を。
軍団だった。
野卑ではあったが、放射される軍気は静かで、力強い。
ことに中央に構える一団は、整然と居並び、寸毫の乱れもない。
異様だった。
こちらは官軍で、相手は賊軍のはずだった。
なのに、どういうことだ。
これではまるで、こちらが烏合の衆ではないか。
異様な雰囲気にのまれ、動けないでいると、敵陣中央より騎馬武者が一騎、川辺に馬を寄せてきた。
夕刻である。
人の姿はおぼろげで、しかし、その騎馬武者は異様な妖気を纏っていた。
「……女?」
誰かがつぶやいた。
たしかに、騎馬武者は小柄だった。
幼い少年武者とも思えるが、それにしても、体のつくりが華奢すぎる。
――まるで都の公達のような。
脳裏に浮かんだ形容を、即座に否定する。
あれが、そんな生易しいものであるはずがない。
全身から発する異様な妖気。あれはまるで、大妖怪か怨霊の類だ。
騎馬武者の両脇に、かがり火が立てられる。
朱の光に照らされて、その姿があらわになった。
女だ。
少女だ。
おそろしく白い肌をした美しい少女が、大鎧を身につけ、法衣を羽織り、手には鉄の棍棒のようなものを持っている。
だが、誰も失笑しない。
その姿は、その悪名は、都だけでなく全国に轟いている。
八条院の猶子にして源氏の女将軍。
延暦寺の僧兵を皆殺しにした、仏罰を恐れぬ欲界の魔王。
坂東に君臨する平将門の再来にして、都を祟る崇徳院の化身。
「北条政子」
誰かが言った、その、言葉に応じて。
「左様。わしが北条政子である! 坂東によくぞ参った、平家の犬どもよ!」
魔王は、牙を剥き笑った。
◆
「――さて、都よりはるばる御苦労!」
少女の、よく通る高い声。
可愛げすらある声に込められた力は、しかし、富士川一帯を圧するほどに……超越していた。
「歓迎の馳走をと弓箭をたっぷりと用意しておったのだが、平家の公達どもはいずこに居るか!」
政子の声が響く。
あたりが静まりかえった。
平家方からも、坂東方からも、しわぶき一つない。
そんな中、左右の武者を押しのけるようにして、壮年の武者が馬を進めた。
「侍大将、伊藤忠清と申す! 此度はかように盛大な歓迎、まことに光栄至極!」
伊藤忠清。
平姓を許された平家譜代の有力家臣であり、関東八ヶ国の武士の統率を任された侍大将だ。
「――しかし、我ら長旅の末参ったもので、あいにくと大所帯。我らが大将は、いまだ後方に居る次第! すぐにお伝えいたすので、今しばしおまちあれ!」
「デアルカ! では、待たせてもらおうぞ!」
政子は馬上で腕を組み、暇つぶしとばかり、伊藤忠清に呼びかける。
「それにしても、まこと大所帯よ! 幾人で参った!?」
「畿内西国の精鋭、一騎当千の輩が、十万騎にはなろうか!」
「さすがは平家! 古今稀なる大軍勢よ! しかもすべてが精鋭とは恐れ入った! シテ、その大将は平家の誰であろうか!?」
「これは、迎える方の名を知らぬとは手抜かりがあったもの! 教えて進ぜよう! 入道相国・平清盛様が五男、平重衡様と、同じく清盛様が長子、重盛様の嫡男、平維盛様! このお二人が此度の討伐軍の大将である!」
「おお、聞いた名よ! 牡丹の花だとか光源氏の再来だとか言われて居る連中であろう! どちらも若造ではないか! 清盛入道を迎えるつもりでおったのに、肩すかしなことよ!」
「なんの、両大将ともお若いながら甲乙つけがたき名将! それを補佐する方々は、いずれも古今の戦に通じたつわものぞろい! しかも、この伊藤忠清をはじめとして、平家の御為になら命も捨てようという武士は数え切れぬ! もの足りぬとは言わせぬぞ!」
などと戯れ合っていると。
「――これは、お待たせして申し訳ない! 大将軍・平重衡、ただいま参上!」
きらびやかな武者姿の青年大将が、颯爽と川辺に馬を寄せ、名乗った。
「おお、ぬしが平重衡か! もう一人の大将はどうした!?」
「維盛殿には、本隊をおまかせしております! 本来ならば私も軽々に動くわけにはいけないのですが、佳人のお呼びとあらば行かぬわけには参らぬと、急ぎ馳せ参じた次第!」
諧謔混じりの返答に、政子はあらためて胸を反らす。
「デアルカ! ともあれ、わしに首を捧げに、よくぞ参った!」
「これはしたり! 私のほうこそ、首を洗ってお待ちいただいたのかと思っておりました!」
「ぬかしおるわ! わしの首が欲しくば兵馬に訴えるがよい! もっとも、長征に疲れ切った西国の弱兵でそれができれば、だがな!」
「はっはっは! 病み衰えた者でも、5人集まれば盗賊ひとりを討つ事が出来ましょう! ましてや我ら西国武者、疲れ切ってはいても各々が10人力の勇士、坂東の荒武者たちに、劣りはいたしません!」
――空元気でも、よくも抜かしたものよ。
政子は笑みを浮かべた。
たしかに数では勝るが、遠征の疲れ、兵糧不足による飢えは、どちらも隠しようがない。
それをわかった上での強がりを、さわやかな笑みさえ浮かべて言う。なかなか出来ることではない。
「――そもそも、御身は八条院御猶子! 夫たる源頼朝も後白河院の恩顧を受け、高位に上った身! で、ありながら、夫婦そろって朝廷に逆らうとは、忘恩も甚だしいとは思いませぬか!?」
平重衡が、名分を戦わせようと切り込んでくる。
だが、政子は即座に返さない。
重衡の言葉に、ただくつくつと、笑いを返す。
「くっくっく、本来ならば、“君側の奸たる平家を除く!”とでも言うところなのであろうがな……忘恩、反逆、それがどうした?」
「……なに?」
「お主はいったい誰を相手にしていると思っておるのだ? わしを何者だと思っておるのだ? 第六天魔王、この北条政子に、人の道理を説こうというのか!?」
笑う。
笑う。
ただ笑う。
それだけの行為が、富士川を圧した。西国の武者たちの顔色を変えさせた。兵馬を怯えさせた。
「貴様らは坂東を舐めた! 源氏を舐めた! このわしを舐めた! だから喧嘩を買ったまでのことよ!!」
「貴女は……!」
「だが、まあ、しいて言うならば……」
政子は低い声でつぶやく。
聞いたものが総毛立つほどの殺気を込めて。
「……頼朝の仇だ。生きて帰れると思うな」
政子は手に持つ鉄の金棒を頭上に掲げる。
直後、爆音とともに、金棒から火が迸った。
それが、合図であったかのように。
富士川一帯に、爆音が立て続けに鳴り響いた。
恐怖と混乱が、平家の陣を一瞬にしてかき乱した。
「なんだ!? なにが起こった!?」
「なんの音だ!?」
「化物だ! 魔軍の叫びだ! やっぱりあの女、平家に仇なす怨霊だ!」
「馬が! 馬が暴れてっ!?」
爆音は止まない。
天魔の怒号は、見えざる衝撃波となって兵馬をなぎ倒していく。
「――こ、これは!? なにが起こっている!?」
棹立ちになる馬を必死で掴みながら、平重衡が叫ぶ。
その様を、対岸で見ながら、政子は笑う。
「なになに、ただの火薬玉。玩具の類よ。それほど怯えるものでもない」
笑いながら、政子は種を明かす。
「――ただし、爆音に慣らされておらぬ軍馬は、恐慌をきたすであろうがな」
馬は臆病な生き物だ。
その馬を、軍用に鍛えるためには、様々な訓練が必要だ。
戦国時代では、鉄砲の音に怯えて暴れぬため、日常的に発砲音を聞かせて慣らすことまでする。
だが、この時代、日本に火薬兵器は存在しない。
政子が、幼いころから時間をかけて開発させた、未来の兵器。
ゆえに、鬼札。
清盛の知らぬ400年後の世界。
未知の存在には、いかな名手とて対応できない。
だから、この一大決戦まで、政子は戦に火薬を使わず、その存在を隠し通した。
それゆえ、味方にとっても未知の兵器だったが、混乱は最小限に抑えられた。
政子が馬に耳栓をするよう、命じてあったこともある。
しかし、それ以上に、坂東武者にとって怨霊も魔王も、これ以上ないほど頼もしい味方なのだ。
そして、この爆音轟く異界で、一切の混乱を見せない集団がある。
爆音に慣れた、この時代で無二の軍馬を抱える武士団。
「さあ、我が供回りよ! 北条衆よ! かかれ! 狙うは大将首よ!」
「おおっ!」
政子が鍛えに鍛えた頼朝軍の中核は、揺るがず、恐れず、富士川に馬を乗り入れた。
「魔王だ! やはりあの女は魔王だ!」
未知の恐怖は武者たちにも伝染する。
それは政子への恐怖と相まって、恐るべき化物の像を作り上げた。
「くっ! ひるむな! 化物退治は武者の本領であろう! ひるむな! かかれっ!」
平重衡の叱咤にも、軍は持ちこたえられない。
大崩れに崩れて背を向けたところを、北条の軍勢が背中から噛みついた。
「さあ行くぞ! 大将首を狙えっ!」
「……おおっ! 尼御台に後れをとってはならん! 上総の衆よ! 坂東の同胞たちよ! この上総広常に続けえっ! 怨敵伊藤忠清を血祭りに上げる好機ぞっ!」
政子の、上総広常の勢いに押されて、坂東の武者たちが、乱れながらも攻めに転じる。
政子は自ら富士川を渡った。
敵が冷静さを取り戻しては勝ち目がない。
だから、全軍を勢いづけるために、ひたすら前に出る。
「射かけよ! 斬り捨てよ! 容赦するな! きゃつらを生かして返さば、ふたたび大軍を率いて戻って来るぞ! この戦、勝つか負けるかではない! いかに多く、将の首を取るかぞ!」
追討軍の巨体が災いした。
混乱し、西へ逃げようとする先陣と、いまだ状況がつかめない後方が、ほとんど衝突の勢いでぶつかり、味方同士が争う大混乱に陥った。
「重衡様、ここは我らが!」
「お先にお逃げください!」
時間稼ぎに踏みとどまった武将たちを刈っていく。
大将首を狙うのは、こういう連中をより多く斬るためだ。そのためならば、極論、大将を逃がしてもいい。
「休むな! 休むな! 敵は飢え疲れておるのだぞ! 競って負けるような恥を晒すでない!!」
政子は自ら遠江国にまで馬を進め、空前の勝利を確定させた。
平重衡、平維盛の両大将こそ逃したものの、伊藤忠清を筆頭に、平家の名だたる郎党、侍大将がこの戦で討死。平家の軍事力の根本を崩す、決定的な大勝利だった。




